2019年3月31日日曜日

リバ剣の準備 その4 打ち込み②

握った手が開かない


間違った素振り


 前回の投稿の続き。

 このころ、あの“2㎏の鉄筋棒”での片手素振りをやり始めて、1カ月くらいたっていた。重いものを振ることは逆効果であることも知らずに。

 鉄筋棒の持ち手の部分はテーピングでグルグル巻きにし、手には作業用の分厚い皮手袋をはめて素振りをしていました。
 それでも、手のひらは豆だらけ。30年ぶりにやり始めて、鉄の棒を手で握って、片手で振っているわけですから、当然ですよね。
 
 その素振りを1~2時間やった後は、手を開くことができなくなり、しかも握力もなくなってしまいます。
 夕食を食べる時に、手が開かなくて箸が使えず、握った手の平にスプーンを差し込んで、妻にテープを巻いて固定してもらって食べたこともありました。

面打ちが当たらない


 そんな状態から、いよいよ打ち込みの開始。海岸沿いの防風林の中で。(その経緯は「リバ剣の準備 その3」をご覧ください)
 
 背の高さほどの松杭を打ち込み台に見立てて打突してみる。
 まずは「面」打ち。
 水分補給用に持ってきたペットボトルを“小刀”として左手に持ち、大刀(竹刀)を右手に持って、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えた。一応、正二刀です。
 小刀は中段に構えたまま、大刀で「面」打ち。最初は、踏み込まずに打てる距離に立って打ってみた。

 「当たらない」

 松杭の直径は12~13cmぐらいだったでしょうか。全然当たらないんです。
 10回打って1回も当たりませんでした。松杭の左右どちらかに、わずかに外れてしまう。

 「こんなはずじゃない」

 試しに、左手で打ってみることに。大刀を左手に小刀を右手に持ち替えて、逆二刀に構えた。

 「当たった」

 10回打って、外したのは3回ぐらい。
 右片手で打つ事が、こんなに難しいとは思いませんでした。
 片手打ちの「基本」が解っていませんでしたから、当然といえば当然なんですが……。もう少しうまくできると思っていたので、ショックでした。

「正二刀」で剣道再開したい


 高1までは剣道をやっていたので、小学生のころから諸手で竹刀を振っていても、「左手で切る」という意識は常に持って竹刀を振っていました。
 30年ブランクがあっても、そういったことは身に付いているんですね。左片手なら、打突力は弱いが当たります。

 しかし、私がとりあえず目指したのは「正二刀」での剣道再開。小学生の頃に私が見た二刀者はみんな「正二刀」でしたから。私の憧れです。(その当時の様子はこちら

 後に、逆二刀を稽古して、最終的に“正逆”両方できる剣道家になろうと思っていましたが。

 「まずは、右片手で正確な面打ちができるようになろう」

 その日から雨の日以外は毎晩、“防風林の中で”打ち込み稽古をするようになったのです。


 仕事から帰って夕食を済ませたら、まず片手素振り。あの“鉄筋棒”で。
 その後、“防風林の中”で打ち込み。トータルで1日3時間以上稽古していたと思います。
 今考えれば、どれも正しい稽古法とは言えないものでした。

 この2か月後に「二天一流武蔵会」で指導を受け、正しい二刀の稽古法を徐々に身に付けていくことになります。そして、さらに厳しい稽古を自分に課すことになるのですが……。

 しばらくは、我流の“稽古”が続きました。


2019年3月30日土曜日

リバ剣の準備 その3 打ち込み①

足さばきと素振りでは物足りない


実際に片手で打ちたい


  9年前(2010年)にリバ剣を決意し、道場デビューする前にやったこと。

 前回の投稿(「リバ剣の準備 その2」)までで、足さばきや素振りなどについて書きました。

 そこまでやったら、次は「打ち込み」ですよね。

 片手素振りを毎日3時間以上やり続けた。2㎏の鉄筋棒で。笑
 その結果、剣道に必要のない筋肉がいっぱい付いた。これが後で、大ブレーキになるんですけど……。そのことは、回を改めます。

 実家に帰った時に、30年前に使っていた竹刀を見つけて、持ってきた。
 片手で振ってみたらビュンビュン振れる。何しろ、毎日2㎏の鉄筋棒を振ってますから。笑
 
 そうなると、「実際に、何かを打ってみたい」という衝動に駆られますよね。
 道場デビューの前に、片手で「面」「小手」「胴」を打てるようにならなければなりません。いきなり二刀で稽古するためには。

打ち込み稽古する場所


 ここで、問題に突き当たります。
 “打ち込みをする場所がない”のです。

 自宅はマンションですので庭がありません。バルコニーで打ち込み稽古したら、ご近所迷惑だし……。


 小学生のころ、私は剣道が大好きで、週3回の道場の稽古をいつも待ち遠しく思ってました。
 「なんで、道場の稽古が毎日ないんだろう」
 そんな少年だったので、道場のない日は家の裏山で、桑の木を相手に“打ち込み”をやってた。


 「そうだ、あの頃のように外で“打ち込み”ができるところを探してみよう」

 日曜日の昼間、ジョギングがてら探してみた。自宅マンション周辺は、アスファルトとコンクリートだらけ。裏山なんてないし、どこでやっても他人に迷惑がかかる。

 「海の方も探してみるか」

 自宅マンションから10分ぐらい歩けば海なんですけど、そこへは車道も歩道も整備されておらず、地元の人間もあまり行かないところ。昼間でも人けがない。 

 「あった」

 そこには、埋め立て造成当時に植えられた防風林が、1㎞ぐらいにわたって海岸沿いにありました。
 30年前までは、市内の海岸沿いに、この防風林がつながっていたのですが、開発が進むにつれその姿を消していきました。
 ここは、最後に残った1区画。

 「ここでやろう」

防風林の中で


 その日の夜、竹刀を持って“防風林”を目指して走った。11月のこと。秋とはいえ、夜はかなり冷える。
 目的地について驚いた。真っ暗なんです。外灯がない。
 もちろん周りには、民家や建物、人けもありません。
 恐ろしくなって、帰ろうかと思いました。笑

 でも、他に“打ち込み”ができる場所もないし、こんなことであきらめるわけにはいかないと思い、道のない真っ暗な林の中へ入っていった。
 しばらくすると、目が慣れてきてうっすらと辺りが見えてきた。何に使う予定だったのか、数本の松杭が置いてある。そのうちの1本を立ち木に立て掛けてみると、ちょうど自分の背丈と同じ高さ。

