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2019年10月4日金曜日

白血病 退院から1年10カ月でランニング再開

「走れる」までには意外に時間がかかった


これが現実、体力が完全に戻るのはまだまだ先


 病名は、急性リンパ性白血病 フィラデルフィア染色体異常。(闘病の様子はこちらから)
 2017(平成29)年12月に、8カ月間にわたる抗がん剤治療を終えて退院した。(退院時の様子はこちら

 その時に、まず直面した問題が……
 
 「うまく歩けない」

ということ。
 入院中は、抗がん剤の影響で筋肉は破壊され、起き上がることもつらい状態。それでも無菌室のベッドの脇のトイレに行ければなんとかなりました。
 しかし、帰宅すればそうはいきません。復職に向けて、リハビリが必要になる。まずは、歩けるようにならなくてはならない。
 自分が元々どういうふうに歩いていたか、歩き方が解らなくなっちゃうんですね。筋力が落ちてまともに歩けない。体力もない。まさに"よちよち歩き"といった感じです。

退院から5カ月で復職、剣道も再開


 リハビリとして散歩を日課にして5カ月。距離も最初は数十mから始めて1㎞くらいは歩けるようになった。

 会社からは、「しばらくは体への負担の少ない内勤のみで」という配慮をもらって、早期に復職することができた。
 同時に、大好きな剣道も再開。当然、全力ではできませんので、リハビリの延長という感じでしょうか。ごく短時間で軽い稽古だけ。それでも、稽古をすれば疲労の回復には時間がかかる。道場に行った後の3日間は体が怠い。

 しかし、この頃は「もっと早く体力をつけたい」と焦るばかりでした。なにしろその1カ月後に、市民剣道大会に出場すると決めてしまっていましたから。今から考えると、無謀な決断でした。苦笑(その時出場した市民剣道大会の模様はこちら

筋トレやランニングはできる状態ではなかった


 退院して歩くことから始めれば、徐々に体力がついて、筋トレやランニングもやれるようになると思ってました。しかし実際にはできません。剣道はできるのに(自分のペースでですが)、筋トレやランニングはやろうと思っても、やはり無理なのです。

 剣道は瞬間的にな動作がほとんどなので、年配になってもできる武道です。一方、筋トレやランニングとなると、そうもいきません。特にランニングは持久力の問題なので、病み上がりの身体には負荷が大きすぎる。
 それにしても、走れるような気配が起こらないまま、退院して1年10カ月がすぎようとしていました。

走らなければ走れないまま


 退院後に剣道を再開できた喜びで、稽古を続けてきました。しかし、最近になって自分の技量が後退していることを自覚するようになったのです。
 以前と比較すれば10分の1程度の稽古量になっていますから、当然なのですが……。(大病以前の稽古メニューはこちら

 素振りや打ち込み、防具を着用しての稽古は、量は非常に少ないながらもやってます。今は取り組んでいないことと言えば基礎体力の強化、特に足腰の鍛錬です。
 白血病になる前は、道場での稽古がない日は、「ナンバ走り」で一日約8㎞走ってました。(ナンバとはこちら
 それを今はまったくやっていないのです。ですから、本来の足さばきや腰の入った打突ができなくなってしまった。

 技量後退の原因は解っていても、実際には走れない。走りたいけど走る力が沸き上がらないといった方が解かりやすいでしょうか。
 しかし、このままでは剣道が下手になっていく一方。

 「やはり走るしかない」

 9月に入って涼しくなったら、ごくわずかな距離でもいいから走ってみよう。
 そう決意したのは、2019(令和元)年8月のことです。

無理はしない


 9月に入ると、朝夕はめっきり涼しくなって過ごしやすくなった。
 仕事から帰って日没を待って走ることにした。夜に走るのは暑さ対策ももちろんですが、一番の問題は紫外線。

 抗がん剤の影響で紫外線にあたると皮膚が真っ赤になって"軽いやけど"になってしまうのです。実際に、退院直後に20分ほど散歩した時、12月でしたが日光に当たった部分(顔、首、手の甲)だけが腫れ上がり、後にシミになってしまったのです。
 以来、外出時にはUVローションは必携ですが、日光に当たらないことに越したことはありません。

 そして、もう一つ大事なことは、絶対に無理はしないということ。
 
 「明日もまた走りたいと思うところでやめておこう」

 以前のような限界に挑戦するような走り方はせず、この日の上限は1㎞と決めた。

走り方も忘れてた、でも楽しい!


 すっかり秋の空気に入れ替わったとある夜。
 ランニングシューズに履き替えて、川沿いのランニングコースに出た。

 「走ってみてやっぱりダメだったらどうしよう」

 そんな思いが頭をよぎる。

 ゆっくり走り始めてみる。走法はナンバ。片手刀法には必須の稽古。
 うまく走れない。「ナンバ歩き」は普段やってても、ナンバで走るのは難しい。歩いた方が早いくらいだ。

 いきなりうまく走れなくてもいい。徐々に筋力と走法を取り戻していけばいいのだから。

 やはりキツイ。500mくらいでやめておこう。明日もまた走りたいと思えるように。

 「今オレは、確かに走ってる」


2019年6月23日日曜日

平成30年 浦安市春季市民剣道大会 白血病を克服して、復帰戦は優勝!

一年間の治療を終えて大復活


帰って来た「リバ剣おやじ」


 2018(平成30)年5月。浦安市春季市民剣道大会(個人戦)に出場しました。
 この1年前の2017(平成29)年4月、急性リンパ性白血病と診断され、入院。(その様子はこちらから)
 8カ月間の抗がん剤治療と1カ月間の放射線治療を受け、この年の4月に仕事と剣道に奇跡的に復帰。
 その1か月後に、市民大会出場となった。この時、54歳。

 実は、復帰した直後に市民大会があったから、出場したのではないのです。
 この大会に出場することを決意して、それに間に合うように復帰したのです。
 本当は、もっと自宅療養をした方が良かったのかもしれません。
 しかし、仕事も剣道も早く再開したくて、自分で期限を切ってリハビリしてました。

 この半年前に退院して、強力な抗がん剤の影響で低下した体力を元に戻すため、歩くことから始めました。
 "歩くことから"と言っても、実際にはそれしかできませんでした。
 走ったり、素振りや打ち込みもやってみたりしましたが、とても続けられるような状態じゃない。
 数カ月すれば、徐々に体力が戻ってくるものだと思っていましたが、そういうものではありませんでした。

 白血病は骨髄の癌ですが、特に急性白血病の場合は診断された時点で、普通の癌でいえばステージ4の末期なのだそうです。
 その状態から一気に全身の骨髄の癌を消滅させるために、致死量にも及ぶ抗がん剤を投与するわけです。残念ながら私が入院中に、同じ病気で亡くなられた方は何人も見てきました。
 幸運にも治療を乗り越えられたとしても、その強い抗がん剤を投与してきた後遺症と戦わなければならない。
 退院後にそういう現実に直面しました。

 体が完全に元の状態に戻るのは、数年後かも知れないし、一生戻らないかも知れない。
 ならば、完全に戻るまでは待っていられない。不完全な体でも、やり始めるしかないと思ったのです、仕事も剣道も。

 幸い私の場合は、今は食事の制限も運動の制限も、医師から受けているものはありません。なので、この大会の出場を目標にして、その前になるべく早く仕事と剣道を再開しようと決意していました。
 そして、実際に復帰できたのが大会の1カ月前となったのです。

試合当日


 1カ月前に復帰して、道場で稽古できたのは数回だけ。
 しかも、体力的には試合に出られるようなものではなかった。会場まで来ただけで、ゼーゼーハーハーという有り様。
 しかし、ご心配をおかけした皆さんに、元気になった姿を見ていただきたい一心で、ここまで来ました。

 会場入りすると、他の道場の皆さんから次々と声をかけていただきました。大病を克服して戻って来たことを喜んでくれた。ありがたさに目頭が熱くなりました。
 
 そんな私に、試練がまち受けていました。
 手渡されたパンフレットのトーナメント表を見て落胆することになるとは。
 一回戦のお相手が、一昨年のこの大会の壮年の部優勝者だったのです。実は、私はその時この方に負けています。しかも今回は病み上がりで、以前よりも条件が悪い。
 もうすっかりあきらめムードになってしまい、「一回戦で負けて早く家に帰って、体を休めなさいということだな」なんて思ってしまいました。

試合開始


 立礼から大小を抜刀して蹲踞。「はじめ」の号令で立ち上がって、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えながら、右足を半歩前に出した。
 足の裏とつま先は、抗がん剤の影響でしびれていて、感覚がない。自分の足が今、どんなふうに床をとらえて接しているのかが、まったく分からない。
 しかも二刀は、片手で竹刀を保持しています。この手に力が入っていない。握力がないのです。
 こんな状態で戦えるのかと、自分でも思いました。

 しかし、状況が違うことに気がついた。攻めて相手を追い詰めているのは、私の方なのです。
 お相手の動きがよく見える。体力には自信がないものの、怖さは感じないのです。

 下がるお相手をさらに攻め込んで、その手元が上がったところを「小手」で仕留めた。
 そして、試合時間が終了し、一本勝ち。

 ちょっと自分でも信じられませんでした。どうしてこんな展開になったんだろうと。
 その後も、トントン拍子で勝ち進んでしまい、終わってみれば壮年の部で優勝していました。

