2019年2月26日火曜日

白血病の治療~私の場合~⑨ 合併症

治療の過程で起こる合併症


絶望と急変


化学療法(抗がん剤治療)を始めて6か月目だったか、「二つ隣の個室の患者さんが、医者から『もうこの病院では治せない』といわれたそうよ」と、病室の清掃係りの方が教えてくれた。
 私と同じ病気の方だ。しかも1年半もこんなつらい治療を続けて、挙句の果てに「治せない」と。あまりにも悲しすぎます。

 また、こんなこともありました。
 「他の個室に、今、移っていただけませんか」と看護師が、私の病室に入ってきた。
 大部屋の患者さんで容体が急変した方がいて、この個室に移したいと。なんでもこの個室は、そういった場合に対応できる設備がある病室だそうで、容体が安定している私に普通の個室に移動してほしいということでした。

 「わかりました」
 私はすぐに承諾しました。私と同じ病気の方が急変したと聞いて、すぐに準備された部屋に移りました。

 しかし、半日たっても、翌日になっても、私が空けた部屋に患者さんが入った様子はありません。

 不思議に思い、そのことを看護師に聞いた。
 すると、「ここでは対応できず、ICUに運ばれました」とのこと。

 その患者さんが、病棟に戻ってくることはありませんでした。

肺炎と敗血症


 その後、私も二度ほど合併症で、危険な状態になりました。

 一度目は肺炎
 治療が始まって6カ月目にはいったころ、風邪をひいてしまった。
 「まずいな」と思いましたが、もう遅かった。
 
 抗がん剤で白血球が破壊され、抵抗力、免疫力がなく、まったくの無防備な体はみるみる体温が上がり、40.9度。失禁しました。
 生まれてこのかた、こんな体温、経験ありません。しかも5日間も高熱が続いた。
 「ああ、こうやって人は死んでいくんだなぁ」そう思いましたね。

 二度目は敗血症
 8カ月目の治療が終わるころ、39.2度の高熱が出た。
 検査すると、何らかの原因で血管の中に菌が入ったらしい。経路は特定できませんでした。

 肺炎も敗血症も治療は点滴による抗生物質の投与になります。解熱剤も服用しますが、効き目は一時的ですぐに熱は上がってしまいます。
 抗生物質の効き目が表れるまで数日かかる。その間、「死」というものに向かい合うことになりました。なにしろ40度以上の熱が続くわけですから。
 頭で「死」を考えるんじゃないんです。体が「死」に近づいている感じがするんですね。「臨死」という言葉がありますけど、まさにこのことかなぁと。

 私はどちらも奇跡的に回復することが出来ましたが、白血病はこのような合併症が命取りになります。


 治療が始まって間もなくのころ、担当医に「白血病の治療をを拒否する患者っていますか?」と聞いたことがあった。すると、こんな答えが返ってきた。

 「私の患者さんで薬剤師をなさっていた方なんですが、『治療は一切しなくていいです。50年間生きたので、それで充分です』と言って亡くなっていった方がいました」


 医療の現場にいて、白血病の治療法、副作用を知っている方がその治療を拒否する。
 白血病治療の現状を如実に物語っている出来事。胸が痛みます。


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2019年2月23日土曜日

白血病の治療~私の場合~⑧ 治療法の選択

入院4か月目の選択


決めた後も不安が募る


 入院中、私についてくださった担当医5名のうち、3名は「移植を絶対やった方がいい、やって当たり前」という意見。1名は「移植した方がいいと思います」という感じ。主治医だけは「リスクあることなので、セカンドオピニオンでよく話をきいてから決めてください」と。

 どういう治療方針を持った医者が主治医になるかで、患者が最終的に了承しなければならない治療の選択は、変わってくると思いましたね。いいか悪いかは別にして、患者の判断に影響があるのは事実。

 そうなると、セカンドオピニオンはとても有意義だったなと思いました。

 前回の投稿で、骨髄移植はしないと決めた、と言いました。
 
 身内の意見も聞きましたが、ほとんどの人は「骨髄移植をした方がいいんじゃないか」という雰囲気でしたね。後で「やっておけばよかった」とならないようにということだと思います。
 患者の方としても、「移植しないで死ぬより、移植して死んだ方がまし。後で後悔したくない」と思うしかないんです。実際問題として。
 
 ですから私の場合は、骨髄移植はしないと主治医に伝えた後に、徐々に、本当にこの選択が正しいのか、不安の方が大きくなっていってしまった。後で後悔することになるんじゃないかと。


治療の流れ


 化学療法(抗がん剤治療)は、約1カ月が1サイクルの治療になる。
 これを「1コース」といいます。抗がん剤の投与中は、血液の成分は破壊され免疫力がなくなりますので、無菌室に入ります。

 1コース終了し、白血球の数値がある程度改善すると、一旦、退院することができます。これはあくまでも“一旦”で、3~7日間で再入院して「2コース目」が始まります。

 これを「4コース」まで繰り返したところで、骨髄(または臍帯血)移植をするかどうか、決めておかなければなりません。

 その判断を自分がするために、セカンドオピニオンを受けるわけです。

 移植を希望した場合は、そこから半年ぐらい、あるいはそれ以上の入院が必要になります。その間に移植を受けます。

 私のように移植をしない場合は、さらに「4コース」の化学療法(抗がん剤治療)を受けることになります。合計8コース。

どちらを選択した場合でも、最短でも8カ月間ぐらいの入院が必要になります。


 しかしこれは、あくまでも“順調にいって”のことなのです。


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2019年2月22日金曜日

白血病の治療~私の場合~⑦ セカンドオピニオン

医療現場の変化


医師、看護師、患者の立ち位置が変わった


 私は、10代の頃に長い闘病生活を経験しており、十数回入退院を繰り返した時期がありました。
 今回、久しぶりに大学病院に入院して気づいたのですが、医師、看護師、患者の関係が以前とまったく違うのです。
 40年ぐらい前は、これが縦の関係で、一番上が医者、次が看護師、一番下が患者というような、一種の“主従関係”のようだった。
 患者にとっては、色々な意味で「不利」な状況に置かれていたと思います。