 「これを打とう」

 こうして毎夜2時間、ここで“片手での打ち込み稽古”が始まったのです。
 

2019年3月29日金曜日

リバ剣の準備 その2 食生活の改善、素振り、再開と同時に二刀を執る理由

今できることをやる


食生活の改善


  9年前(2010年)、リバ剣を決意し、道場デビューする前にやったこと。

 前回の投稿(「リバ剣の準備 その1」)で、「基礎体力作り」と「足さばき」について書きました。

 駅の階段を1段飛ばしで昇ったり、夕食の後にジョギングしたり。20㎏のダンベルを購入して筋トレもやり始めました。

 食事の量は3倍に増えましたね。特に、朝食をちゃんと食べるようになった。それ以前は、朝食を食べる習慣がありませんでした。しかし、3倍食べても体重の変化はほとんどありませんでした。

 体内の細胞が新しいものに入れ替わるのに、200日かかると聞きます。
 今食べているものが、200日後の自分の体を作る。食べるものにも気を遣うようになりましたね。
 バランスのいい食事を心掛けたのはもちろんですが、一番大きな変化はジャンクフードを食べなくなったことと、お酒を飲まなくなったこと。

 どちらもやめたわけではありません。自然と口にしなくなった。
 毎日晩酌してたのが、「その時間があったら素振りしたい」、という意識に変わった。お酒を飲むのは、会社の忘年会だけになりました。笑

素振り


 「リバ剣」と同時に二刀を執るということを決めていました。(その原点は、こちら

 基礎体力も徐々についてきて、「足さばき」も少しですが感覚を思い出してきた。
 “道場デビュー”も2カ月後と決めた。

 「素振りをやろう」

 無我夢中でしたね。“道場デビュー”の時に、竹刀を片手で振れるようになっておかなければならない。いきなり二刀で稽古を始めるつもりでしたから。

 片手で竹刀を振れるようになるには筋力をつけた方がいい。なんて勝手な思い込みで、職場の職人さんに作ってもらった約2㎏の鉄筋棒を両手に1本ずつ持ち、片手素振りをやった。

 これは、後々、大きな逆効果となって表れて出てくるんですけども、このころはまるで解ってませんからね。脂肪の下に筋肉がついてしまったので、上半身はプロレスラーみたいになってました。笑

リバ剣と“同時に”二刀を執る理由


 小学3年の時に二刀流の稽古を目の前で見て、将来、二刀をやろうと決めた。
 小学校高学年になり、そして中学生になってもその決意は変わりませんでした。
 しかし、心配事が一つありました。
 
 「いつ二刀を始めると言い出せばいいんだろう」
 
 当時は、今とは比べものにならないくらい、二刀に対する誤解と偏見がありました。(当時の様子はこちら
 ですから、私のように将来二刀をやりたいなんて言っている人には、会ったことありませんでした。
 そんな状況の中で、「二刀をやる」なんて言い出したら、周りからは“ドン引き”され、指導者からは中傷されることは、目に見えていました。

 45歳でリバ剣を決意し、子供の頃の夢を実現するチャンスが目の前に来ている。
 二刀をやり始める機会を失うわけにはいかない。
 道場に行って、「30年ぶりに剣道をやるんだったら、しっかり一刀からやりなさい」なんて言われたら大変です。
 
 私は決めました。
 最初から二刀をやってましたって顔をして道場に行こう!と。笑

 そのための準備は続きました。
 

 

2019年3月28日木曜日

リバ剣の準備 その1 基礎体力作り、足さばき

運動とは無縁の生活から転換


まずは歩くことから


 9年前(2010年)、45歳の時に剣道再開を決意した。ブランク30年。きっかけは、一人息子がくれました。(その出来事はこちら
 
 リバ剣と同時に二刀を執ると決めたので、正しい二刀を基本から習いたいと思い、ネットで検索して「二天一流武蔵会」を探し出した。(その時の様子はこちら

 
 さて、道場に通い始めるまでに、いくつか自分でしなければならないことがあった。

 まずは、基礎体力作り。

 運動不足、堕落しきったこの体。なるべく歩くことを回避することを第一に考える日常。ここから脱出しなければならない。
 20代のころと比較すると、体重は30㎏以上増えた。運動らしい運動はまったくやっていませんでした。

 「まずは歩こう」と決めた。
 毎朝の通勤で最寄り駅までは路線バスを利用していましたが、徒歩に変更。約2㎞。これがつらいのなんのって、30分かかりました。こんなんで、剣道なんて出来るのかと思いましたね。でも、やるしかない。もう、決めてしまったから。

 数日すると、所要時間は25分に短縮してた。
 
 「よしっ、駅まで“送り足”でいってみよう」

足さばき 


 とにかく「リバ剣」を決意した直後ですから、やる気満々です。
 アスファルトの歩道の上を、靴を履いて「送り足」を「すり足」でやるわけですから、ちゃんとできるわけありません。笑
 それでも本人は真剣ですよ。すれ違う人たちが、不思議そうな顔をして見ていましたね。そんな視線を感じながらも、お構いなしに“送り足”をやった。

 やってみてどうだったか……。全然できませんでした。
 5mも続かない。1、2、3… 6回足を継いだらもうできない。心臓はバクバク、息はぜーぜー、送り足がこんなにキツイとは思いませんでした。

 覚悟はしてましたが、改めて前途多難だと思い知りました。

 送り足で歩いたり、普通に歩いたり、そんな感じで自宅と最寄り駅の間を朝夕2㎞ずつ歩いた。すり足でやってますから靴の底はすり減り、つま先も傷み、新品のジョギングシューズが1カ月でボロボロになりました。

  今から考えれば、正しい足さばきの稽古とはいえませんが、やらずにはいられなかった。
 40代半ばを過ぎて、新たな目標を持つことができた喜びで、毎日が輝き始めました。
 

2019年3月27日水曜日

白血病~退院後の日常~

5年間の寛解維持を目指して


健康な状態に戻るわけではない


 急性リンパ性白血病フィラデルフィア染色体異常になり、化学療法(抗がん剤治療)、放射線治療を受け、1年ぶりに復職した。

 好きな剣道も再開して、子供のころに目標にしていた全国大会出場を目指して、千葉県予選にも出場できた。1回戦負けでしたけど。

 仕事も剣道も病気になる前のように頑張ってみて、ちょっと気づいたことがあるんです。

 白血病は、抗がん剤の影響で減少した白血球などの血液成分が回復すれば、食事も運動も制限はありません。

 なので、一連の治療が終わり、自宅での生活が始まれば、次第に体力がついてきて、元の状態に戻れると思っていた。

 これがそうではなかったんですねぇ。
 リハビリがてらに自宅周辺をウォーキングしたり、食事制限もなくなったので好きなものをたくさん食べたりして、徐々に体力はつきました。ある程度のところまでは。