壮年の部で優勝、そして総合の決勝へ


 部門別のトーナメントが終わると、最後は総合の決勝に。
 私のお相手は、青年の部で優勝した20代の強豪校剣道部コーチ。

 こんな体の状態で、ケガをしないで帰れるのかと思いましたよ。
 健康だった時も、現役選手とやる時は、少なからずそう思ってましたから、この状態ではなおさらです。
 しかし、逃げるわけにはいきませんから、腹をくくりました。

 試合が始まりました。
 私は、前に出て自分から打突の機会をつくることだけ考えた。そうすれば、あとは自然と体が動くだろうと。待っていては、現役選手のスピードに対応できませんからね。

 そんな中、互いに打突して体が接触した時に、私が大刀を落としてしまった。
 これで、反則1回。あと一つ反則を取られれば、お相手に一本がついてしまう。
 やはり、握力がないんです。こんなことで、竹刀を落とすなんて。

 ちょっと弱気になりかけましたが、気持ちを強く持ち直しました。
 そして、一足一刀の間合いから、さらに後ろにあった左足を一歩前に出しながら攻め込むと、お相手の動作の"起こり"が見えた。
 その瞬間、私の大刀の重心はお相手の竹刀の裏鎬(うらしのぎ)まで到達していました。そこから自分でも信じられないような力で、振り下ろした。

 「小手あり」

 審判の声が聞こえた。
 なんと先制したのは私。充分な手応えもありました。

 しかし、このあとがいけなかった。
 お相手は、このあと明らかに戦い方を変えてきた。このままでは分がないと思ったのでしょう。鍔迫り合いから体当たりを仕掛けて、私がバランスを崩したところを「引き胴」。これが一本になって、勝負に。

 私の体力が限界に達し、集中力を欠いたところを、竹刀で大刀をたたき落とされて反則に。
 先ほどの反則と合わせて、お相手に一本が入り、勝負あり。
 試合終了となった。

試合を終えて


 悔しさはありませんでした。 
 体力の限界までやりましたから。よくここまで出来たなと。
 「竹刀落とし」と「引き技」。総合の決勝では過去に何度もこれでやられているので、観ていた方たちにはどう映ったのかなぁなんて、心配になりましたけど……。

 閉会式を終えて着替えようとしていると、青年の部で準優勝された方が、声をかけてきた。
 「総合の決勝で"小手"を先制した時、会場からものすごい歓声が上がってましたよ。感動しました」
 観ていた皆さんがそういう反応をされていたのは、驚くとともに本当にうれしいことです。

 また、総合の決勝で主審をされていた先生は、「本当に、白血病で入院していたの?」っておっしゃってました。笑

 そして、大会役員席にいた審判長(剣道八段)も、周囲の先生方と私のあの「小手打ち」を話題にして、盛り上がっていました。二刀の「出小手」はどうやって打っているのだろうと。
 その輪の中に、身振り手振りでそれを再現しながら、笑顔でレクチャーする方がいました。この前々年の秋季大会で、私のチームが団体戦三連覇し、総合優勝までした大会の懇親会で、一人だけ笑顔のなかったあの先生です。市剣連のアンチ二刀、最後のお一人。(その様子はこちら

 しかし、もう"アンチ"ではないようです。帰り際に私に対して、「どうもありがとうございました」とあいさつしてくださった、満面の笑みで。
 正しい二刀をやっていけば、必ず伝わると信じてやってきましたが、こんなにも早く、皆さんに理解していただけるとは思っていませんでした。
 
 しかし、気の緩みは禁物。今後も見られ続けられますから、さらに精進しなければなりません。
 再び、剣道ができる喜びをかみしめながら。


追記
 この4カ月後の試合については、すでに記事を投稿しております。
 平成30年 千葉県剣道選手権大会出場の模様はこちら
 

2019年6月19日水曜日

平成29年 第16回剣正会オープン剣道大会 体調不良は大病の初期症状だった

大好きなはずの試合が楽しくない


極度の眠気とだるさ


 2017(平成29)年1月。第16回剣正会オープン剣道大会に出場させて頂きました。
 この大会は、この3年前に初めて参加させて頂き、その時団体戦で3位に入賞しています。(その模様はこちら

 この時も3位になった時と同じメンバーでチームを作って参戦。
 当日は、一番に会場入りして準備する気合の入れようでした。
 
 しかし、気持ちとは裏腹に体調が今一つ。
 思えば半年ほど前から、極度の眠気が続いている。最近は体がだるく疲れが取れない感じ。
 これから試合だというのに、ワクワクしない。
 開会式が始まったころには、「一回戦で負けて、早く家に帰りたい」なんて考えるようになっていました。

予選リーグ敗退


 3人制の団体戦で、私は大将。前二人は同じ道場の若手。予選リーグが始まりました。
 なぜか不運は重なるもので、この日はポイントゲッターの先鋒が、絶不調で負けが先行。
 中堅はウオーミングアップ中に、右足の甲を痛めて試合にならない。(後の診察で、骨折と診断)
 私も元気がなく、引き分けが精いっぱい。
 あっけなく予選敗退しました。

 「ああ、よかった」

 この時の私の正直な気持ちです。
 負けてよかったなんて、私が思うこと自体、体に異変がある証拠。
 しかし、この時はそれに気づけなかった。ただの風邪だと思ってしまった。

 午後からの個人戦はキャンセルして、駐車場に止めた車の中で休みながら、若手の試合が終わるのを待つことにしました。

 結局、昼食も取らずに大会終了までそこで爆睡。チームの若手に起こされて帰宅しましたが、その後、この体調不良は決定的なものになりました。

 自分の人生で、こんなことに直面することになるとは。
 予想なんかできませんよね。
 リバ剣して7年。52歳の冬のことです。


 急性リンパ性白血病と診断される経緯、入院、治療の記述はこちらから。
 
  

2019年5月9日木曜日

白血病 夫婦の絆

大病をしなければ気づかなかったこと


感謝の気持ち


 久しぶりの「白血病」に関する投稿になります。
 2017(平成29)年4月。急性リンパ性白血病と診断され、8カ月間の抗がん剤治療を経験した。(その様子はこちら
 現在(2019年5月)は、1年ほど前に復職も果たし、大好きな剣道も再開しています。
 
 今回は、大病をする前と後の、家庭内の"ある変化"について、書きたいと思います。

 罹患して初めて自分が幸せであったことに気づきました。
 入院中は、家族、会社、友人、病院のスタッフに対する感謝の気持ちで、毎日涙があふれた。(その気持ちを綴った投稿はこちら
 
 それまでの自分は、なんてわがままだったんだろうと。

笑顔のない家庭


 結婚した当初はよかったんですよ。私も妻も笑顔があったと思います。
 しかし子供ができ、子育ての方針に関して些細な食い違いが出てくると、険悪なムードになってきた。

 子供が小学生になったころには、必要以外は妻と会話しなくなっていましたね。
 今から考えれば、一番かわいそうだったのは子供です。両親どちらとも仲良く遊びたいのにその二人が仲が悪いんですから。まさに板挟み。どうしたらいいか分からなかったと思います。
 その後、3人とも同じ道場で剣道をやることになっても、妻とは稽古したことありませんでした。苦笑

 息子が中学生になっても、私と妻の口論は絶えません。お互い強情ですからね。どちらかが引くなんてことがない。
 当然、家庭内に笑顔なんてありません。

 そんな中でも、救いは息子が素直な子に育ってくれたこと。それだけで満足だったので、妻との関係改善なんて望んでいませんでした。
 そして、息子が高校生活に慣れたころ、私の体調がすぐれなくなってきたのです。
 

入院


 急性リンパ性白血病でした。フィラデルフィア染色体異常の。
 抗がん剤治療が始まり無菌室に入った翌日に妻を呼んで、私のことで負担をかけてしまうことを詫び、家のこと息子のことを託した。

 それまで、必要以外ほとんど口もきいてなかったんですからね。見捨てられても仕方がないと思ってました。
 ところがね、翌日から毎日、面会に来たんですよ。

 その頃の妻といえば、フルタイムの仕事を持ち、朝は剣道の強豪校へ通う息子が朝練のため4時に起床して弁当を作り、息子を送り出してから出勤。
 夜は道場の小学生の剣道の指導。休日は、息子の試合の帯同。月に数日は実家に帰って義母の介護。
 そんな殺人的なスケジュールをこなす中、ほぼ毎日面会に来てくれたのです。

妻の「笑顔」


 どこにそんなエネルギーがあるんだろと思うぐらい、すべてを手を抜かずにやり終えて病院に来る。その表情は不安でいっぱいでしたね。私もそうですが、この先、どうなることかと思っていたんではないでしょうか。
 私には直接言ってきませんでしたが、私の母には、なんとか病気が治ってほしいと言っていたそうです。

 治療が始まって4カ月が過ぎたころ、ふとあることに気が付いた。
 
 面会のときに病室に入ってくる妻の表情が、「笑顔」になっていた。
 その笑顔が、"あの頃の"笑顔と同じだったんです。

出会いはこの病院


 実は、私はこの28年前、貧血で2週間ほどこの病院の同じ病棟に入院していたことがあるのです。当時25歳。
 その時ここに、看護師1年目で勤務していたのが、のちに妻になるM子なのです。当時22歳。(現在は、他の医療機関で働ています)