 今は、医者、看護師、患者が同等の立ち位置に立っている、そう思いました。
 医者は謙虚になり、看護師は医者と対等に仕事をするようになり、患者には発言権が与えられた。ずいぶん変わったもんだなぁ、と驚きました。
 

セカンドオピニオン


 主治医が他の病院の医師の診察を受けることを認める、あるいはすすめるなんてことは、以前には考えられないことでした。これは画期的なこと。患者の“弱い立場”が、だいぶ改善されてきているなと実感しました。
 
 で、私はある病院のA医師のセカンドオピニオンを受けるようにすすめられました。
 今は、ネットで調べられる、詳しいことが。
 紹介されたその病院は、日本で骨髄移植の件数が最も多い病院の中の一つで、A医師はその専門医でした。

 入院している病院から半日の外出許可を得て、弟の運転する車で、セカンドオピニオンを受ける病院に向かいました。体力も著しく低下し、歩くのもやっとで、長い一日の始まりでした。

 受付で紹介状を出し、手続きを済ませ、待合室に通されました。すると私と同じ病気の人が全国から来ているんですね。まさに命がけでこの病院にセカンドオピニオンのために来ているんです。
 抗がん剤治療の副作用により衰弱しきった体で、付き添いの方にもたれかかりながら待合室で待つ方々。私も他人から見たらこう見えているんだなぁと思いましたね。なんて因果な病気なんだろうと。

 実はもう一つ、ショックなことがありました。
 それは、受付の方の応対、待合室に案内してくれた方の応対、看護師の応対です。
 非常に心のこもった応対。こんな応対を受けたことがない。
 私の入院している病院は骨髄移植はできないので、するとなればこの病院になります。
 “この病院で命を終えることになるかも知れない人に対してのやさしさ”、それが伝わってきてしまったんですね。
 移植のリスク。この応対を見て、「自分はちょっと甘く考えていたかもしれない」と直感しました。
 
 予約した時刻になり、医師の待つ部屋へ通されました。

移植のリスクは想像以上


 30年前だったら、癌は患者本人には告知することは少なかったでしょうし、治療のリスクなんてすべて伝えることはなかったでしょうね。
 今は、全部言っちゃうんですね、本人に。「聞かなきゃよかった」と思いましたね、正直。
 一方で、自分はラッキーだなと思う部分もありました。
 A医師は、とても中立・公平な立場から話す方でした。誘導する意図が一切ない。移植現場の医師の本音が聞けたことを、本当に感謝しています。

 白血病は様々な種類があり、人によって治療法が異なる。かかった病院、医師によっても違うでしょう。
 だから誤解を避けるために、ここに内容を書き込むのは控えます。

 骨髄移植をするか、しないか。二者択一でこんなに迷ったのは初めてです。
 私は結論を出せずに、入院する病院へ戻りました。

 そして丸一日考え、主治医に伝えた。

 「骨髄移植はしません。このまま、先生に治療をお願いします」

 「わかりました」

 理由は聞かれませんでした。


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2019年2月21日木曜日

白血病の治療~私の場合~⑥ 骨髄移植の適合検査

骨髄移植の適合検査(HLAの検査)


弟にドナーを依頼


 化学療法(抗がん剤治療)を開始し、寛解した後、抗がん剤の投与が続けられる中で、骨髄移植の準備に入っていくことになった。

 白血病と診断された時から、いずれは骨髄移植をすることになるんだろうな、と思っていたので、その時は何の抵抗もありませんでした。

 白血球をはじめとする全身の細胞には型があり、骨髄移植をするには私とドナーのHLA型の一致する割合を調べる必要がある、とのことでした。

 家族内にドナーが見つかる可能性は4分の1
 非血縁者間では数百から数万分の1の確率でしか一致しません。

 ドナーの年齢制限は20~55歳。私の親は高齢のため対象外。ドナーになることができる可能性があるのは一つ下の弟だけ。
  「私と一緒にHLAの検査を受けて欲しい。その結果、型が一致すれば骨髄移植のドナーになって欲しい」と電話で伝えた。
 
 もし、型が一致してドナーになることになれば、弟も数日間の入院を余儀なくされる。体にも大きな負担になる。仕事も休まなければならない。
 兄弟とはいえ心苦しい“お願い”だったが、快く了解してくれた。

 うれしかったですね。普段は疎遠なのに、頼まれる方にとってはリスクだらけの“お願い”にもかかわらず、力になってくれるという。
 ありがたいやら、もうしわけないやらで、HLAの検査を2人で受けることになった。

 費用の方は、私の分がが5万円程度。弟の分が3万円程度でした。検査項目のオプションが入るため、患者の方が少し高額になります。結果が出るまでは、2週間ぐらいかかりました。

結果は「不適合」


 型は合いませんでした。

 「わるいね」

 弟が謝ってきた。何も悪くないのに。わるいことをしたのは、こちらの方。
 検査を受けてくれただけで充分。それ以上望む気持ちなんてありませんでした。

 「適合の確率数百分の1のドナーを見つければいい」

 すぐに気持ちは切り替えられた。

 どこかホッとした気持ちもありましたね。弟にまで負担をかけずに済んだという。


 その後、主治医からセカンドオピニオンを受けるようにすすめられたのです。


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2019年2月19日火曜日

白血病の治療~私の場合~⑤ 無菌室

無菌室とはこんなところ


室料は無料


 私は白血病と診断されて2日後に、化学療法(抗がん剤治療)が始まりました。
 
 それまでは4人部屋にいて、最初の2日間ぐらいは食欲も普通にあった。
 「なんだ、抗がん剤といったってたいしたことないじゃないか」なんて思った。

 ところがこれが大間違いで、3日目に急に食欲がなくなり、4日目に無菌室へ移ることになった。
 私は無菌室の料金が気になり、看護師さんに聞いてみた。すると、「治療に必要な措置のため、無菌室は料金がかかりません」とのこと。その点はひと安心しましたが“未知の領域”ですからね。いざ移るとなると不安でいっぱいでした。
 