 ですから、仕事も剣道も再開した。しかし、一旦疲れがでると、回復するのに時間がかかるのです。明らかに以前と違う。
 仕事でも「今日はちょっと疲れたな」なんて思っても、翌日になれば何てことありませんよね。それがそうじゃない、翌日もその疲れがそのまま引き継がれてる。剣道の稽古に行くと、3日間は疲れがとれない。仕事に行くのもキツくなるんです。
 
 月1回の通院の際、主治医にそのことを聞くと、やはり長期の抗がん剤治療を受けた影響なのだそうです。
 それでも私の場合は良い方らしく、その他に困ったことといえば足のつま先のしびれぐらいですかね。このしびれは、一生なくならない人もいるそうなので、長く付き合わなければならないと思ってます。

 そんな状態なので、仕事が終わればまっすぐ家に帰ります。
 剣道の稽古も週末に1時間だけ。しかし、冬場の今は稽古はお休みしています。汗をかいた後に外の冷たい風に当たるのが怖いんです。この病気になってから、風邪をこじらせて肺炎になったことが2回ありますから。退院して1年以上たち、体の抵抗力もついてきているので、もうそこまで重症化することはないと思うのですが……。

 無理をしなければ、健康な人とほとんど変わらない生活が送れている。入院中の状態と比べれば、まあ、よくここまで回復したなと思いますね。感謝の気持ちでいっぱいです。

 癌の経過観察はあと4年。長いなぁ。


 ちなみに、この急性リンパ性白血病(フィラデルフィア染色体異常)という病。私の場合(50歳代で、骨髄移植せず)は、5年後の生存率は10パーセント以下なのだそうです。


2019年3月26日火曜日

剣道二刀流 「正二刀」「逆二刀」を「右二刀」「左二刀」と言い換えてよいのか

剣道二刀流の構えの呼称について


認識の後退


右二刀って、右手で二本の刀を持つのですか?
左二刀って、左手で二本の刀を持つのですか?

いいえ、二刀とは、両手に一本ずつの刀を執って戦う片手刀法です。右とか左とかの問題ではありません。

本来は、右手に大刀、左手に小刀を持つ構えを「正二刀」といい、左手に大刀、右手に小刀を持つ構えを「逆二刀」といいます。

しかし、近年、これを、「右二刀」「左二刀」と言い換えている方たちがいます。
私はその方たちを、批判するつもりはありませんが、以下、私個人の見解を述べさせていただきます。

正逆の概念(法則)


左右、上下、前後、東西南北など、これらの言葉は対象となるもの(相手)とのかかわりがありません。自分が任意の地点に立った場合の単なる方向や方角です。

正逆、表裏、陰陽、円明、光陰、昼夜(二天)など、これらの字義は一つの“宇宙”、理(ことわり)を表しています。
一方を認識してそれを否定すれば、もう一方が肯定される(証明できる)という関係にある。この二字が一対になって十全ならしめるわけです。

剣理にならって技を繰り出せば、この理に一致することは、言うまでもありません。陰流や新陰流の号も、この思想から命名されたと推察されます。

左右という認識方法であれば、「右」を認識できたとして否定しても、残るのは左ではなく、上、下、前、後、斜め左…、無数の方向が存在しますから、「左」だけを肯定・証明することができません。しかも、最初に認識した「右」は非常に曖昧です。しかしそれ以前に、対象(相手の存在)とのかかわりのない認識方法なのです。

一刀流や新陰流、二天一流などの流祖たちが到達した境地で実行された認識方法を、よく理解すべきです。
その認識方法は、技はもちろん、足の運び(陰陽の足)、攻め(表裏の攻め)、刀法(順さばき逆さばき)など、剣理のあらゆるものに合致します。

 例えば、お相手との立合いの中で、お互いが「表」からの攻防に執着している場合、一方が瞬時に「裏」からの攻めに切り替えて一本をとる。あるいは、「裏」からの攻めに切り替えたと見せて、お相手が「裏」の防御に執着した刹那を「表」から一本をとる。これは表裏の法則を体現した攻めの一例です。


また、正逆の概念は剣道だけにあてはまるものではありません。

書道では、文字を書くとき(例えば「小」の文字)、左右一対になっている点の右側の点を“正の点”左側の点を“逆の点”と言います。

また、製造業や建設業にたずさわる方であればお気づきだと思いますが、回転装置の付いた工作機械や製造機、建設機械や重機などを使用する場合、「正転」「逆転」という操作の指示を、「右回転」「左回転」と言い換えたら、大変な事故につながってしまいます。
一方から見ている人にとっては「右回転」でも、反対側から見ている人にとっては「左回転」になるからです。(実際にそういう事故がたくさん起きています。)

なぜそういうことが起こるのか。「正逆」(あるいは表裏、陰陽など)を「左右」という概念に置き換えてしまった場合、その行動が“真”であるのか“偽”であるのか問うことができないのです。ましてや“真”である証明をすることなどできません。だから事故になるのです。

「理」の追究


剣道で、相手を「制する」「一本をとる」、「理合を体現する」、ということは、自らの行動が“真”であることを証明したことと同義です。

そしてそれが心の喜びとなり、お相手は「参りました」と素直にその「理」を受け入れる。お相手と自分が一つになって、「理」を同時に、「認識」、「体現」、「証明」した瞬間です。

剣道の魅力はここにあります。対象と自分、この運動世界の中に「理」があるのです。独りよがりで成立するものではありません。

繰り返しますが、「左右」には対象がない(必要としない)。自分が任意の地点に立った場合の単なる方向です。独りよがりの認識方法ともいえるのです。


「正逆」(表裏、陰陽など)を「左右」という概念に置き換えてしまった場合、このような“理の体現を追求する稽古が成立しないということがお解りいただけたと思います。(剣道をスポーツとしてとらえている方は「左右」と言い換えてもかまわないと思います。その場合、“稽古”ではなく“練習”になりますね。)

「理」を冒してはならない


宮本武蔵が『五輪書』の中で、繰り返し言っている「勝つ」という言葉。これは単に勝ち負けのことを言うような浅はかな意味ではありません。

武蔵の言う「勝つ」とは、「制する」、「理である」、「“真”であることを立証する」、という意味だと私は思います。

古流である二天一流を修行する私たちにとって、二天(円明)、陰陽、表裏、正逆などの認識方法は、冒(おか)すことのできない「剣理の精髄」です。

「正逆」という深い意味を持つ言葉を、短絡的に「左右」と言い換えてしまう。
まさに命を懸けて理合や理法に到達した戦国流祖たちに対して、敬意がないから生まれてくる発想です。