 「笑顔」で私の病室に入ってきた一人の看護師さん。
 第一印象は、「ああ、もう探さなくていいんだ」って思いました。

 というのは、私は子供の頃から、結婚は「縁」だと思ってた。だから、現在の「婚活」のように相手にたくさんの条件をつけて、それに合った人の中から選ぼうとするような考えはなかった。
 例えば、小中学生の頃は、このクラスの中に自分と「縁」のある人がいるのかいないのか。大学、社会人となってからも今までにあった人の中に、「縁」のある人はいるのかいないのか。まだ会っていないのなら、いつ出会うのかぐらいは誰か教えてくれないものかと、ずっと思ってました。笑

 そしたら、この病院に入院したら目の前に突然現れちゃった。
 「病気になって入院しなきゃ、出会えなかったじゃないか」って思った。笑
 M子もその時「縁」を感じたそうで、その7年後に結婚した。

 結婚して20年。すっかり仲も悪くなって妻の「笑顔」なんてしばらく見てませんでした。
 それが、私が白血病になって同じ病院に入院し、あの頃はナース服で病室に入ってきたM子が、今は妻になって私服で病室に入ってくる。
 目元のシワは増えちゃいましたけど、「笑顔」が同じだった。

 「この笑顔をなくしていたのは、オレのせいだ」

 そう思いました。ようやく、自分のわがままに気づいたのです。

人生を一緒に


 妻が「笑顔」で面会に来るようになって、病室で二人でたくさん話しました。今まで会話らしい会話もしてなかったぶん、たくさん。

 話の内容は一人息子のことばかり。息子が成長する喜びを、ようやく二人で分かち合えるようになったんです。

 この病気になったことで、ようやく家族が一つになれたような気がします。
 時間はかかりましたが、妻と人生を一緒にやっていく実感が初めてわいた。妻もそうだったと思います。

 大病したこと、そして妻に、改めて感謝しました。


 

2019年4月8日月曜日

白血病 放射線治療終了から1年後の経過診察

治療していたのはもっと前のように感じる

放射線治療終了から1年、経過診察で
放射線科は独特の雰囲気

 あれから1年……。
 何か、もっと経っているような……。2,3年ぐらい……。

 放射線治療が終了したのは2018(平成30)年の1月です。(治療の様子はこちら
 その後、PET-CT検査、復職、剣道再開、息子の大学受験そして入学など、目まぐるしい日常を過ごしてきたので、治療を受けていたのはもっと前のような気がします。

 "目まぐるしい"と言いましたが、一日の"濃度"が濃いとでも言いましょうか、時間を大事にするようになりましたね。
 急性リンパ性白血病と診断されてからは、「今日死んでも悔いがないようにしたい」そういう思いがいつもあります。
 
 言わなければならないことを言う。やらなければならないことをやる。プライベートが自然とハードワークになっていると思います。本当はそれではいけないと分かっているんですが……。
 性分なんですね。若いころ、親によくこう言われてました。
 「そんなに根(こん)を詰めるな」と。

 しかし、見方を変えれば"毎日が充実"しています。本当に。
 この病気にならなかったら、こういう充実感のある日々を過ごすことはなかったと思います。
 もっと不満だらけの毎日でしたね、病気になる以前は。身の回りのあらゆることに、不満を持っていた。しかも、自分で「不満だらけ」と気づいていなかった。命にかかわる病になって初めて分かったんです。

 今は、その"不満"がない。感謝しかないんです。何でもない日常が本当にありがたい。
 だから、ちょっと頑張っちゃうのかもしれません。


 今日の診察の結果は「異常なし」。経過は通常よりも良いそうです。

 今日は、妻も仕事が休みで家にいるので、何か美味しいものを買って帰ります。

2019年3月27日水曜日

白血病~退院後の日常~

5年間の寛解維持を目指して


健康な状態に戻るわけではない


 急性リンパ性白血病フィラデルフィア染色体異常になり、化学療法(抗がん剤治療)、放射線治療を受け、1年ぶりに復職した。

 好きな剣道も再開して、子供のころに目標にしていた全国大会出場を目指して、千葉県予選にも出場できた。1回戦負けでしたけど。

 仕事も剣道も病気になる前のように頑張ってみて、ちょっと気づいたことがあるんです。

 白血病は、抗がん剤の影響で減少した白血球などの血液成分が回復すれば、食事も運動も制限はありません。

 なので、一連の治療が終わり、自宅での生活が始まれば、次第に体力がついてきて、元の状態に戻れると思っていた。

 これがそうではなかったんですねぇ。
 リハビリがてらに自宅周辺をウォーキングしたり、食事制限もなくなったので好きなものをたくさん食べたりして、徐々に体力はつきました。ある程度のところまでは。

 ですから、仕事も剣道も再開した。しかし、一旦疲れがでると、回復するのに時間がかかるのです。明らかに以前と違う。
 仕事でも「今日はちょっと疲れたな」なんて思っても、翌日になれば何てことありませんよね。それがそうじゃない、翌日もその疲れがそのまま引き継がれてる。剣道の稽古に行くと、3日間は疲れがとれない。仕事に行くのもキツくなるんです。
 
 月1回の通院の際、主治医にそのことを聞くと、やはり長期の抗がん剤治療を受けた影響なのだそうです。
 それでも私の場合は良い方らしく、その他に困ったことといえば足のつま先のしびれぐらいですかね。このしびれは、一生なくならない人もいるそうなので、長く付き合わなければならないと思ってます。

 そんな状態なので、仕事が終わればまっすぐ家に帰ります。
 剣道の稽古も週末に1時間だけ。しかし、冬場の今は稽古はお休みしています。汗をかいた後に外の冷たい風に当たるのが怖いんです。この病気になってから、風邪をこじらせて肺炎になったことが2回ありますから。退院して1年以上たち、体の抵抗力もついてきているので、もうそこまで重症化することはないと思うのですが……。

 無理をしなければ、健康な人とほとんど変わらない生活が送れている。入院中の状態と比べれば、まあ、よくここまで回復したなと思いますね。感謝の気持ちでいっぱいです。

 癌の経過観察はあと4年。長いなぁ。


 ちなみに、この急性リンパ性白血病(フィラデルフィア染色体異常)という病。私の場合(50歳代で、骨髄移植せず)は、5年後の生存率は10パーセント以下なのだそうです。


2019年3月24日日曜日

復職→すぐに肺炎に→再入院→退院直後→千葉県剣道選手権大会出場

危険な挑戦


復職して4カ月で肺炎になり再入院


 8月のある日曜日の午後、翌月に迫った千葉県剣道選手権大会に向けて実践的な稽古相手を求めて、隣町に出稽古に行きました。
 気温は35℃ぐらいあったと思います。無謀ですよね、白血病で長期間化学療法(抗がん剤治療)を受けた後に、ガチンコで剣道やってるんですから。

 入院中、ベッドの上でいつもこんなことを考えていました。

 「いつ死んでも悔いが残らないように、今やれることはやっておきたい」

 それでもやれることは限られていました。
 妻や息子が面会に来れば、今伝えなければならないことを真剣に話し、一時退院すれば、家の中の物の整理と不要な物の処分をする。そんなことぐらいです。体力がありませんからね。
 今まで購入をためらっていた物がいくつかあり、後々必ず必要になるからと、妻に相談なしで買ったりして、喧嘩にもなりました。

 「死んだら何もできない」。そんな考えがいつも頭にあって、知らず知らずのうちに無理をするようになっていたんですね。

 そんな状態ですから、退院し復職してすぐに剣道も再開しました。病み上がりで出場した市民大会で優勝してしまったために、その4カ月後に行われる県大会にも出場することを決めた。すると必然的に稽古にも力が入り、無理を重ねるようになっていったのです。

 で、その8月の暑い日。盆休み中でした。
 出稽古に行ってガチンコで剣道をやった帰り、車を運転中にあまりの疲労から眠気が差してきた。30分ぐらい仮眠してから帰ろうと思い、交通量のほとんどない道端で停車して寝てしまった。
 
 「寒ーいっ!」
 飛び起きましたよ。外を見ると辺りは真っ暗。エアコンの冷たい風が直接体に当たってました。しかも全開で。時計を見たら3時間たっている。

 寒さでガタガタ体が震えながら、急いで帰宅して熱を計ると37度3分。「まずい、風邪を引いたかも」と思いましたが、翌日も一日寝ていれば熱が下がると思い、安静にしていましたが38度台に上昇。その翌日は39度台になった。

 発熱したら、すぐに病院に来るようにと、主治医から言われていたので、あわてて病院に行きました。

 「肺炎です」って。そのまま入院となりました。

 「風邪を引いただけでも重症化しますから、気をつけてください」と退院するときに主治医に言われていました。
 
 あれはこういうことなのか、と思いましたが遅かった。
 昨年8カ月間、入院中お世話になった看護師さんたちに半年ぶりに再会した。気まずかったですね。出戻りです。
 幸い癌は再発しておらず、1週間の入院ですみました。
 

千葉県剣道選手権大会に出場


 肺炎で1週間入院して退院してきた時には、千葉県剣道選手権大会は1週間後に迫っていました。

 普通、出ませんよね。こんな状態で。
 白血病の長期抗がん剤治療を受けた直後で、後遺症満載の体で、肺炎になって入院し、退院後1週間で公式戦なんて。

 でも、小学生の頃に目標にしていたんです。将来、全日本剣道選手権大会に出場することを。
 千葉県剣道選手権大会は、その千葉県予選です。
 「死ぬ前に、子供の頃に思い描いた夢にチャレンジしておきたい」
 その一心で出場を決めました。