きれいな個室


 一言でいえば非常にきれいな個室。
 
 抗がん剤の投与により、白血球が極度に減少する。そして、感染が起こりやすくなる。
 白血病が他人に感染するのではなく(白血病は他人に感染しません)、白血病の人が感染を受けやすく、それが命取りになる。
 空気中にある様々な雑菌によって感染症を起こしてしまう。
 それを予防するための設備が整った個室の病室です。

 最初は、「こんなところに入って、この先どうなっちゃうんだろう」なんて不安でしたが、意外に快適でしたね。体調のことを考えなければ。

普通の病室と違うとことは


 まず、面会は原則として家族だけに限られていました。
 面会者は、無菌室へ入る前にうがい、手洗いをし、キャップ、マスク、ガウンを着けます。外界からの雑菌の持ち込みを最小限にするためです。手荷物の持ち込みも、原則できません。花や果物の差し入れもダメです。

 ちなみに、入院している私は普通にパジャマ姿。

 室内には特別な空気清浄器があり、24時間稼働しています。空気がとてもきれいなのがわかりました。室内の清掃や備品の消毒も、係りの方が毎日念入りにやってくれるので、超清潔!洗面台もトイレもシャワーも専用です。
 そういった意味では快適でしたね。

食事


 抗がん剤の影響で、白血球が減少し始めると、食事は加熱食になります。
 “なんでもかんでも火を通してある食事”とでもいいましょうか………。
 美味しくないんです。これが。
 最初のうちは、それでも体調のいい時は食べられたんです。しかし味覚障害の副作用が始まってからは、まったく食べられなくなりました。

外界から遮断された世界


 しーんと静まり返った部屋に一人。一日中。
 体は、日に日に衰弱していく。どんどん筋力が落ちていくのがわかる。
 2週間目からは髪の毛も抜け始めた。食事も食べられない。
 家族が面会に来ても、起き上がる気力もない。しゃべるのもつらい。
 抗がん剤というのは、恐ろしいものです。

 そういう状態になって初めて気づくんですね。「ああ、今まで自分は幸せだったんだなぁ」って。
 家族、会社の人、友人、医療スタッフなど、あらゆる人への感謝の気持ちしかないんですね、そういう時。
 副作用でもうろうとした意識の中で、無菌室の天井をぼーっと見つめていて、毎日涙があふれましたね。元気になって、少しでも感謝の気持ちを返したいと。


 そんな時、担当医の女医さんが病室に入ってきた。
 私の涙を見て、「そんなにつらいんですか?」と聞かれたので、つい、「はい」と言ってしまった。
 
 そしたらその日、吐き気止めの点滴が1本追加されてしまったんです。笑
 

2019年2月18日月曜日

白血病の治療~私の場合~④ 抗がん剤の副作用

抗がん剤の副作用


吐き気、おう吐


 最初に起こるのが、食欲不振と吐き気、極度の倦怠感です。
 私が入院中、同じ病気の方でこの副作用に耐え切れずに、治療を拒否して退院してしまった方がおりました。

 私は、吐き気はほとんどありませんでした。これには、医師や看護師たちが驚いておりましたね。
 検査などで廊下に出ると、たまに他の白血病患者の個室のドアが開いていて、中が見える時がある。個室には洗面台がついていて、そこに洗面器のようなちょっと変わった形の容器がおいてある。私以外の部屋は全部。
 看護師にその容器のことを聞くと、他の患者さんたちは毎日おう吐を繰り返しているとのこと。その方たちのお気持ちを考えたら、言葉が出ませんでした。

筋力の低下


 手足はみるみるうちに細くなり、背筋力もなくなるので背中がやや丸くなりました。
 トイレに立つだけでもつらくなります。臀部の肉もなくなり、固い椅子に座ると骨があたって痛い。抗がん剤で、筋肉が破壊されてしまうんですね。

思考能力の低下


 スマホの画面を見るのがつらい。テレビの画面を見るのがつらい。本を読むのがつらい。目から入ってくる情報が、頭の中で処理しきれなくなってしまう。
 なので、眠るか、病室の天井をぼーっと見ているだけ。それで一日が終わってしまいます。

脱毛 


 白血病治療の副作用といえば、誰もが思いつくのは頭髪の「脱毛」ですね。
 実際には、全身の毛は全部抜けます。
 私の場合、抗がん剤の投与が始まって、2週間が過ぎたころに脱毛が始まりました。
 私はもともと坊主頭だったので、スキンヘッドは本人としてはあまり違和感ありませんでした。しかし、眉毛とまつ毛もなくなりますので、人相が変わってしまいましたね。
 抗がん剤投与をやめれば、すぐに生え始めますが、髪質は変わってしまいます。

皮膚がぼろぼろに


 また、肌着を脱いだ時に、肌着の内側に白い粉のようなものがついてきます。皮膚がボロボロになって剥がれ落ちるんです。
 これも全身です。しかし、この症状は1~2か月でなくなりました。

口内炎


 医師や看護師が、一番気にかけてくるのが口内炎です。毎日、口の中をチェックされます。
 免疫力がありませんので、粘膜、特に口の中の炎症、口内炎ができやすい。舌もコケで真っ白になってしまう。
 予防のために、一日に10回以上、うがいと歯磨きをしていました。
 口内炎が無数にできて、食事ができなくなる人もいるそうです。
 私は、一度も口内炎ができなかったので、大変驚かれました。