流祖たち(古流)を見下せば、自分の剣道がつまらないものになるのに、そういう態度から離れられない。歴史の中に実在した達人たちに、凡俗極まる現代人の観念をなすりつける。
本当に悲しいことです。

私たちが求めているものは、現代風にアレンジされた二刀(剣道)ではなく、数百年続きこれからも未来永劫連綿として伝えられる正しい二刀(剣道)の理法なのです。




2019年3月24日日曜日

復職→すぐに肺炎に→再入院→退院直後→千葉県剣道選手権大会出場

危険な挑戦


復職して4カ月で肺炎になり再入院


 8月のある日曜日の午後、翌月に迫った千葉県剣道選手権大会に向けて実践的な稽古相手を求めて、隣町に出稽古に行きました。
 気温は35℃ぐらいあったと思います。無謀ですよね、白血病で長期間化学療法(抗がん剤治療)を受けた後に、ガチンコで剣道やってるんですから。

 入院中、ベッドの上でいつもこんなことを考えていました。

 「いつ死んでも悔いが残らないように、今やれることはやっておきたい」

 それでもやれることは限られていました。
 妻や息子が面会に来れば、今伝えなければならないことを真剣に話し、一時退院すれば、家の中の物の整理と不要な物の処分をする。そんなことぐらいです。体力がありませんからね。
 今まで購入をためらっていた物がいくつかあり、後々必ず必要になるからと、妻に相談なしで買ったりして、喧嘩にもなりました。

 「死んだら何もできない」。そんな考えがいつも頭にあって、知らず知らずのうちに無理をするようになっていたんですね。

 そんな状態ですから、退院し復職してすぐに剣道も再開しました。病み上がりで出場した市民大会で優勝してしまったために、その4カ月後に行われる県大会にも出場することを決めた。すると必然的に稽古にも力が入り、無理を重ねるようになっていったのです。

 で、その8月の暑い日。盆休み中でした。
 出稽古に行ってガチンコで剣道をやった帰り、車を運転中にあまりの疲労から眠気が差してきた。30分ぐらい仮眠してから帰ろうと思い、交通量のほとんどない道端で停車して寝てしまった。
 
 「寒ーいっ!」
 飛び起きましたよ。外を見ると辺りは真っ暗。エアコンの冷たい風が直接体に当たってました。しかも全開で。時計を見たら3時間たっている。

 寒さでガタガタ体が震えながら、急いで帰宅して熱を計ると37度3分。「まずい、風邪を引いたかも」と思いましたが、翌日も一日寝ていれば熱が下がると思い、安静にしていましたが38度台に上昇。その翌日は39度台になった。

 発熱したら、すぐに病院に来るようにと、主治医から言われていたので、あわてて病院に行きました。

 「肺炎です」って。そのまま入院となりました。

 「風邪を引いただけでも重症化しますから、気をつけてください」と退院するときに主治医に言われていました。
 
 あれはこういうことなのか、と思いましたが遅かった。
 昨年8カ月間、入院中お世話になった看護師さんたちに半年ぶりに再会した。気まずかったですね。出戻りです。
 幸い癌は再発しておらず、1週間の入院ですみました。
 

千葉県剣道選手権大会に出場


 肺炎で1週間入院して退院してきた時には、千葉県剣道選手権大会は1週間後に迫っていました。

 普通、出ませんよね。こんな状態で。
 白血病の長期抗がん剤治療を受けた直後で、後遺症満載の体で、肺炎になって入院し、退院後1週間で公式戦なんて。

 でも、小学生の頃に目標にしていたんです。将来、全日本剣道選手権大会に出場することを。
 千葉県剣道選手権大会は、その千葉県予選です。
 「死ぬ前に、子供の頃に思い描いた夢にチャレンジしておきたい」
 その一心で出場を決めました。

 市民大会で優勝していますので、出場要件はクリアしています。
 しかし、問題は年齢です。その時、私は54歳。

 ルール上は年齢の上限はありませんので、出場可能です。しかし、この大会は全国大会の予選であり、公式戦です。
 普通のスポーツでいえば、アスリートが出場する大会なのです。ですから、出場者は20代~30代がほとんど。例年ですと、最年長者は40代前半のようです。
 私が出れば、ダントツの最高齢間違いなし。

 それでも、やっておかなければならなかったんです、“夢への挑戦”を。

 結果は、予想通り1回戦負け。(この試合については、こちらをご覧ください)
 お相手は30歳の方でした。制限時間内に決着がつかず、延長で20分ぐらい試合をしてました。

 悔しさ――。ありましたよ、悔しかった。また来年出場しようと思いましたね。

 そして、喜びと安堵感。間に合った、夢にチャレンジできたという。

 かなり無謀でしたけどね。


 前の「白血病」の投稿はこちら

2019年3月22日金曜日

白血病から生還、復職、剣道再開

白血病から生還


復職


 急性リンパ性白血病、フィラデルフィア染色体異常と診断されてからちょうど1年。
 8カ月間の抗がん剤治療(入院)と1カ月間の放射線治療(通院)、そして3か月間の自宅療養を経て、2018年4月に元の職場に復職しました。

 会社には特別な配慮をしていただき、リハビリがてら負担のかからない仕事から始めさせてもらえました。
 白血病と診断された時は、まさか仕事に復帰できるとは思いませんでしたので、うれしかったですね。会社や上司、同僚の皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 この病気にかかって、治る見込みがないと会社に判断され、退職を余儀なくされてしまう方も多いと聞きます。命が危ぶまれる病気にかかって、そのうえ仕事も失う…。胸が詰まります。

剣道再開


 復職と同時に剣道の稽古も再開しました。病に倒れる前までは、稽古のし過ぎだったと反省しきり。(以前の稽古メニューはこちら
 最初の1カ月間は、週1回1時間の稽古だけに抑えました。本当は、もっとやりたかったんですけど…。稽古をすると3日間ぐらい疲労が取れないんです。抗がん剤治療の後遺症ですね。

 しかし、1カ月後に開催が予定されている市民大会には、このときすでに出場する気満々になってました。試合大好きですから。
 そして、試合当日を迎えました。

復帰戦


 当日、試合会場について、トーナメント表を見て愕然としました。1回戦のお相手が、一昨年の大会の優勝者。その時、私はこの方に負けているのです。しかも今回は、病み上がり。勝ち目はありません。

 「とっとと1回戦で負けて、早く家に帰って体を休めよう」

 そう思いましたね。とにかくこのころは、体を休めたいということばかり考えていましたので。

 そんなあきらめムードの中、1回戦が始まった。蹲踞の姿勢から「はじめ」の号令がかり、立ち上がって上下太刀に構える。(注:上下太刀とは二刀の代表的な構えの一つ。上段の構えの一種)