 市民大会で優勝していますので、出場要件はクリアしています。
 しかし、問題は年齢です。その時、私は54歳。

 ルール上は年齢の上限はありませんので、出場可能です。しかし、この大会は全国大会の予選であり、公式戦です。
 普通のスポーツでいえば、アスリートが出場する大会なのです。ですから、出場者は20代~30代がほとんど。例年ですと、最年長者は40代前半のようです。
 私が出れば、ダントツの最高齢間違いなし。

 それでも、やっておかなければならなかったんです、“夢への挑戦”を。

 結果は、予想通り1回戦負け。(この試合については、こちらをご覧ください)
 お相手は30歳の方でした。制限時間内に決着がつかず、延長で20分ぐらい試合をしてました。

 悔しさ――。ありましたよ、悔しかった。また来年出場しようと思いましたね。

 そして、喜びと安堵感。間に合った、夢にチャレンジできたという。

 かなり無謀でしたけどね。


 前の「白血病」の投稿はこちら

2019年3月22日金曜日

白血病から生還、復職、剣道再開

白血病から生還


復職


 急性リンパ性白血病、フィラデルフィア染色体異常と診断されてからちょうど1年。
 8カ月間の抗がん剤治療(入院)と1カ月間の放射線治療(通院)、そして3か月間の自宅療養を経て、2018年4月に元の職場に復職しました。

 会社には特別な配慮をしていただき、リハビリがてら負担のかからない仕事から始めさせてもらえました。
 白血病と診断された時は、まさか仕事に復帰できるとは思いませんでしたので、うれしかったですね。会社や上司、同僚の皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 この病気にかかって、治る見込みがないと会社に判断され、退職を余儀なくされてしまう方も多いと聞きます。命が危ぶまれる病気にかかって、そのうえ仕事も失う…。胸が詰まります。

剣道再開


 復職と同時に剣道の稽古も再開しました。病に倒れる前までは、稽古のし過ぎだったと反省しきり。(以前の稽古メニューはこちら
 最初の1カ月間は、週1回1時間の稽古だけに抑えました。本当は、もっとやりたかったんですけど…。稽古をすると3日間ぐらい疲労が取れないんです。抗がん剤治療の後遺症ですね。

 しかし、1カ月後に開催が予定されている市民大会には、このときすでに出場する気満々になってました。試合大好きですから。
 そして、試合当日を迎えました。

復帰戦


 当日、試合会場について、トーナメント表を見て愕然としました。1回戦のお相手が、一昨年の大会の優勝者。その時、私はこの方に負けているのです。しかも今回は、病み上がり。勝ち目はありません。

 「とっとと1回戦で負けて、早く家に帰って体を休めよう」

 そう思いましたね。とにかくこのころは、体を休めたいということばかり考えていましたので。

 そんなあきらめムードの中、1回戦が始まった。蹲踞の姿勢から「はじめ」の号令がかり、立ち上がって上下太刀に構える。(注:上下太刀とは二刀の代表的な構えの一つ。上段の構えの一種)

 「あらっ?」

 ちょっと様子が違うんです。私は体力も筋力も極端に落ちました。稽古もしてません。しかし、お相手の動きがよく見える。まったく怖くないんです。気づけば体力がない私が、お相手を追い込んでいる。しかも、足の裏とつま先は、抗がん剤治療の後遺症で感覚がないままなのに。

 終わってみれば、この大会、優勝していました。

 何とも不思議なものですね。長く過酷な闘病生活から得たものが、私の剣道の成長にも作用したのでしょうか。

 表彰式のあと、周りの方々から「本当に白血病で入院してたの?」なんて言われてしまいました。笑 (この大会の試合内容は、こちらの投稿で記述しています)

 しかし、これでちょっと自信をつけてしまったんですね。
 この4カ月後に行われる、千葉県剣道選手権大会(全日本剣道選手権大会千葉県予選)に出場することを決意してしまったんです。(出場の模様はこちら


前の「白血病」の投稿はこちら
次の「白血病」の投稿はこちら
 
 
 
 

2019年3月17日日曜日

白血病の治療~私の場合~⑰ 注意点

特に気をつけたいこと


病院選び


 白血病と診断されて、会社の上司に報告すると、こんな話が返ってきた。
 上司の甥っ子が高校生の時に白血病になり亡くなったと。その親御さん(上司の兄)は、病院選びを間違ったと、後で大変後悔されていたそうです。どうも最初の段階で適切な治療を受けることができなかったらしのです。

 私が入院中にも、やはり他の病院で適切な治療を受けることができずに、転院してきた方を何人か見ました。その方たちのその後の治療経過は、あまりよくなかったように思います。

 白血病を疑われたら、血液内科のある総合病院を受診しなければなりません。そして、必ず「無菌室」の設備のある病院であることを確認することが大事です。

 私の場合は、自宅から最も近い病院が某大学病院だったので、その点はラッキーでした。

病院は1カ所に、そして薬は「院内処方」で


 先ほど病院選びでは、血液内科のある総合病院を受診すべし、と言いました。これは、他に持病があって病院にかかっている場合、複数の病院や薬局の医療費は合算されず、個別に限度額認定が適用されるからです。

 例えば、もともと糖尿病でA病院にかかっていて、毎月検査と薬の代金が1万円かかっていたとします。白血病になりB病院に入院して限度額認定を受け、上限の88,000円(前年の収入によって変動します)を毎月支払っていたとする。
 入院での治療を終えて通院で治療を続ける場合、以前のようにA病院に糖尿病の治療で受診すると、合算されませんから1万円の支払いが発生します。白血病の薬を院外薬局で求めれば、それも合算されませんから支払いが発生します。特に白血病の薬は非常に高額ですから、ここでも限度額適用の上限の88,000円の支払いが発生します。(申請すれば一部は戻りますが、全額は戻りません)
 これを、糖尿病もB病院で治療し、白血病薬も院内処方にしてもらえば、88,000円で全て収まってしまう。それ以上の支払いが発生しないのです。

がん保険加入は必須


  • 受け取ったがん保険の診断給付金(一時金)は残しておく方がいい
     がん保険の診断給付金(一時金)の必要性は、「白血病の治療~私の場合~②」の中で書きました。入院1~2カ月目に必要です。その後、各種保険請求の手続きが済めば、使った一時金を戻しておくことができます。
     診断給付金は、がんと診断された最初の1回しかおりません。再発したり、新たに違う癌になっても一時金はもう出ません。ですから、万が一の再発のために備えておく必要があると思います。

  • がん保険のカスタマイズ
     がんになった時に一番頼りになる保険は「がん保険」であることは、言うまでもありませんが、大事なのはその内容です。
     現在は、付帯する保障内容は様々なものがあり、特約をつけられるものもあります。いたれり尽くせりというところでしょうか。しかし重要なのは基本の部分です。
     それは、「診断給付金(一時金)」と「入院給付金」です。中でも、「入院給付金」は最も手厚い保証を設定しておくべきです。
     「入院給付金」は通常の医療保険で保証されているから、わざわざがん保険に入る必要はないという方がいます。しかし、実際にがんになってしまったら、ちょっと心細いですね。通常の医療保険の「入院給付金」の支払い期間には“期限”があります。3カ月間とか6カ月間という。それに対して、がん保険の「入院給付金」は無期限です。しかも再発しても無期限で給付されるものがほとんどでしょう。
     「入院給付金」の給付額はカスタマイズ可能です。〈入院1日あたり5千円の給付が1口〉になっているものが多いと思います。それを何口にするかで、1日の給付額が決まります。例えば、2口で契約すれば1日1万円の給付になる。1カ月の入院で30万円が給付される。かかる医療費は限度額適用認定が受けられますので、月に上限いっぱい支払ったとしても10万円前後。残った20万円で、ケータイ料金や家の光熱費などを支払うことができます。最低でもこれくらいの保証はつけておきたいところです。
     一方、「診断給付金」(一時金)は保険会社によって、金額に差があります。私の場合、この「診断給付金」が非常に役立ちました。(「白血病の治療~私の場合~②」に詳しく記載)最低でも50~100万円ぐらい給付されるものを選びたいですね。


食事や運動に制限なし!寛解を一生維持することを目指す!