味覚障害


 私が一番つらっかったのは、味覚障害です。
 食べ物がおいしく感じられないというレベルではない。まるでこの世のものとは思えない味になってしまうんです。ですから何も食べたくなくなっちゃうんです。
 最終的には、体重は20キログラム落ちました。

便秘 


 最もつらっかったものがもう一つ。便秘です。死ぬかと思った。詳細を書くのはやめておきます。苦笑


 これらの副作用は、私自身がつらいのはもちろんですが、それを見ている家族も同じようにつらっかったと思います。その気持ちを考えると、胸が痛みます。


 抗がん剤を点滴で投与している間は、37.5度ぐらいの発熱があります。人によっては高熱が続くこともしばしば。
 私は最高で41度ぐらいの熱が数日続きました。合併症です。肺炎になった時と、敗血症になった時。「人はこうやって死んでいくんだな」と思いました。

 そのことは、もう少し後に書きます。


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2019年2月17日日曜日

白血病の治療~私の場合~③ 地固め療法

地固め療法


「寛解」=「治った」ということではない


 前々回の投稿に、私が「寛解(かんかい)」したところまで書きました。
 「寛解」とは抗がん剤治療によって、骨髄の癌が消滅した状態のことです。

 しかし、治療をフルマラソンに例えたら「寛解」は〈最初の給水所〉に過ぎない、と言いました。中間地点にも届いていない。様々な副作用との闘いの始まりともいえるのです。

 なぜなら、「寛解」=「治った」ということではないのです。

 先日、競泳選手の池江璃花子さんが白血病を公表して以降、いろいろなメディアで医者が白血病について解説しています。
 「白血病は完治できる病気になった」とか「早期発見できれば治る」と言っている方が非常に多いことには、驚きました。白血病を他の癌と同じように考えている医者が多いんですね。

 そういった表現に対して、医者の中でも血液内科の専門医たちが、警鐘をならしています。
 「白血病は、完治したと医師が判断できる病ではない。再発のリスクは一生つづく」
 「白血病は流動性の癌なので、発見されたときは全身に回っている。早期発見ということはありえない」
というものです。

 実際、私が白血病の治療を受けている中で、今までに、主治医、担当医、セカンドオピニオンなど約10名の血液内科医に、白血病に関する説明を受けましたが、「完治します」とか「早期発見」という言葉は、一度も聞いたことがありません。

 通常、癌にはステージ“いくつ”という段階がありますが、白血病にはそれがありません。症状が出た時には、すでに癌が全身の骨髄に回っていますので、あえて言うならば“ステースジ4の末期”になってしまうのだそうです。

 その状態から、抗がん剤治療や骨髄移植などで、寛解までもっていくわけです。
 ですから、治療は壮絶なものになります。
 
 私は全身の骨髄の約80パーセントが癌化していましたが、幸運にも治療を初めて1か月弱で寛解しました。私の年齢では大変めずらしいことだそうです。

 その時に、担当医からこのような説明がありました。
 
 「寛解しましたけれども、白血病が治ったわけではありません。ここで治療をやめたら再発はまぬかれません。あともう3か月間は化学療法(抗がん剤治療)を続けて、その後、骨髄移植をすることになると思います」
 
 白血病の治療の目的は、この「寛解」状態を一生維持すること、と言えると思います。
 そのために、寛解したあとにも、このような「地固め療法」が必要になるのです。ですから、どの時点で“完治”したのかなんて誰も判断できないのです。

 まあ長期の治療は覚悟の上でしたが、この後、さまざまな副作用に襲われていくことになります。


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2019年2月16日土曜日

白血病の治療~私の場合~② 白血病の治療費

白血病の治療費は? 仕事は? 毎月の支払、生活費は?


まずは大事なお金の話


 前回の投稿で、白血病の治療期間をフルマラソンに例えたら「寛解」は〈最初の給水所〉、まだ中間地点にもきていない、と言いました。

 寛解した時点で抗がん剤治療をやめてしまえば、すぐに再発する。再発した場合は、同じ治療をしても寛解することは難しくなる。そういう病だそうです。

 私も寛解した後も抗がん剤治療を続け、数々の重い副作用に襲われていくことになります。
 
 そのことは次回、書きます。

 で、今回は白血病の治療費や経済面でのやりくりについてお話しします。
 お金のことは大事ですからね。

傷病手当金


 まず仕事ですが、白血病の治療は長期間になるので休職しました。結果的に約1年間。
 私は会社員です。ということは収入ゼロに。この先、どうなることかと思いました。
 そんな中、会社には私の病気と治療を理解してもらえ、スタッフのサポートと励ましがあったことは、私の支えになりました。本当に感謝しています。

 で、自分の会社からすぐに「傷病手当」の説明があった。

 会社で社会保険に加入していれば、病気やけがで長期休業したときは、給料の6~7割分に相当する額が社会保険組合から支給される制度。

 こんな制度があるなんて知りませんでした。とりあえず家族が生活するには、これでなんとかなった。
 ちなみに、国保にはこの制度はありません。

健康保険限度額適用制度


 年収によって、ひと月に支払う医療費の限度額が決まっていて、その限度額以上は支払わなくていいという制度。社保でも国保でも、同じ制度です。これも、詳しくは知りませんでした。
 ただし、保険適用でない自費負担の医療費は含みません。
 ですから、保険適用されていない薬を使ったり、個室などの差額ベッドを利用した場合は、その分は全額自己負担となります。
 しかし、白血病の基本的な治療はすべて保険適用されますので、その点は心配ありません。骨髄移植も保険適用です。 