 「あらっ?」

 ちょっと様子が違うんです。私は体力も筋力も極端に落ちました。稽古もしてません。しかし、お相手の動きがよく見える。まったく怖くないんです。気づけば体力がない私が、お相手を追い込んでいる。しかも、足の裏とつま先は、抗がん剤治療の後遺症で感覚がないままなのに。

 終わってみれば、この大会、優勝していました。

 何とも不思議なものですね。長く過酷な闘病生活から得たものが、私の剣道の成長にも作用したのでしょうか。

 表彰式のあと、周りの方々から「本当に白血病で入院してたの?」なんて言われてしまいました。笑 (この大会の試合内容は、こちらの投稿で記述しています)

 しかし、これでちょっと自信をつけてしまったんですね。
 この4カ月後に行われる、千葉県剣道選手権大会(全日本剣道選手権大会千葉県予選)に出場することを決意してしまったんです。(出場の模様はこちら


前の「白血病」の投稿はこちら
次の「白血病」の投稿はこちら
 
 
 
 

2019年3月17日日曜日

剣道 古流に学ぶ

「古流」という裏付けのある「剣道」 

片手刀法。右片手上段からの正面打ち
片手刀法:右片手上段からの正面打ち

剣道家が「流派」に属していた時代


 1972(昭和47)年。小学2年だった私が剣道を始めたころ、元立に立っている先生方は、皆さん大正生まれでした。ですから、現在のように「現代剣道」だけをやっている方はおりませんでした。

 大正生まれということは戦前から剣道をやっていた方々です。それは、ほとんどの方が古流のいずれかの流派に属しているということです。剣道に古流という裏付けがあった時代。揺るがない理論と技がありました。

「講話」と「理」
 当時、私が所属した中山剣友会(現名称:市川市剣道連盟東部支部)は、戦後、GHQによるいわゆる〝剣道禁止令〟が解禁された後、約20の流派の剣道家が集まって始められた道場だと聞いています。
 ですから、指導する先生によって、教え方がまったく違いました。例えば、作法が違う。面打ちの教え方が違う。技の理合いの解釈が違う。
 小学生だった私は、先生によってなぜ教え方が違うのか、それが大変興味深く、稽古に通うのが楽しみになっていきました。
 
 もう一つの楽しみが「講話」です。稽古が終わって整列し、静座の前に小学生に向けて剣道の講話があった。3分程度だったと思います。
 各流派の先生方が日替わりで話をする。これが実に興味深い。各流派に連綿として伝わってきた「理」がある。それを、「剣道」で、あるいは「日常」の生活の中で体現する話。剣道をやっていく上ではもちろん、一人の人間として人生をやっていく上で有意義な話ばかり。学校では絶対に教えてもらえない貴重な話が満載でした。
 今では、そういう「講話」はどこの道場でも聴くことはありませんね。指導者に古流というバックボーンがないからです。残念なことです。

 そして中学生になったころ、剣道の稽古中に、あの“教え方の違い”について、ふと自分の中で“答え”が出た。
 各流派の教え方、言い回しは違うが、言わんとしていること、物毎(ものごと)の根底においてのは同じなんだ、ということが。
 小学生の時に、古流の裏付けのある先生方に剣道を教わったことは、私の財産になりました。

古流に習い、剣道で実践


 高校で剣道を離れて、45歳の時に再開を決意。同時に二刀を執ろうと決めた。

 それにあたって、古流二刀を教えてもらえる道場を探そう。見つからなければ剣道再開はあきらめよう。そう思いました。

 なぜそう思ったのか。
 それは、我流でやるなら意味がないと思ったからです。

 諸手一刀中段の剣道を、我流でやっている方は、おそらく日本で一人もいないと思います。必ず、最初は指導者から「基本」を習っているはずです。

 しかし、これが諸手左上段や二刀となると、片手刀法の基本も習おうともせず、自分勝手な思いつきでやる人が多い。

 言うまでもなく、鎌倉から江戸初期にかけての各流派を源流とする「剣術」が連綿と継承され明治期に統合されたものが「剣道」です。
 私たちは、この“源流”の部分を「稽古」しているわけです。「古(いにしえ)を稽(かんがえる)
 
 自分の思いつきでやっているもの、我流でやっているものは「稽古」とは言わず、「練習」と言います。我流でやる剣道ほど、見ていてむなしいものはありません。


白血病の治療~私の場合~⑰ 注意点

特に気をつけたいこと


病院選び


 白血病と診断されて、会社の上司に報告すると、こんな話が返ってきた。
 上司の甥っ子が高校生の時に白血病になり亡くなったと。その親御さん(上司の兄)は、病院選びを間違ったと、後で大変後悔されていたそうです。どうも最初の段階で適切な治療を受けることができなかったらしのです。

 私が入院中にも、やはり他の病院で適切な治療を受けることができずに、転院してきた方を何人か見ました。その方たちのその後の治療経過は、あまりよくなかったように思います。

 白血病を疑われたら、血液内科のある総合病院を受診しなければなりません。そして、必ず「無菌室」の設備のある病院であることを確認することが大事です。

 私の場合は、自宅から最も近い病院が某大学病院だったので、その点はラッキーでした。

病院は1カ所に、そして薬は「院内処方」で


 先ほど病院選びでは、血液内科のある総合病院を受診すべし、と言いました。これは、他に持病があって病院にかかっている場合、複数の病院や薬局の医療費は合算されず、個別に限度額認定が適用されるからです。

 例えば、もともと糖尿病でA病院にかかっていて、毎月検査と薬の代金が1万円かかっていたとします。白血病になりB病院に入院して限度額認定を受け、上限の88,000円(前年の収入によって変動します)を毎月支払っていたとする。
 入院での治療を終えて通院で治療を続ける場合、以前のようにA病院に糖尿病の治療で受診すると、合算されませんから1万円の支払いが発生します。白血病の薬を院外薬局で求めれば、それも合算されませんから支払いが発生します。特に白血病の薬は非常に高額ですから、ここでも限度額適用の上限の88,000円の支払いが発生します。(申請すれば一部は戻りますが、全額は戻りません)
 これを、糖尿病もB病院で治療し、白血病薬も院内処方にしてもらえば、88,000円で全て収まってしまう。それ以上の支払いが発生しないのです。

がん保険加入は必須


  • 受け取ったがん保険の診断給付金(一時金)は残しておく方がいい
     がん保険の診断給付金(一時金)の必要性は、「白血病の治療~私の場合~②」の中で書きました。入院1~2カ月目に必要です。その後、各種保険請求の手続きが済めば、使った一時金を戻しておくことができます。
     診断給付金は、がんと診断された最初の1回しかおりません。再発したり、新たに違う癌になっても一時金はもう出ません。ですから、万が一の再発のために備えておく必要があると思います。