 注意したい点で、大まかなところは以上です。細かいところはまた別の機会に書きたいと思います。

 白血病は、寛解して白血球が正常値になって、免疫力が上がれば、食事や運動に制限はありません。
 白血病になる以前の生活にもどることができるのです。

 しかしこれは、“完治”したわけではない。“根治”できたわけでもないのです。医学の現状として、この診断を下すことは不可能なのだそうです。
 再発の確率があまりにも高く、そのメカニズムも解明されていない。

 人智でできることは、「寛解を一生維持することを目指す」こと。

 まずは、他の癌と同様、5年間の経過観察で寛解の維持を目指します。

忘れてはならないこと


 私は、52歳で急性リンパ性白血病と診断され(この年齢でこの病名ですと、5年後の生存率は10パーセント以下)、入院1カ月目で寛解し、奇跡的に現在まで約2年間寛解を維持しております。
 しかしながら、長期間治療を受けても寛解しない方がたくさんいらっしゃる。寛解しても、1,2カ月で再発する方も多い。何度も移植をし、あらゆる治療法を尽くしても寛解せず、旅立たれていく方も多い。また、寛解しても合併症で命を落とす方もいらっしゃいます。副作用のつらさのあまり、自ら治療を中止してしまう方も。
 そういった方々がたくさんいらっしゃることを、私たちは絶対に忘れてはなりません。

 私は、白血病と診断された直後から、家族の者に対して、このことをきつく言い渡しておりました。
 「私が、もし寛解したとしても、絶対に喜んだり、浮かれたりしてはいけない。寛解しない方がたくさんいる。再発する方がたくさんいる。その方々の気持ちを考えるように」と。
 
 今でもそのことを、よく守ってくれています、家族みんな。涙が出ます。


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2019年3月16日土曜日

白血病の治療~私の場合~⑯ 治療を振り返って

この一年で経験した大事なこと


医療の限界


「私はこの治療がいい治療だとは思いません」

 セカンドオピニオンで訪れた病院の医師が、1時間の説明の後、私の帰り際にかけてきた言葉です。骨髄(臍帯血)移植の実績では、日本で有数の病院の血液内科医です。今でも耳の奥から離れない。

 医者も“いい治療”だと思っていないのに、患者に移植をすすめなければならない。
 患者も“大きなリスク”を解ったうえで、移植を選択する人が大半。

 これが白血病治療の現状です。ぶっちゃけ、一か八かなんですよ。(セカンドオピニオンについては「白血病の治療~私の場合~⑦」をご覧ください)

 私は移植は選択しませんでした。今も答えは出ていません。それが正しかったのかどうか。答えが出るのは、私が死んだときなんでしょうね。
 寿命いっぱいまで生きれば、「正解」だったということ。骨髄の癌が再発して死ねば「間違っていた」ということですね。いずれにしても、私は生きているうちに、その答えを知ることはできない。なんて因果な病気なんでしょうか。

「感謝」の意味


 一方で、いい経験になったと思う部分もあります。今まで「感謝」の意味がわかっていなかった、ということに気づけたということです。当然、「感謝」の意味はわかっていたつもりでした。

 抗がん剤の投与が始まり、無菌室のベッドの上で自分の体が壊れていくのが分かる。奈落の底に落ちて行くような感じがする中で、今までの人生が走馬灯のように思い起こされる。そんな時、自分はなんてわがままだったんだろうと気づくんですね。なんでもっと、周りの人に感謝してこなっかたんだろうと。

 今の自分の環境を考えたら、自分は幸せ者だったんだと気づき、涙があふれました。
 元気になったら、人の役に立ちたい、そう思いました。その気持ちは今も変わりません。

がん治療にはお金がかかる


 白血病の治療費については、「白血病の治療~私の場合~②」で書きました。
 いろいろな保険制度やがん保険、入院保険などを活用すれば、治療費や生活費は心配ないと言いました。

 これらの社会保険制度や生命保険は、通院や入院で仕事を休業しているときに、最も大きな保障が受けられます。しかし、これらは期限や制限があります。


  • 傷病手当……所属する会社で社会保険に加入していれば、休職している間は、給与の6~7割程度に相当する額が受け取れます。しかし、同一の病気では最長1年6カ月が、支払いの限度です。当然ですが、1年6カ月以内であっても復職すれば受け取れなくなります。
  • 限度額適用……国民保健、社会保険、共通の制度で、前年の収入に応じて医療費の支払い限度額が設定されているというもの(差額ベッド料金など、自費による医療費の支払いは含みません)。白血病の場合、退院した後は服薬と月一回の通院になります。癌ですから、寛解が続いていたとしても5年間は服薬と通院、経過観察が必要です。しかし、この薬の元々の値段が高い。限度額適用の上限いっぱいの額を、5年間は払い続けなければならないのです。
  • 生命保険……白血病で該当してくる保険は、がん保険と入院・通院保険などの医療保険です。しかし、手厚い保証は入院している時だけ。退院した後は通院の保証がありますが、退院後120日間とか180日間とか、期限があるものがほとんどだと思います。
 
 このように、退院して一定の日数が過ぎたり、復職したりすると、傷病手当や保険金の受け取りはなくなります。しかし、服用薬が非常に高額なため、経過が順調だったとしても限度額適用の上限いっぱいの額を払い続けなければならない。これは、かなりの負担になります。

 退院後もかかる高額な薬代。これは、できるだけの対策をとっておく必要があります。


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2019年3月13日水曜日

白血病の治療~私の場合~⑮ 自宅療養

入院と同じくらい大事な期間


復職をあせって後悔


 約1年かけて化学療法(抗がん剤治療)と放射線治療を終えました。PET-CT検査の結果、「癌細胞はもうどこにもありません。いつ仕事に復帰してもいいですよ」と主治医から言われた。
 私も、退院したらなるべく早く職場に復帰しようと思っていました。しかし、実際は仕事に行けるような体の状態ではありませんでした。

退院後も続く抗がん剤による後遺症


  • 体力・筋力の低下……8カ月間の入院生活で筋力が落ち、特に膝から下に力が入らない。階段の昇降ができない。段差が怖い。
  • 思考能力・集中力の低下……脳の情報処理速度が遅くなる。視覚から入る大量の情報を処理しきれなくなり、苦痛に感じる。スマホやPC、テレビの画面を見るのがつらい。長文を読みたくなくなる。
  • 足のしびれ……足の裏と、つま先がしびれる。フローリングの床を素足で歩くと、砂がまいてあるかのように感じる。感覚があまりないので、スリッパを履いたのも脱いだのも、足元を見ないと分からない。退院から1年たった今も、唯一残る後遺症。
  • 皮膚が薄くなる……表皮が薄くなるので、肌が露出している部分(腕など)が家具などの硬いものにぶつかると、表皮がすぐにむける。点滴の管を押さえるテープなどを勢いよく剥がすと、皮膚まで剥がれる。日光を浴びると、表皮が薄いため、紫外線が真皮まで届いて軽いやけどのように赤くなってしまう。外出時はUVローション必携。
  • 体温の調節がうまくいかない……冬場、室内でも防寒着を着ていた。カイロは欠かせない。


リハビリ


  • ウォーキング……自宅周辺を歩くことを日課にした。初日は500メートルぐらいから始めて、徐々に距離を伸ばしていった。半年後には一日4キロメートル歩くようにした。現在も継続中。
  • タイピング……復職準備のため脳トレが必要と考えた。PCのブラインドタッチができなかったので、これを機会にタッチタイピングソフトで練習した。最初のうちは集中力が持続しないため、一日20分間だけ。毎日続けた。これは効果絶大で、3カ月後には最新のテキストでWord、Excel、PowerPointの演習をやるようになった。そして、1年後にこのブログ開設にもつながった。
  • 料理……買い物に行って→料理して→食べる これがすべてリハビリになった。一食食べるごとに体力がつくのがわかる。味覚障害は、抗がん剤治療終了から1カ月ぐらいでなくなっていた。食の有難さ、食べることの喜びを身に染みて感じた。


自宅療養中の食事と運動


 白血病は白血球数が基準値以上になれば、食事も運動も制限がありません。好きなものを食べられるし、好きなだけ運動もできます。
 しかし、実際にそうなるには体力が必要です。長期入院で衰えた体は抗がん剤の影響もあり、体力が戻るのにはかなり時間がかかります。ある程度のところまではすぐに戻りますが、その先がなかなか戻らない。
 退院して復職し、1年がたった今も、元の体力には戻っていません。

家族の理解と協力があっての自宅療養


 退院して自宅に戻り、療養とリハビリに専念できたのは、家族の理解と協力があったから。安心できる環境、これが何よりだたと思います。

 我が家は、家族3人とも剣道をやっています。息子とは息子が小学校から中学卒業まで、毎週一緒に稽古をしてきました。高校生になった後も、たまには一緒に剣道ができることを楽しみにしていた矢先に白血病に。息子にも寂しい思いをさせてしまった。

 妻は、剣道の強豪校に通う息子が朝練のため、毎日4時に起床して弁当を作り、息子を送り出してから仕事に行く。帰宅してからは息子の夕食のしたくをして、入院中の私のところに面会に来る。週2日は道場で小学生の剣道の指導。休日は息子の試合の帯同。月一で2日間、実家の義母の介護のために帰郷する。そんな殺人的なスケジュールを8カ月間もこなしてくれました。

 妻と息子の支えがあって、つらい治療も乗り越えることができ、復職にむけてリハビリに励むことができたと思っています。

仕事の復帰はあせるべからず


 復職したのは退院して4カ月後のこと。会社に迷惑をかけたくない、という一心から、早めに復帰しました。
 しかしこれが、数カ月後、後悔することになったのです。


2019年3月11日月曜日

池江璃花子さん頑張って!私も白血病患者です ②

池江璃花子さんが3週間ぶりのツイート!