 私の場合は、ひと月の限度額が88,000円でした。年収がバレますね。苦笑
 この限度額適用が3カ月続くと、4カ月目以降は44,000円になる。ひと月にこの金額以上は払わなくて済むわけです。

 もしこの制度がなかったら、私の場合、月々20〜50万円ぐらいの医療費を払わなければなりませんでした。

がん保険、入院保険


 白血病は癌ですから、がん保険に加入していれば、がん保険がおります。
 これは非常に大事。加入していて良かったなぁとつくづく思います。

 それには理由があります。

 「傷病手当」や「健康保険限度額適用認定」は、申請して初めて受けられる制度。

 傷病手当の場合は任意の期間(例えば、1か月ごとでも3か月ごとでも自由に申請可能)の専用の診断書を添付して申請します。
 私の場合は1カ月ごとに申請してました。
 入院、治療が始まって1カ月たったところ、診断書の作成を主治医に依頼。
 診断書が手元に届くのが2〜3週間後。
 それから自分の会社に傷病手当の申請を依頼して、社会保険組合から自分の銀行口座にお金が振り込まれるのは、早くても3週間後。
 ですから、入院して傷病手当金を最初に手にできるのは、早くても、2カ月半後なんです。

 健康保険限度額適用の方も、最初は認定証がない。こちらも申請して手元に届くのに2週間ぐらいかかる。
 白血病と診断された時は、通常の保険証を提示してその病院にかかってますから、最初の1カ月間か2か月間の入院治療費は、通常通り3割負担になります。
 私が1カ月目に支払った入院治療費は3割負担で40万円ぐらいだったと思います。
 しかし、これは後日、限度額適用の認定がおりて、申請すれば、限度額を超えた分は社会保険組合から返金されます。とは言っても、これも申請してから2~3カ月後のことです。

 入院して休業すれば収入がなくなる、傷病手当を受け取れるのも、3カ月ぐらい先。
 その間、月々の支払い、家族の生活費はかかる。限度額認定証が届くまで建て替えなければならない膨大な医療費もある。

 これをカバーするのが、がん保険の“一時金”です。
 癌と診断されたらすぐにおります。私の場合は申請して1週間後に一時金がおりた。
 100万円。これは助かりましたね。最初の2カ月間の支払いはこれですべてまかなえた。
 その後は、限度額適用が認定されますから、月々の入院日数分のがん保険、通常の入院保険、通院すれば通院保険がおりますので、自分の限度額までは充分支払えます。
 傷病手当は給与の6〜7割となるため、余った月々の保険金はそちらの不足分に回せます。

 ですから、国保の人はがん保険の契約内容を手厚いものにしておくのがいいでしょうね。そうすることによって、傷病手当がない分、がん保険で入院している間の家族の生活費もまかなえます。

 これらの制度や保険を活用すれば、経済面では心配ないと思います。

 ただし、この制度の“恩恵”は入院・治療して、仕事を休業している間だけなのです…。



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2019年2月14日木曜日

白血病の治療~私の場合~① 白血病は骨髄の癌

白血病は骨髄の癌


イメージとは違う実際の治療法


 白血病の治療というと、“骨髄移植”と思う方が多いと思います。
 白血病になる以前の私もそうでした。

 診断を受けてから、すぐに骨髄移植の話をされると思っていたら、そうではなかったんですね。
 主治医から最初に説明があった治療法は“化学療法”。抗がん剤治療のことです。
 中心静脈にカテーテルを挿入して点滴で抗がん剤を投与する。

 まずはこれで、「寛解」を目指すんです。

 「寛解」とは、骨髄の癌が消滅した状態ということです。

 “癌が消滅する”ということは、これで“治った”と思う方も、いると思います。
 そうではないんですね。

 治療の全期間をフルマラソンに例えたら、「寛解」は〈最初の給水所〉という感じ。
 まだ、中間地点にも行っていない。
 
 私の場合は、診断を受けた翌々日に、抗がん剤の投与が始まりました。
 3日目に急に食欲がなくなり、4日目に大部屋から無菌室へ移りました。

 白血病は感染症ではありません。感染はしない。
 骨髄の癌です。
 無菌室へ入るのは、空気中の雑菌などでも体内に入れば急変してしまうからです。
 抗がん剤の投与によって白血球が破壊され、免疫力、抵抗力がなくなってしまうのです。

 面会は家族以外は不可

 食べ物は加熱食品だけ。生ものはダメ。
 とは言っても副作用で味覚障害が始まり、そもそも食欲がなくなってしまう。
 味覚障害というのは、食べ物がおいしく感じられないというレベルではない。食べ物すべてがこの世のモノとは思えない味になってしまう。例えようのない味になってしまうんです。ですから食べられない。

 歩くのも無菌室内にあるトイレまで行くのがやっと。筋力もあっという間に落ちました。
 治療開始2週間目には体重が10キログラムも減っていた。
 また、このころから脱毛が始まり、皮膚はボロボロ。鏡の中の自分は別人になった。
 こんな姿になった私を見なければならない家族の者の気持ちを考えると、胸が痛みました。

 毎日、ぼーっとして集中力もなく、ただ病室の天井を見ているだけ。
 テレビを観たり、本を読んだりする気にもなれない。
 ただただ、妻や子供、医療スタッフに対する感謝の気持ちで毎日涙があふれました。