  • がん保険のカスタマイズ
     がんになった時に一番頼りになる保険は「がん保険」であることは、言うまでもありませんが、大事なのはその内容です。
     現在は、付帯する保障内容は様々なものがあり、特約をつけられるものもあります。いたれり尽くせりというところでしょうか。しかし重要なのは基本の部分です。
     それは、「診断給付金(一時金)」と「入院給付金」です。中でも、「入院給付金」は最も手厚い保証を設定しておくべきです。
     「入院給付金」は通常の医療保険で保証されているから、わざわざがん保険に入る必要はないという方がいます。しかし、実際にがんになってしまったら、ちょっと心細いですね。通常の医療保険の「入院給付金」の支払い期間には“期限”があります。3カ月間とか6カ月間という。それに対して、がん保険の「入院給付金」は無期限です。しかも再発しても無期限で給付されるものがほとんどでしょう。
     「入院給付金」の給付額はカスタマイズ可能です。〈入院1日あたり5千円の給付が1口〉になっているものが多いと思います。それを何口にするかで、1日の給付額が決まります。例えば、2口で契約すれば1日1万円の給付になる。1カ月の入院で30万円が給付される。かかる医療費は限度額適用認定が受けられますので、月に上限いっぱい支払ったとしても10万円前後。残った20万円で、ケータイ料金や家の光熱費などを支払うことができます。最低でもこれくらいの保証はつけておきたいところです。
     一方、「診断給付金」(一時金)は保険会社によって、金額に差があります。私の場合、この「診断給付金」が非常に役立ちました。(「白血病の治療~私の場合~②」に詳しく記載)最低でも50~100万円ぐらい給付されるものを選びたいですね。


食事や運動に制限なし!寛解を一生維持することを目指す!


 注意したい点で、大まかなところは以上です。細かいところはまた別の機会に書きたいと思います。

 白血病は、寛解して白血球が正常値になって、免疫力が上がれば、食事や運動に制限はありません。
 白血病になる以前の生活にもどることができるのです。

 しかしこれは、“完治”したわけではない。“根治”できたわけでもないのです。医学の現状として、この診断を下すことは不可能なのだそうです。
 再発の確率があまりにも高く、そのメカニズムも解明されていない。

 人智でできることは、「寛解を一生維持することを目指す」こと。

 まずは、他の癌と同様、5年間の経過観察で寛解の維持を目指します。

忘れてはならないこと


 私は、52歳で急性リンパ性白血病と診断され(この年齢でこの病名ですと、5年後の生存率は10パーセント以下)、入院1カ月目で寛解し、奇跡的に現在まで約2年間寛解を維持しております。
 しかしながら、長期間治療を受けても寛解しない方がたくさんいらっしゃる。寛解しても、1,2カ月で再発する方も多い。何度も移植をし、あらゆる治療法を尽くしても寛解せず、旅立たれていく方も多い。また、寛解しても合併症で命を落とす方もいらっしゃいます。副作用のつらさのあまり、自ら治療を中止してしまう方も。
 そういった方々がたくさんいらっしゃることを、私たちは絶対に忘れてはなりません。

 私は、白血病と診断された直後から、家族の者に対して、このことをきつく言い渡しておりました。
 「私が、もし寛解したとしても、絶対に喜んだり、浮かれたりしてはいけない。寛解しない方がたくさんいる。再発する方がたくさんいる。その方々の気持ちを考えるように」と。
 
 今でもそのことを、よく守ってくれています、家族みんな。涙が出ます。


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2019年3月16日土曜日

白血病の治療~私の場合~⑯ 治療を振り返って

この一年で経験した大事なこと


医療の限界


「私はこの治療がいい治療だとは思いません」

 セカンドオピニオンで訪れた病院の医師が、1時間の説明の後、私の帰り際にかけてきた言葉です。骨髄(臍帯血)移植の実績では、日本で有数の病院の血液内科医です。今でも耳の奥から離れない。

 医者も“いい治療”だと思っていないのに、患者に移植をすすめなければならない。
 患者も“大きなリスク”を解ったうえで、移植を選択する人が大半。

 これが白血病治療の現状です。ぶっちゃけ、一か八かなんですよ。(セカンドオピニオンについては「白血病の治療~私の場合~⑦」をご覧ください)

 私は移植は選択しませんでした。今も答えは出ていません。それが正しかったのかどうか。答えが出るのは、私が死んだときなんでしょうね。
 寿命いっぱいまで生きれば、「正解」だったということ。骨髄の癌が再発して死ねば「間違っていた」ということですね。いずれにしても、私は生きているうちに、その答えを知ることはできない。なんて因果な病気なんでしょうか。

「感謝」の意味


 一方で、いい経験になったと思う部分もあります。今まで「感謝」の意味がわかっていなかった、ということに気づけたということです。当然、「感謝」の意味はわかっていたつもりでした。

 抗がん剤の投与が始まり、無菌室のベッドの上で自分の体が壊れていくのが分かる。奈落の底に落ちて行くような感じがする中で、今までの人生が走馬灯のように思い起こされる。そんな時、自分はなんてわがままだったんだろうと気づくんですね。なんでもっと、周りの人に感謝してこなっかたんだろうと。

 今の自分の環境を考えたら、自分は幸せ者だったんだと気づき、涙があふれました。
 元気になったら、人の役に立ちたい、そう思いました。その気持ちは今も変わりません。

がん治療にはお金がかかる


 白血病の治療費については、「白血病の治療~私の場合~②」で書きました。
 いろいろな保険制度やがん保険、入院保険などを活用すれば、治療費や生活費は心配ないと言いました。

 これらの社会保険制度や生命保険は、通院や入院で仕事を休業しているときに、最も大きな保障が受けられます。しかし、これらは期限や制限があります。


  • 傷病手当……所属する会社で社会保険に加入していれば、休職している間は、給与の6~7割程度に相当する額が受け取れます。しかし、同一の病気では最長1年6カ月が、支払いの限度です。当然ですが、1年6カ月以内であっても復職すれば受け取れなくなります。
  • 限度額適用……国民保健、社会保険、共通の制度で、前年の収入に応じて医療費の支払い限度額が設定されているというもの(差額ベッド料金など、自費による医療費の支払いは含みません)。白血病の場合、退院した後は服薬と月一回の通院になります。癌ですから、寛解が続いていたとしても5年間は服薬と通院、経過観察が必要です。しかし、この薬の元々の値段が高い。限度額適用の上限いっぱいの額を、5年間は払い続けなければならないのです。
  • 生命保険……白血病で該当してくる保険は、がん保険と入院・通院保険などの医療保険です。しかし、手厚い保証は入院している時だけ。退院した後は通院の保証がありますが、退院後120日間とか180日間とか、期限があるものがほとんどだと思います。
 