抗癌剤治療のつらさを吐露


 2月12日、Twitterで白血病であることを公表された池江璃花子さん。世間に衝撃が走りました。
 3月6日、約3週間ぶりのツイートがありました。「思ってたより、数十倍、数百倍、数千倍、しんどいです」

 これ、化学療法(抗がん剤治療)をやった人の、率直な感想です。私もそうでした。

 そうなると、白血病の種類としては、「急性」ではないでしょうか。

池江璃花子さんの容体、病名、種類


 白血病はまず、2つに大別されます。「慢性」か「急性」。病気の進行の度合いによってどちらかになります。アスリートである池江さんが「数千倍、しんどい」と言ってますから、寛解導入療法による強い抗がん剤の投与が行われていると思われます。よって、「急性」であると推察されます。

 次に、それぞれに「骨髄性」か「リンパ性」があります。血液を造る造血幹細胞のどの部分が癌になるのかによって決まります。これは、正式な病名の発表を待たなければわかりませんが、どちらであっても病状はあまり変わりありません。
 
 中心静脈点滴で抗がん剤の投与が始まって最初の2カ月間は、一番つらい時期だと思います。私も剣道をやっておりましたので、体力には自信がありました。しかし、抗がん剤の投与が始まると、あっという間に体力が奪われます。全身の筋肉が破壊されてしまうんです。歩くことも、ベッドの上で起き上がることも、しゃべることすらつらくなる。奈落の底に落ちていくような気がしました。

 池江さんは、今まさに、そういう状態で治療を受け、闘病されているんですね。

今日3月11日、数回のツイート


 たくさんの方々からの励ましに対してお礼を言い、東日本大震災に思いをよせ、水泳の日本選手権の観戦を呼びかけておられました。
 今まで経験したことのないようなつらい状況の中で、こんなことが言えるなんて、人間的にもメンタル的にもすごいです。

 この先、まだ長い治療が続きますが、必ず乗り越えてください。応援しています!


前回の池江璃花子さんに関する投稿はこちら
ブログ内の「白血病」に関する投稿はこちら
 

白血病の治療~私の場合~⑭ 白血病は完治はしない

「寛解」を維持する


再発のリスクは一生


 前回の投稿で、化学療法(抗がん剤治療)と放射線療法の最終的な検査として、PET-CT検査を受け、「転移(浸潤)なし」という診断だったと書きました。

 実は、医師のこんな言葉が続いたのです。
 「寛解も維持しています。遺伝子レベルで調べても癌細胞はありません。しかし、白血病が治ったわけではありません」

 やっぱりそうなんだ、と思いましたね。1年前、入院してすぐに妻と二人で主治医から説明を受けた。
 「急性リンパ性白血病です。しかも、フィラデルフィア染色体異常の。完治することはありません。寛解(骨髄の癌が消滅)しても再発のリスクは一生続きます」

白血病の原因は解明されていない


 白血病で解っていることは、「感染しない」「遺伝しない」ということだけ。原因は解明されておらず、治療法も確立されているとは言えません。

 最近の研究では、人によって造血幹細胞のどの部分が癌になるかが異なるということが解ってきて、白血病を数百種類に分類できるようになったようですが、なぜそこが癌になるのかが、解明されていない。原因が解らないから、根治ができないんです。

 ですから、寛解しても2カ月で再発する人、1年で再発する人、5年で再発する人、10年で再発する人といろいろいるわけです。

 しかも医師からこうも言われました。「再発した場合は、寛解することは難しい」と。

 これが、白血病治療の現状です。

 水泳の池江璃花子さんが白血病を公表されてから、白血病の専門医でもないタレント医師たちが、リスクの説明も一切なしに「白血病は完治できるようになってきた」なんて言っていますね。一体どの口がそんなことを言うんでしょうかねぇ。

 例えば、私ですが、50歳代で急性リンパ性白血病、フィラデルフィア染色体異常ですので、5年後の生存率は10パーセント以下です。何を根拠に「完治できる病気」と言っているのでしょうか。

「寛解」を一生維持することを目指す


 完治(根治)ができないのであれば、医師をはじめとする医療スタッフと患者が協力してできることといえば、「寛解が一生続くことを目指す」ことなのです。“ゴールのないマラソン”のスタートです。

 ですから退院した後も、服薬と月に一度の通院(血液検査をします)は続きます。

 そしてまずは復職を目指すことになりますね。仕事はしなければなりませんから。しかし、すぐには無理です。そのへんは甘く考えてました。退院すればすぐに仕事に復帰できるんではないかと。

 とことがそれはとんでもない話でした。仕事なんて全然無理。長期間の入院と抗がん剤の副作用で体はボロボロ。何しろ、まともに歩けないんです。足が前にでない。横断歩道を信号が“青”のうちに渡り切れないんです。
 筋力の衰えは想像以上です。特に脚力の低下が著しい。

 それでも新たな目標に向かって歩み始めることができたという感謝の気持ちでいっぱいでした。そして、人生でやり残したことをやっておこう、そう思うようになっていたのです。


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2019年3月10日日曜日

白血病の治療~私の場合~⑬ PET-CT検査

化学療法と放射線治療の結果を確認


発病してから約一年


 約8カ月間の化学療法(抗がん剤治療)を終えて退院し、通院で約1カ月間の放射線治療を受けた。骨髄移植はしませんでしたが、ひと通りの治療は終了しました。長かったですねぇ、本当に。
 ある意味、貴重な1年間でした。このころ私は53歳。残りの人生をやっていく上で、必要な経験ができたのかも知れない、と思いました。人生観変わりましたからね。

 頭はスキンヘッド。眉毛なし。まつ毛なし。筋力なし。激やせ。よちよち歩き。
 入院中は気になりませんでしたが、退院してから人目が気になりましたね。誰が見ても癌患者だとすぐ分かる。相当ヤバい状態だと思ったでしょうね。

 特に困ったのが、ご近所さんに会ったとき。変わり果てた姿を見て、皆さん驚きますので、会う人ごとに説明しなければならない。おかげで、白血病のレクチャーはだいぶ上達しました。笑

 そんな中、最終的な検査にのぞむことになりました。

 PET-CT検査。1年前にもやりました。その時が初めて。

 装置は、普通のCTの数倍の大きさがあり、目の当たりにすると異様な雰囲気に圧倒されます。検査を受ける前に、造影剤を点滴で投与するんですが、腕に針を刺して造影剤を注入する段階になると、検査技師と看護師は別室に退避します。放射性物質なんですね、その造影剤は。
 1年前は、自分がとは知らずに検査を受けてますので、ここで初めて自分が大変な病気になっているんではないかと、気づき始めました。当時のことを思い出すと、今でも怖いですね。

 そしてちょうど1年後に同じ検査。あの時の、何とも言えないような気持……、何かの間違えであってほしい……、自分のことではないような……、そんな気持ちがよみがえってきましたね。あれから1年。長かったなぁと。

検査の結果


 3日後にPET―CT検査の結果を聴きに再び病院へ。

 「これが1年前の検査の画像です」

 PET-CT検査とは、全身の癌の状態が一目でわかる検査方法で、画像は全身の骸骨姿のレントゲン写真のようで、しかも非常に鮮明です。
 
 「黒い部分が全部“”です」

 見せられた画像は、全身の骨が全部真っ黒。かろうじて白いのは、手の先と足の先だけ。約80パーセントの骨髄が癌化していた。

 「こちらが今回の検査の画像です」

 骨は全部真っ白でした。

 「転移(浸潤)もありません」と主治医。
 

 以前、「白血病の治療~私の場合~①」で“寛解”はフルマラソンに例えたら最初の給水所に行ったところ、といいました。
 また、「白血病の治療~私の場合~⑪」では、“退院してもまだゴールではない”、と言いました。

 急性リンパ性白血病フィラデルフィア染色体異常と診断されて約1年。ようやく、フルマラソンのゴールまで、たどり着きました。感慨深いですね。生きてるんだなって思いました。

 しかしそこは、これから始まる“ゴールのないマラソン”のスタート地点でもあったのです。


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2019年3月7日木曜日

白血病の治療~私の場合~⑫ 放射線治療

白血病はがん細胞が「浸潤」する


放射線治療で残っている癌細胞を消滅


 「白血病って、放射線治療するの?」って思う方、多いと思います。

 “固形癌”なら分かります。皮膚がんや肺がん、食道がんなど、その部位に放射線を照射するわけですよね。

 “流動性の癌”である白血病は、全身の骨髄に癌が広がります。ですから、手術で取り出すことはできません。大量の抗がん剤を点滴で投与して、癌を消滅させるわけです。
 
 しかしながら、骨髄以外の場所にも癌細胞が入り込むのです。流動性の癌である白血病の場合、これを「浸潤」と言います。固形癌の場合は「転移」ですね。

 浸潤した場合、最も危険な場所は、脊髄です。
 そのため、化学療法(抗がん剤治療)と並行して、髄液検査髄注を行ないます。
 尾てい骨から背骨、脳の表面まで、いわゆる中枢神経を覆っているのが髄液です。髄液検査は、背骨に針を刺して髄液を抜き取って検査します。抜き取った分と同じ量の抗がん剤を同じ場所に注入します。これが髄注です。

 そして男性の場合は、最も浸潤しやすい場所があるのです。それは精巣(睾丸)なんです。(白血病の初期症状については、このブログの「急性リンパ性白血病」のページに記載しています。)

放射線治療


 白血病と診断される3カ月ほど前、微熱盗汗(大量の寝汗のこと)、精巣(睾丸)肥大が始まりました。
 精巣(睾丸)は徐々に大きくなり、最終的には3倍ぐらいの大きさになりました。白血病の癌細胞が精巣(睾丸)に「浸潤」していたんですね。