 治療中は、月に1度、骨髄穿刺(マルク)検査があります。
 治療が始まって21日目に、最初の検査があった。

 「寛解」するのに数か月かかる人、数年かかる人といるそう。残念ながら「寛解」しない人も。

 翌日、担当医が検査の結果を告げに来た。
 
 「寛解しています」

 この年齢で早期の寛解はまれだそう。

 しかし、これは〈最初の給水所〉にすぎなかったんです。



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2019年2月13日水曜日

白血病の治療は壮絶なもの

競泳選手の池江璃花子さんが白血病であることを公表されて一日たった


医者には患者の気持ちを代弁できない


 各メディアには血液内科医が出て、白血病についていろいろ語っている。
 
 あくまでも治す側、医者の立場で。

 この方達は、もちろん白血病にはなったことがない。だから白血病治療の現状を話しているだけ。どの医者も話の内容はほとんど同じです。まあ当然といえば当然です。

 私も、“白血病”と診断されて、担当医からそういった話をひと通り聞きました。
 その2日後に化学療法(抗がん剤治療)が始まったんですが、実際には、想像を絶するようなことが次々と自分の体に起こってくるんですね。


 一方で、各メディアは白血病を克服した経験のあるアスリートや俳優に取材をしていますね。
 皆さん、池江さんに心からのエールを送っていました。

 しかし、その取材に対して、ご自分の治療はどうだったのか、あまりくわしく話されている方はいなかったような気がします。
 取材時間の制約もあるでしょうから、すべてを話すことは難しいでしょうけど。本来、話したいことの10分の1も話していないんじゃないかな、と思って観てました。

 その理由はわかります。治療が壮絶すぎるからです。安易に話すことができないんですね。医者にも患者側からの話はできません。


 今日、78歳になる実家の母から電話がありました。

 「池江璃花子さんて、お前と同じ病気なの?入院中のお前の姿を思い出しちゃって、足の震えが止まらないんだよ」

 白血病は造血幹細胞(骨髄)が癌になる病気。しかし、他の癌のようにステージ“いくつ”っていうのがない。それは、白血病と診断された時は、あえて言うならばステージⅣの末期だから。
 その末期の状態から、全身の骨髄に広がった癌細胞を消滅させるために、抗がん剤を投与するわけですから、非常に危険な治療になります。
 
 白血病の治療は壮絶なものです。

    池江さん、この治療、必ず乗り越えてくださいね。


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2019年2月12日火曜日

池江璃花子さん頑張って!私も白血病患者です

 今日の昼過ぎ、突然入ってきたニュース


 「競泳女子の池江璃花子がツイッターで白血病を告白」


 一瞬、自分の目を疑った。
 「あの池江璃花子が……」「白血病……」「オレと同じ病気……」
 かわいそうすぎます。
 私は52歳で白血病になりました。池江さんは18歳ですか…。
 若い人が白血病になったと聞くたび、胸が締め付けられる思いがします。
 
 白血病は癌です。造血幹細胞が癌になる。ひらたく言えば、全身の骨の中にある骨髄が癌化する病。その骨髄で血液が造られますから、正常な血液が造られなくなる。免疫力が低下する。
 最終的には、普通の人なら何でもない空気中の雑菌や指先についたばい菌が、口の中に入っただけで40度以上の高熱が出る。肺炎や敗血症などにかかる。死に至る。

 私は入院中に敗血症になるところまでいきました。その時は熱が41度。3日間続きました。「ああ、人間はこうやって死んでいくんだな」と思いましたね。もうそうなると失禁しちゃうんですね。

 白血病は治療しなければ、生存率0パーセント。ステージいくつっていう段階はない。発症した時はもう末期なんです。
 
 私は白血病の知識がなかったので、2日後に抗がん剤治療を開始することを医師から告げられた時に、「来週からにしてもらえませんか?」なんてのんきなことを言ってしまった。そしたら、「それでは間に合いません」と言われましたね。

 私が入院中、同じ病気の方で、治療の副作用のあまりの苦しさに耐え切れず、治療を中止して退院してしまう方もおりました。胸が痛みます。

 池江さんには、これから始まる長期間の治療にしっかり耐えて頑張ってもらいたいです。

 『池江さん、夢と目標を忘れず、ガンバレ!!!』



このブログ上部の「急性リンパ性白血病」のページに私の闘病記を投稿しています。今後も加筆・更新してまいりますので、よろしければそちらもご覧いただければと思います。


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2019年2月11日月曜日

現在の二刀流をリサーチ。そして新たな出会いが!

リバ剣を決意したのは2009(平成21)年秋


「30年ぶりに剣道をやろう!」「二刀でやろう!」「子供の頃の夢を、一つ実現させよう!」


 そう決断した晩のこと、まず現在の剣道界のリサーチをしようとPCに向かい、全日本剣道連盟のHPを開いた。(リバ剣を決意したきっかけは、こちら
 手当たり次第に記事を読みましたが、チンプンカンプンでしたね。記事に出てくる人名も誰一人わからないし、取り上げられてるいろいろなイベントもなんだかよくわからない。あまりのブランクの長さに改めて気付かされました。

 で、“お勉強”はあきらめて、動画を検索することに。
 小学生から一般まで、立合いの動画を深夜まで見続けた。
 そして、お目当ての二刀者の立合いの動画にたどり着きました。

二刀流(片手刀法)の継承が、断絶してるのか?