 このように、退院して一定の日数が過ぎたり、復職したりすると、傷病手当や保険金の受け取りはなくなります。しかし、服用薬が非常に高額なため、経過が順調だったとしても限度額適用の上限いっぱいの額を払い続けなければならない。これは、かなりの負担になります。

 退院後もかかる高額な薬代。これは、できるだけの対策をとっておく必要があります。


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2019年3月13日水曜日

白血病の治療~私の場合~⑮ 自宅療養

入院と同じくらい大事な期間


復職をあせって後悔


 約1年かけて化学療法(抗がん剤治療)と放射線治療を終えました。PET-CT検査の結果、「癌細胞はもうどこにもありません。いつ仕事に復帰してもいいですよ」と主治医から言われた。
 私も、退院したらなるべく早く職場に復帰しようと思っていました。しかし、実際は仕事に行けるような体の状態ではありませんでした。

退院後も続く抗がん剤による後遺症


  • 体力・筋力の低下……8カ月間の入院生活で筋力が落ち、特に膝から下に力が入らない。階段の昇降ができない。段差が怖い。
  • 思考能力・集中力の低下……脳の情報処理速度が遅くなる。視覚から入る大量の情報を処理しきれなくなり、苦痛に感じる。スマホやPC、テレビの画面を見るのがつらい。長文を読みたくなくなる。
  • 足のしびれ……足の裏と、つま先がしびれる。フローリングの床を素足で歩くと、砂がまいてあるかのように感じる。感覚があまりないので、スリッパを履いたのも脱いだのも、足元を見ないと分からない。退院から1年たった今も、唯一残る後遺症。
  • 皮膚が薄くなる……表皮が薄くなるので、肌が露出している部分(腕など)が家具などの硬いものにぶつかると、表皮がすぐにむける。点滴の管を押さえるテープなどを勢いよく剥がすと、皮膚まで剥がれる。日光を浴びると、表皮が薄いため、紫外線が真皮まで届いて軽いやけどのように赤くなってしまう。外出時はUVローション必携。
  • 体温の調節がうまくいかない……冬場、室内でも防寒着を着ていた。カイロは欠かせない。


リハビリ


  • ウォーキング……自宅周辺を歩くことを日課にした。初日は500メートルぐらいから始めて、徐々に距離を伸ばしていった。半年後には一日4キロメートル歩くようにした。現在も継続中。
  • タイピング……復職準備のため脳トレが必要と考えた。PCのブラインドタッチができなかったので、これを機会にタッチタイピングソフトで練習した。最初のうちは集中力が持続しないため、一日20分間だけ。毎日続けた。これは効果絶大で、3カ月後には最新のテキストでWord、Excel、PowerPointの演習をやるようになった。そして、1年後にこのブログ開設にもつながった。
  • 料理……買い物に行って→料理して→食べる これがすべてリハビリになった。一食食べるごとに体力がつくのがわかる。味覚障害は、抗がん剤治療終了から1カ月ぐらいでなくなっていた。食の有難さ、食べることの喜びを身に染みて感じた。


自宅療養中の食事と運動


 白血病は白血球数が基準値以上になれば、食事も運動も制限がありません。好きなものを食べられるし、好きなだけ運動もできます。
 しかし、実際にそうなるには体力が必要です。長期入院で衰えた体は抗がん剤の影響もあり、体力が戻るのにはかなり時間がかかります。ある程度のところまではすぐに戻りますが、その先がなかなか戻らない。
 退院して復職し、1年がたった今も、元の体力には戻っていません。

家族の理解と協力があっての自宅療養


 退院して自宅に戻り、療養とリハビリに専念できたのは、家族の理解と協力があったから。安心できる環境、これが何よりだたと思います。

 我が家は、家族3人とも剣道をやっています。息子とは息子が小学校から中学卒業まで、毎週一緒に稽古をしてきました。高校生になった後も、たまには一緒に剣道ができることを楽しみにしていた矢先に白血病に。息子にも寂しい思いをさせてしまった。

 妻は、剣道の強豪校に通う息子が朝練のため、毎日4時に起床して弁当を作り、息子を送り出してから仕事に行く。帰宅してからは息子の夕食のしたくをして、入院中の私のところに面会に来る。週2日は道場で小学生の剣道の指導。休日は息子の試合の帯同。月一で2日間、実家の義母の介護のために帰郷する。そんな殺人的なスケジュールを8カ月間もこなしてくれました。

 妻と息子の支えがあって、つらい治療も乗り越えることができ、復職にむけてリハビリに励むことができたと思っています。

仕事の復帰はあせるべからず


 復職したのは退院して4カ月後のこと。会社に迷惑をかけたくない、という一心から、早めに復帰しました。
 しかしこれが、数カ月後、後悔することになったのです。


2019年3月11日月曜日

池江璃花子さん頑張って!私も白血病患者です ②

池江璃花子さんが3週間ぶりのツイート!


抗癌剤治療のつらさを吐露


 2月12日、Twitterで白血病であることを公表された池江璃花子さん。世間に衝撃が走りました。
 3月6日、約3週間ぶりのツイートがありました。「思ってたより、数十倍、数百倍、数千倍、しんどいです」

 これ、化学療法(抗がん剤治療)をやった人の、率直な感想です。私もそうでした。

 そうなると、白血病の種類としては、「急性」ではないでしょうか。

池江璃花子さんの容体、病名、種類


 白血病はまず、2つに大別されます。「慢性」か「急性」。病気の進行の度合いによってどちらかになります。アスリートである池江さんが「数千倍、しんどい」と言ってますから、寛解導入療法による強い抗がん剤の投与が行われていると思われます。よって、「急性」であると推察されます。

 次に、それぞれに「骨髄性」か「リンパ性」があります。血液を造る造血幹細胞のどの部分が癌になるのかによって決まります。これは、正式な病名の発表を待たなければわかりませんが、どちらであっても病状はあまり変わりありません。
 
 中心静脈点滴で抗がん剤の投与が始まって最初の2カ月間は、一番つらい時期だと思います。私も剣道をやっておりましたので、体力には自信がありました。しかし、抗がん剤の投与が始まると、あっという間に体力が奪われます。全身の筋肉が破壊されてしまうんです。歩くことも、ベッドの上で起き上がることも、しゃべることすらつらくなる。奈落の底に落ちていくような気がしました。

 池江さんは、今まさに、そういう状態で治療を受け、闘病されているんですね。

今日3月11日、数回のツイート


 たくさんの方々からの励ましに対してお礼を言い、東日本大震災に思いをよせ、水泳の日本選手権の観戦を呼びかけておられました。
 今まで経験したことのないようなつらい状況の中で、こんなことが言えるなんて、人間的にもメンタル的にもすごいです。

 この先、まだ長い治療が続きますが、必ず乗り越えてください。応援しています!