 入院して化学療法(抗がん剤治療)が始まると、すぐに精巣(睾丸)は元の大きさに戻りました。
 しかし、精巣(睾丸)に浸潤した癌細胞が完全に消滅したかどうかは分からない。少しでも残っていれば、寛解したとしても、そこから癌細胞がひろがっていってしまうのです。
 なので、化学療法(抗がん剤治療)が終了した後に、精巣(睾丸)に放射線を照射して、浸潤した癌細胞を完全に消滅させなければならない。これを通院で行なうわけです。

 放射線治療は全17回。日曜日以外はほぼ毎日通院して受けました。
 放射線治療も健康保険の適用ですので、限度額以上に医療費を支払うことはありません。(白血病の治療費については、「白血病の治療~私の場合~②」をご参照ください。)

 治療を始める前に、放射線科の医師から治療の手順と副作用、精神面でのサポート体制などの詳しい説明がありました。こういう説明は、聞けば聞くほど不安になりますね。そんな中、放射線治療が始まりました。

 一回の治療で放射線を照射する時間はほんの数分。すぐに終わります。特に苦痛はありませんでした。
 化学療法(抗がん剤治療)を終えたばかりで、もともと副作用満載の体ですから、放射線治療の影響と言われてもよくわかりませんでした。(笑)

 ただ、一つだけ徐々に表れた影響があります。照射した部位の皮膚が、軽いやけどのようになっていくんです。私の場合は精巣(睾丸)でしたから、さほど気になりませんが、他の癌の場合、部位によっては精神的なダメージを受ける方もいるんではないでしょうか。実際に、それで放射線治療を中止する方もいると聞きます。

 こうして1カ月弱の放射線治療を無事に終えました。そして、最終的な検査を受けることになったのです。


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2019年3月5日火曜日

白血病の治療~私の場合~⑪ 8カ月間の化学療法(抗がん剤治療)終了そして退院

退院してもまだゴールではない


 2017(平成29)年12月、退院。

 「白血病の治療~私の場合~①」の投稿で、“治療をフルマラソンに例えたら、「寛解」は最初の給水所”と言いました。これは単に時間的なことを言ったのではなく、寛解した後の方が、遥かにつらく長い治療が待っているという意味です。寛解はほんの“入り口”です。

 池江璃花子さんが白血病を公表してから、いろいろな医者がメディアに出て“白血病治療の現状”を説明していました。
 その中で、「寛解」を「完治」と言っている医者が多かったのには驚きました。「最近は、白血病も“完治”できる病気になった」と。医者でも誤った認識を持った人がいる。このことは「白血病の治療~私の場合~③」の投稿で書きました。

 私の場合は1カ月目で寛解。4カ月目で骨髄移植をしないことを決め、化学療法(抗がん剤治療)を継続することを選択した。ここで、ようやく折り返し地点が見えてくる、といったところでしょうか。

 そして8カ月がたち、予定の化学療法をすべて終えた。でも、まだゴールまでもう一息というところです。
 入院したのは春。季節はもう冬になっていました。

感謝の気持ち


 白血病と診断されてから、気づいたことがたくさんあります。

 ああ、今まで自分は幸せだったんだなぁ、と思いましたね。
 仕事に不満はないし、好きな剣道もやりたいだけやってきた。一人息子も大きくなって、もう高校生になった。そんななんでもないことが、幸せだったと気づく。あらゆることに感謝するようになりましたね。

家族


 妻には不平不満ばかり言ってきましたが、毎日、仕事を終えてから病院に面会にくる姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。考えてみれば、困ったときにいつも力になってくれるのはこの女だなと思った。
 息子は朝寝坊で手を焼いていました。私が出勤のため家を出るまで、何度起こさなければならなかったか。しかし、私が入院すると、忙しい母親の手をわずらわせてはいけないと思ってか、朝、自分で起きて支度をするようになったと、妻が教えてくれた。そして、剣道の強豪校に通う息子は、さらに稽古に励むようになり、めきめき上達してるらしい。今、やるべきことを精いっぱい努力するようになってくれた。うれしかったですね。
 年老いた母親や一つ年下の弟も、いろいろと力になってくれた。普段は疎遠なのに、自分の時間を割いて病院に足を運んでくれました。

会社


 仕事のことについては、どうなってしまうかと思いました。なにしろ、入院も長期になるし、治るかどうかもわからない。仕事に復帰する目どが全く立たないんですから。
 会社を辞めなければならないかも知れないと思い、会社に相談すると、もう休職の手続きがされていた。休職中の社会保険料や厚生年金の掛け金は全額会社が負担するという。
 傷病手当も毎月申請してほしいと。また、高額になる医療費にそなえて、健康保険限度額適用の申請も手続き済みでした。会社に復帰できるかどうかもわからない病気なのに。
 これで安心して治療に専念できると思いました。本当に有り難かったです。

剣道


 剣道仲間からの励ましもありました。二天一流武蔵会東京支部の皆さんから。
 仕事にも復帰できるかどうかわからない状況の中で、剣道はもうできないだろうと、あきらめていました。この37年前、高1の時にも病で剣道を断念しているので、「またか」と思いましたね。しかし、こんな状態ではあきらめるしかないと。
 そんな時に、武蔵会東京支部の稽古終わりにSさんが入院中の私に電話をくださった。そして電話を代わられたのが中村天信師範でした。驚きました。直々にお見舞いのお言葉をいただきました。そして、東京支部の皆さんがかわるがわる電話口に出て、励ましの言葉をくださった。うれしかったですね。また剣道がやりたい、と思った。
 この日を境に、気持ちが非常に前向きになったと思います。ありがとうございました。

病院


 主治医をはじめ、担当医の先生方、看護師さんたちに、本当にお世話になりました。ある意味、“快適な”入院生活だったと思います。というのは、私は10代の頃にも長い闘病生活を経験しています。その頃の医師や看護師の態度と比べると、今は雲泥の差です。
 そのことに関しては、「白血病の治療~私の場合~⑦」でも書きました。医者はえらそうな態度。看護師ときたら、ヒステリックな人もいれば暴言を吐く人、患者に八つ当たりする人など、いろんな人がいました。
 今はそんな人いないんですね。安心して入院してられた。本当にありがたかったです。
 そして忘れてはならないのが掃除のおばちゃん。無菌室や通常の個室に入院していたので、世間話ができる唯一のお相手が掃除のおばちゃんだったんです。おかげで、同じ病気の患者さんたちの様子も知ることができた。

 私は幸運だったなと思いました。こうやって、予定通りの回数の化学療法(抗がん剤治療)をし、ほぼ予定通りの期間で退院することができた。だからといって、喜べはしませんでした。
 他の患者さんは、寛解しない人もいる。つらさのあまり治療を拒否して退院される人もいる。もうこの病院では治せないと宣告されてしまう人もいる。寛解しないということは、生存率0パーセントということなんです。あまりにも悲しすぎます。


 冒頭で「退院してもまだゴールではない」と言いました。
 
 この後、通院での放射線治療が始まったのです。


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2019年3月3日日曜日

白血病の治療~私の場合~⑩ 化学療法(抗がん剤治療)中の“不安”と“楽しみ”

骨髄移植を選択しなかった私


化学療法(抗がん剤治療)で入院8カ月


 骨髄移植を選択しなかった私は、トータルで約8カ月間(8コース)の化学療法(抗がん剤治療)を受けました。
 
 2017年 4月に入院。化学療法(抗がん剤治療)開始。
 5月に寛解。
 6月にセカンドオピニオンを受ける。移植はしないと決めた。
 9月に肺炎を併発。
 12月に敗血症を併発。そして化学療法(抗がん剤治療)終了。

不安になった医師の言葉


 入院中、医師から告げられて不安になった言葉が二つある。

 一つは、寛解したあとに担当医から言われた言葉。「この段階で骨髄移植をしなければ、移植をするタイミングを失います」

 もう一つは、セカンドオピニオンで医師に言われた言葉。「再発した場合は、同じ治療では癌はなくなりません」

 というもの。骨髄移植をしないと決めた後は、なおさらこの二つの言葉が、重くのしかかってきましたね。

入院中の楽しみは、やはり食べ物!