 大学生の二刀者、市民剣士の二刀者、高段者の二刀、二刀でその頃の最高位の方など、現在の二刀の立合いの動画を見れば見るほど、「あれっ????」って感じ。
 
 私が子供のころ、昭和40年代から50年代に見ていた二刀と全然違う。
 私の知っている片手刀法とは、まるでほど遠いものに見えました。
 諸手左上段の理合のまんま、右手に小刀を補助的に持って剣道をやっているという感じです。

 古流を学んだわけでもなく、ただ全剣連が定めた規則の範囲内で、自分で工夫なさって二刀をやっている方々。それはそれでいいと思います。ご本人の自由ですからね。
 しかし私には、二刀の醍醐味、片手刀法の醍醐味がまったく感じられなかった。
 二刀の理、片手刀法の理が継承されていない、断絶してしまっている、そう思いました。とても寂しい気持ちになったのを覚えています。

二天一流武蔵会との出会い、そして衝撃の動画


そのあと、ちょっと気持ちを切り替えた。
 「二刀を基本から教えてくれるところを探そう。古流だ。二天一流の道場を探してみよう」
 検索でヒットしたのが「二天一流武蔵会」。二天一流の形稽古だけでなく、竹刀稽古もやっているらしい…… 師範の立合の動画…… 再生……

   「これだあぁぁぁぁぁぁーっ!!!!」

 子供のころに見たあの二刀。見るものを魅了し、二刀の理を体現し、華麗に舞う。
 立合う相手を自らの運動世界の中に引き込んでしまうような、二刀の醍醐味。
 自由自在の片手刀法。圧倒的な打突力。

継承されていた二刀流、そして片手刀法


その時、深夜2時をまわっていました。

「二刀の理の継承は断絶していなかった。ここに入門しよう。これで本物の二刀が基本から学べる!」
  
 翌朝、妻が言いました。
 「あんた昨日の夜は、ずいぶん大きな声で寝言を言ってたね。『これだぁー』って」
  
 


2019年2月9日土曜日

この出来事で、剣道再開を決意!しかも二刀で!!

突然息子がとった行動


あのバスの中の自分と重なる


 前回の投稿で、終バスの中でのエピソードを書きました。
 希望に満ちあふれた時代でした。

 その後、16歳の時に十二指腸潰瘍でドクターストップ。当時は潰瘍にいい薬なんてまだなかった。運動全般を禁止されてしまったので、剣道はあきらめるしかなかった。
 意外でしたが、あれほど大好きだった剣道をすんなり忘れられた。それほど病気がつらかったんですね。

 時が過ぎて、結婚し、数年後やっと子供を授かった。男の子一人。
 その息子が小学校に入るころ、「剣道がやりたい」と言うので近くの道場に通わせることに。「血は争えないな」と思いつつ、その頃の私は剣道には無関心。道場に付き添いで行くこともしませんでした。

 ある晩、家のリビングで寝転びながらテレビを観ていると、そこへ剣道の道場から、小学3年になった息子が帰って来た。

 「お父さん、二刀流ってこうやってやるんだよ!」
 
 リビングの扉を開けるやいなや、道着・袴姿の息子が上下太刀の構え(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をやったんです。

 私は「うわぁぁぁー」と大声で叫んでしまった。

 今、目の前に37年前の自分が現れたようで、飛び起きちゃったんですね。
 あの終バスの中で、車掌さんに向かって二刀の構えをやっていた私が突然目の前に。
 息子は顔がその頃の私にそっくり。その時の道着・袴姿も同じ。学年も当時の私と同じだったのです。
 そして同時に、初めて二刀流を見た時の衝撃の光景が、走馬灯のように頭の中を流れた。

 そして、あの頃の決意を思い出したんです。将来、二刀をやるという。

 後からリビングに入ってきた妻に言いました。

 「オレ、明日から剣道をやる!」


2019年2月8日金曜日

剣道 片手刀法に魅了された少年時代 その2

「将来は二刀をやる!」

時間のたつのも忘れて


 小学3年の時、二刀流との衝撃の出会いがあって、すっかり片手刀法のとりこになってしまった私。(その経緯は、前回の投稿をご覧ください)

 自分の稽古が終わっても、その二刀の先生の稽古が始まると目がくぎ付けになってしまい帰れない。
 「なんで片手で打っているのに、あんなに強く打てるんだろう」「なんで歩み足でやってるんだろう」「なんで右足が前でも左足が前でも打てるんだろう」「なんでこんなに多彩な技が次々と繰り出せるんだろう」「二刀対一刀、明らかに条件が違うのにお互い真剣に戦っている。剣道はスポーツではなく武道なんだ!」時間のたつのも忘れて見入っていました。

道場の帰りに 


 道場へは、路線バスを使って片道25分かけて通ってました。
 ある日、いつものように二刀の先生の稽古を熱中して見ていたら、帰りが最終のバスになってしまった。
 当時は、路線バスには車掌が乗っていて、道着姿で竹刀を持った低学年の小学生が終バスに乗ってきたので、驚いたんでしょうね、声をかけてきた。

 「おい坊主、今日はなんでこんなに遅いんだ?」
 「二刀流の稽古を見学してたんです」
 「ここの道場の二刀流の先生は有名なんだってな。オレも見てみたいなぁ。二刀流ってどうやってやるんだ?」
 「こうやってやるんです!」

 若い車掌を相手に、上下太刀の構え(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をやって見せた。懐かしい思い出です。

 この37年後に、まるで同じような出来事が私の目の前で起こって、私の人生を変えてしまうとは……。このことは、別の機会に改めて書きます。

日本武道館での稽古


 話は戻って、当時のこと。
 そのころ、毎年正月に日本武道館で小学生が参加できる稽古会があったんです。
 元立ちの先生に小学生が稽古をお願いする自由稽古だったと思います。
 会場は全国から集まった少年剣士で埋め尽くされていました。
 みんな初めてお目にかかる元立ちの先生方に次々と稽古をお願いしていく。

 で、私はというと。防具を着けて、面も着けていますが稽古はしません。必死になって二刀を執っている元立ちの先生を探し回ってるんです。笑
 毎年、その稽古会で二刀者は一人いるかいないか。見つけてもかかっていかない。客観的に見れなくなってしまうから。二刀の見取りをする大チャンスなんです。そんな変わった子供でした。
 
 現在は二刀者は増えてきました。各支部の剣道連盟に数名いるところもあるんじゃないでしょうか。
 当時は非常に少ない。たいへん貴重な存在でした。昭和40年代。ビデオカメラなんて一般には普及していない時代ですから、見たいと思っても見ることができない。
 長年剣道をやっていても二刀剣道を見たことがない人はたくさんいたと思います。

誤解と偏見


 二刀者が少なかった理由の一つに、“片手打ち”に対する偏見があったと思います。
 「片手で打つなんて邪道だ」「相手に対して失礼」「有効打突にならない」なんてことが、まことしやかにささやかれていました。

 諸手上段や片手上段、そして二刀。片手で打つ刀法はことごとく否定され、偏見の嵐が吹きまくっていました。上段に対する"胸突き”のルール(上段に対する突きは、突き垂れだけでなく胸部も打突部位に入るというもの)ができたのは、この数年後のことです。このルールの導入で、上段を執る者は激減していきます。

 私の通う道場の二刀の先生も、そういった意味でたいへんなご苦労をなさっていたと、子供ながらに感じていました。
 そんな状況ですから、身近に素晴らしい片手刀法の継承者、二刀の先生がいても、それを習おうとする若い人がいなかったんですね。

 小学生だった私は、こんなことを胸に秘めながら剣道をやっているようになっていました。

 「高校生になったら、この二刀の先生に弟子入りして二刀流を習いたい。そして将来、二刀で全日本選手権に出場したい。そのために今は一刀で頑張って強くなる。二刀をやる時に誰にも文句を言われないようにしてやる」


 まあ負けん気の強い子供でした。

 しかしこの頃、すでに病魔は忍び寄ってきていたんですね。16歳になり、夢をあきらめることになるとは……。(その原因はこちら
 

2019年2月7日木曜日

剣道 片手刀法に魅了された少年時代 その1

二刀流 故松崎幹三郎先生 


「真の二刀流」の目撃者になった


 子供のころ所属していた剣道の道場に、二天一流の二刀を執る先生がいらっしゃいました。

 その先生が稽古をしているところを初めて見たのは、小学3年の時です。衝撃的でした。

 他の先生方はもちろん諸手で竹刀を振っている。その中でただ一人片手で竹刀を振り、両手に1本ずつ竹刀を持っている。しかも一方の竹刀は極端に短い。二刀流だ。
 足さばきは「歩み足」。右足が前でも左足が前でも打っている。一切下がることなし。打ち損じがほとんどない。振ったらすべて一本だ。
 圧倒的に強い。それでいてとても美しい。まるで踊りを踊っているようだ。

 あれから46年たった今もはっきり覚えているんですね。あの時の光景が脳裏にやきついている。足の指の動きまで。

 その二刀の先生は稽古に入る時、お相手に「一刀でやりますか?二刀でやりますか?」と聞く。お相手が「一刀で」と言ったら、竹刀を取り換えるために一旦下がる。一刀用の竹刀に持ち替えて、礼法から蹲踞、抜刀、そして構え……
 今度は右片手上段です。今ではお目にかかることのない片手上段。片手で構えて片手で打つ。竹刀を持たない方の腕は体側に下げたまま。片手で上段からすべての打突部位を見事にとらえる。応じ技も片手で応じて片手で打つ。その華麗さは、諸手上段の比ではありません。
 
 松崎先生は、大正生まれで、昭和初期の旧制中学の時に剣道を始め、その時の指導者が二刀者だったために初心者から片手刀法だけを習った方です。
 ですから、諸手一刀中段は習ったことがないのです。そういう方がいらっしゃたんですね。昔は。
 東京帝国大学卒で、人格的にもすばらしい先生でした。



 「大人になったら二刀をやりたい。片手刀法で試合に勝ちたい」



 その後、16歳の時に十二指腸潰瘍の悪化に伴う極度の貧血で、剣道をあきらめました。


 「もう剣道をやることはないだろう」


 それから30年後、あるきっかけであの衝撃がよみがえり、二刀で剣道界に復帰するとは……

 (そのきっかけとは、こちら


2019年2月5日火曜日

平成30年 二刀で千葉県剣道選手権大会(全日本剣道選手権大会千葉県予選)に出場

忘れかけていた夢への挑戦


千葉県剣道選手権大会


 2018(平成30)年の9月、54歳にして千葉県剣道選手権大会に初出場しました。ダントツの最年長でした。笑
 
 9年前に30年のブランクから剣道を再開するも、一昨年、急性リンパ性白血病になり、約1年間の闘病生活を送りました。
 昨年4月に、仕事と剣道に復帰。5月に地元市民大会に強行出場し、壮年の部で優勝しました。
 
 大病をしたことによって、やり残したことでやれることはすべてやっておこう、と思うようになり、子供のころに目標にしていた千葉県剣道選手権大会に出場することにしました。

 しかしこれがよくなかった。昨年9月の試合当日、どうも調子が悪い。体に力が入らないんです。試合に向けて稽古を頑張りすぎちゃったんですね。
 
 長期間、抗がん剤治療をした後なので、本当はもっとゆっくりペースを落として、体調を見ながら稽古をしていかなければならないのに、いきなり元のペース全開で稽古してしまった。
 これですっかり体調を崩してしまったんですね。

 試合の方は、一回戦の第一試合。出場者の中で最年長者が二刀を執って出るのですから、大注目を浴びました。
 内容はさんざんで、体に力が入らないので、まるで自分の体でないような感じ。フワフワしちゃって機がとらえられない。打っても打っても当たっても当たっても旗が上がらず、延長で20分以上試合してました。
 最後は精も根も尽き果てて、足が止まったところに、面に乗られてしまいました。

 試合後は、着替える体力もなく、観客席で防具を着けたまま1時間座り込んでしまいました。
 無謀でしたが、まあ自分らしいといえば自分らしい挑戦の仕方だったなと思います。

 人生波乱万丈

 次の千葉県剣道選手権大会も挑戦できる機会があればしてみたいですね。

 まずは体調を万全にしなければいけませんね。
 

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