 抗がん剤の副作用で味覚障害が起こる。食べ物の味がまるっきり変わってしまう。この世のものとは思えない味。例えようのない味。食べ物の味ではないんです。
 
 入院による化学療法(抗がん剤治療)の1回のサイクルは約1カ月。これを「1コース」と言います。
 最初の1~2週間が抗がん剤の投与。その後の1~2週間が抗がん剤で破壊された白血球などの免疫力を回復をさせる期間。白血球の数が基準値以上になれば、一旦退院。数日で再入院して、次の抗がん剤投与。これを繰り返すわけです。私は「8コース」やりました。

 抗がん剤の投与が始まると白血球数が激減します。すると抵抗力がなくなりますので、普通の食事は食べられない。加熱殺菌した「加熱食」になります。しかし、味覚障害があって食欲もないので、食べられません。
 その回の抗がん剤の投与が終わって1~2週間すると白血球数が増えてきます。食欲も出てきます。白血球数が基準値以上になれば、普通の食事が食べられます。生ものもOKになります。しかし、何を食べても美味しくない。

 それでも、やはり楽しみは食べることなんですね。

 一旦退院したときの数日間に食べ歩く店をリストアップしてました。寿司だったりステーキだったり近所の店20軒ぐらい。
 しかし体力がないので、一日に行けるのは1軒がやっと。食べても美味しくはないんですけどね。それでもうれしかったですね、食べられることが。次の抗がん剤の治療も、これで頑張れるってなるんです。

 ちなみに、いろいろ食べてみて一番美味しく感じられたものは、「かつ丼」でした!(笑)


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2019年2月26日火曜日

白血病の治療~私の場合~⑨ 合併症

治療の過程で起こる合併症


絶望と急変


化学療法(抗がん剤治療)を始めて6か月目だったか、「二つ隣の個室の患者さんが、医者から『もうこの病院では治せない』といわれたそうよ」と、病室の清掃係りの方が教えてくれた。
 私と同じ病気の方だ。しかも1年半もこんなつらい治療を続けて、挙句の果てに「治せない」と。あまりにも悲しすぎます。

 また、こんなこともありました。
 「他の個室に、今、移っていただけませんか」と看護師が、私の病室に入ってきた。
 大部屋の患者さんで容体が急変した方がいて、この個室に移したいと。なんでもこの個室は、そういった場合に対応できる設備がある病室だそうで、容体が安定している私に普通の個室に移動してほしいということでした。

 「わかりました」
 私はすぐに承諾しました。私と同じ病気の方が急変したと聞いて、すぐに準備された部屋に移りました。

 しかし、半日たっても、翌日になっても、私が空けた部屋に患者さんが入った様子はありません。

 不思議に思い、そのことを看護師に聞いた。
 すると、「ここでは対応できず、ICUに運ばれました」とのこと。

 その患者さんが、病棟に戻ってくることはありませんでした。

肺炎と敗血症


 その後、私も二度ほど合併症で、危険な状態になりました。

 一度目は肺炎
 治療が始まって6カ月目にはいったころ、風邪をひいてしまった。
 「まずいな」と思いましたが、もう遅かった。
 
 抗がん剤で白血球が破壊され、抵抗力、免疫力がなく、まったくの無防備な体はみるみる体温が上がり、40.9度。失禁しました。
 生まれてこのかた、こんな体温、経験ありません。しかも5日間も高熱が続いた。
 「ああ、こうやって人は死んでいくんだなぁ」そう思いましたね。

 二度目は敗血症
 8カ月目の治療が終わるころ、39.2度の高熱が出た。
 検査すると、何らかの原因で血管の中に菌が入ったらしい。経路は特定できませんでした。

 肺炎も敗血症も治療は点滴による抗生物質の投与になります。解熱剤も服用しますが、効き目は一時的ですぐに熱は上がってしまいます。
 抗生物質の効き目が表れるまで数日かかる。その間、「死」というものに向かい合うことになりました。なにしろ40度以上の熱が続くわけですから。
 頭で「死」を考えるんじゃないんです。体が「死」に近づいている感じがするんですね。「臨死」という言葉がありますけど、まさにこのことかなぁと。

 私はどちらも奇跡的に回復することが出来ましたが、白血病はこのような合併症が命取りになります。


 治療が始まって間もなくのころ、担当医に「白血病の治療をを拒否する患者っていますか?」と聞いたことがあった。すると、こんな答えが返ってきた。

 「私の患者さんで薬剤師をなさっていた方なんですが、『治療は一切しなくていいです。50年間生きたので、それで充分です』と言って亡くなっていった方がいました」


 医療の現場にいて、白血病の治療法、副作用を知っている方がその治療を拒否する。
 白血病治療の現状を如実に物語っている出来事。胸が痛みます。


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2019年2月23日土曜日

白血病の治療~私の場合~⑧ 治療法の選択

入院4か月目の選択


決めた後も不安が募る


 入院中、私についてくださった担当医5名のうち、3名は「移植を絶対やった方がいい、やって当たり前」という意見。1名は「移植した方がいいと思います」という感じ。主治医だけは「リスクあることなので、セカンドオピニオンでよく話をきいてから決めてください」と。

 どういう治療方針を持った医者が主治医になるかで、患者が最終的に了承しなければならない治療の選択は、変わってくると思いましたね。いいか悪いかは別にして、患者の判断に影響があるのは事実。

 そうなると、セカンドオピニオンはとても有意義だったなと思いました。

 前回の投稿で、骨髄移植はしないと決めた、と言いました。
 
 身内の意見も聞きましたが、ほとんどの人は「骨髄移植をした方がいいんじゃないか」という雰囲気でしたね。後で「やっておけばよかった」とならないようにということだと思います。
 患者の方としても、「移植しないで死ぬより、移植して死んだ方がまし。後で後悔したくない」と思うしかないんです。実際問題として。
 
 ですから私の場合は、骨髄移植はしないと主治医に伝えた後に、徐々に、本当にこの選択が正しいのか、不安の方が大きくなっていってしまった。後で後悔することになるんじゃないかと。


治療の流れ


 化学療法(抗がん剤治療)は、約1カ月が1サイクルの治療になる。
 これを「1コース」といいます。抗がん剤の投与中は、血液の成分は破壊され免疫力がなくなりますので、無菌室に入ります。

 1コース終了し、白血球の数値がある程度改善すると、一旦、退院することができます。これはあくまでも“一旦”で、3~7日間で再入院して「2コース目」が始まります。

 これを「4コース」まで繰り返したところで、骨髄(または臍帯血)移植をするかどうか、決めておかなければなりません。

 その判断を自分がするために、セカンドオピニオンを受けるわけです。

 移植を希望した場合は、そこから半年ぐらい、あるいはそれ以上の入院が必要になります。その間に移植を受けます。

 私のように移植をしない場合は、さらに「4コース」の化学療法(抗がん剤治療)を受けることになります。合計8コース。

どちらを選択した場合でも、最短でも8カ月間ぐらいの入院が必要になります。


 しかしこれは、あくまでも“順調にいって”のことなのです。


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2019年2月22日金曜日

白血病の治療~私の場合~⑦ セカンドオピニオン

医療現場の変化


医師、看護師、患者の立ち位置が変わった


 私は、10代の頃に長い闘病生活を経験しており、十数回入退院を繰り返した時期がありました。
 今回、久しぶりに大学病院に入院して気づいたのですが、医師、看護師、患者の関係が以前とまったく違うのです。
 40年ぐらい前は、これが縦の関係で、一番上が医者、次が看護師、一番下が患者というような、一種の“主従関係”のようだった。
 患者にとっては、色々な意味で「不利」な状況に置かれていたと思います。

 今は、医者、看護師、患者が同等の立ち位置に立っている、そう思いました。
 医者は謙虚になり、看護師は医者と対等に仕事をするようになり、患者には発言権が与えられた。ずいぶん変わったもんだなぁ、と驚きました。
 

セカンドオピニオン


 主治医が他の病院の医師の診察を受けることを認める、あるいはすすめるなんてことは、以前には考えられないことでした。これは画期的なこと。患者の“弱い立場”が、だいぶ改善されてきているなと実感しました。
 
 で、私はある病院のA医師のセカンドオピニオンを受けるようにすすめられました。
 今は、ネットで調べられる、詳しいことが。
 紹介されたその病院は、日本で骨髄移植の件数が最も多い病院の中の一つで、A医師はその専門医でした。

 入院している病院から半日の外出許可を得て、弟の運転する車で、セカンドオピニオンを受ける病院に向かいました。体力も著しく低下し、歩くのもやっとで、長い一日の始まりでした。

 受付で紹介状を出し、手続きを済ませ、待合室に通されました。すると私と同じ病気の人が全国から来ているんですね。まさに命がけでこの病院にセカンドオピニオンのために来ているんです。
 抗がん剤治療の副作用により衰弱しきった体で、付き添いの方にもたれかかりながら待合室で待つ方々。私も他人から見たらこう見えているんだなぁと思いましたね。なんて因果な病気なんだろうと。

 実はもう一つ、ショックなことがありました。
 それは、受付の方の応対、待合室に案内してくれた方の応対、看護師の応対です。
 非常に心のこもった応対。こんな応対を受けたことがない。
 私の入院している病院は骨髄移植はできないので、するとなればこの病院になります。
 “この病院で命を終えることになるかも知れない人に対してのやさしさ”、それが伝わってきてしまったんですね。
 移植のリスク。この応対を見て、「自分はちょっと甘く考えていたかもしれない」と直感しました。
 
 予約した時刻になり、医師の待つ部屋へ通されました。

移植のリスクは想像以上


 30年前だったら、癌は患者本人には告知することは少なかったでしょうし、治療のリスクなんてすべて伝えることはなかったでしょうね。
 今は、全部言っちゃうんですね、本人に。「聞かなきゃよかった」と思いましたね、正直。
 一方で、自分はラッキーだなと思う部分もありました。
 A医師は、とても中立・公平な立場から話す方でした。誘導する意図が一切ない。移植現場の医師の本音が聞けたことを、本当に感謝しています。

 白血病は様々な種類があり、人によって治療法が異なる。かかった病院、医師によっても違うでしょう。
 だから誤解を避けるために、ここに内容を書き込むのは控えます。

 骨髄移植をするか、しないか。二者択一でこんなに迷ったのは初めてです。
 私は結論を出せずに、入院する病院へ戻りました。

 そして丸一日考え、主治医に伝えた。

 「骨髄移植はしません。このまま、先生に治療をお願いします」

 「わかりました」

 理由は聞かれませんでした。


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