前回の池江璃花子さんに関する投稿はこちら
ブログ内の「白血病」に関する投稿はこちら
 

白血病の治療~私の場合~⑭ 白血病は完治はしない

「寛解」を維持する


再発のリスクは一生


 前回の投稿で、化学療法(抗がん剤治療)と放射線療法の最終的な検査として、PET-CT検査を受け、「転移(浸潤)なし」という診断だったと書きました。

 実は、医師のこんな言葉が続いたのです。
 「寛解も維持しています。遺伝子レベルで調べても癌細胞はありません。しかし、白血病が治ったわけではありません」

 やっぱりそうなんだ、と思いましたね。1年前、入院してすぐに妻と二人で主治医から説明を受けた。
 「急性リンパ性白血病です。しかも、フィラデルフィア染色体異常の。完治することはありません。寛解(骨髄の癌が消滅)しても再発のリスクは一生続きます」

白血病の原因は解明されていない


 白血病で解っていることは、「感染しない」「遺伝しない」ということだけ。原因は解明されておらず、治療法も確立されているとは言えません。

 最近の研究では、人によって造血幹細胞のどの部分が癌になるかが異なるということが解ってきて、白血病を数百種類に分類できるようになったようですが、なぜそこが癌になるのかが、解明されていない。原因が解らないから、根治ができないんです。

 ですから、寛解しても2カ月で再発する人、1年で再発する人、5年で再発する人、10年で再発する人といろいろいるわけです。

 しかも医師からこうも言われました。「再発した場合は、寛解することは難しい」と。

 これが、白血病治療の現状です。

 水泳の池江璃花子さんが白血病を公表されてから、白血病の専門医でもないタレント医師たちが、リスクの説明も一切なしに「白血病は完治できるようになってきた」なんて言っていますね。一体どの口がそんなことを言うんでしょうかねぇ。

 例えば、私ですが、50歳代で急性リンパ性白血病、フィラデルフィア染色体異常ですので、5年後の生存率は10パーセント以下です。何を根拠に「完治できる病気」と言っているのでしょうか。

「寛解」を一生維持することを目指す


 完治(根治)ができないのであれば、医師をはじめとする医療スタッフと患者が協力してできることといえば、「寛解が一生続くことを目指す」ことなのです。“ゴールのないマラソン”のスタートです。

 ですから退院した後も、服薬と月に一度の通院(血液検査をします)は続きます。

 そしてまずは復職を目指すことになりますね。仕事はしなければなりませんから。しかし、すぐには無理です。そのへんは甘く考えてました。退院すればすぐに仕事に復帰できるんではないかと。

 とことがそれはとんでもない話でした。仕事なんて全然無理。長期間の入院と抗がん剤の副作用で体はボロボロ。何しろ、まともに歩けないんです。足が前にでない。横断歩道を信号が“青”のうちに渡り切れないんです。
 筋力の衰えは想像以上です。特に脚力の低下が著しい。

 それでも新たな目標に向かって歩み始めることができたという感謝の気持ちでいっぱいでした。そして、人生でやり残したことをやっておこう、そう思うようになっていたのです。


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2019年3月10日日曜日

白血病の治療~私の場合~⑬ PET-CT検査

化学療法と放射線治療の結果を確認


発病してから約一年


 約8カ月間の化学療法(抗がん剤治療)を終えて退院し、通院で約1カ月間の放射線治療を受けた。骨髄移植はしませんでしたが、ひと通りの治療は終了しました。長かったですねぇ、本当に。
 ある意味、貴重な1年間でした。このころ私は53歳。残りの人生をやっていく上で、必要な経験ができたのかも知れない、と思いました。人生観変わりましたからね。

 頭はスキンヘッド。眉毛なし。まつ毛なし。筋力なし。激やせ。よちよち歩き。
 入院中は気になりませんでしたが、退院してから人目が気になりましたね。誰が見ても癌患者だとすぐ分かる。相当ヤバい状態だと思ったでしょうね。

 特に困ったのが、ご近所さんに会ったとき。変わり果てた姿を見て、皆さん驚きますので、会う人ごとに説明しなければならない。おかげで、白血病のレクチャーはだいぶ上達しました。笑

 そんな中、最終的な検査にのぞむことになりました。

 PET-CT検査。1年前にもやりました。その時が初めて。

 装置は、普通のCTの数倍の大きさがあり、目の当たりにすると異様な雰囲気に圧倒されます。検査を受ける前に、造影剤を点滴で投与するんですが、腕に針を刺して造影剤を注入する段階になると、検査技師と看護師は別室に退避します。放射性物質なんですね、その造影剤は。
 1年前は、自分がとは知らずに検査を受けてますので、ここで初めて自分が大変な病気になっているんではないかと、気づき始めました。当時のことを思い出すと、今でも怖いですね。

 そしてちょうど1年後に同じ検査。あの時の、何とも言えないような気持……、何かの間違えであってほしい……、自分のことではないような……、そんな気持ちがよみがえってきましたね。あれから1年。長かったなぁと。

検査の結果


 3日後にPET―CT検査の結果を聴きに再び病院へ。

 「これが1年前の検査の画像です」

 PET-CT検査とは、全身の癌の状態が一目でわかる検査方法で、画像は全身の骸骨姿のレントゲン写真のようで、しかも非常に鮮明です。
 
 「黒い部分が全部“”です」

 見せられた画像は、全身の骨が全部真っ黒。かろうじて白いのは、手の先と足の先だけ。約80パーセントの骨髄が癌化していた。

 「こちらが今回の検査の画像です」

 骨は全部真っ白でした。

 「転移(浸潤)もありません」と主治医。
 

 以前、「白血病の治療~私の場合~①」で“寛解”はフルマラソンに例えたら最初の給水所に行ったところ、といいました。
 また、「白血病の治療~私の場合~⑪」では、“退院してもまだゴールではない”、と言いました。

 急性リンパ性白血病フィラデルフィア染色体異常と診断されて約1年。ようやく、フルマラソンのゴールまで、たどり着きました。感慨深いですね。生きてるんだなって思いました。

 しかしそこは、これから始まる“ゴールのないマラソン”のスタート地点でもあったのです。


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2019年3月7日木曜日

白血病の治療~私の場合~⑫ 放射線治療

白血病はがん細胞が「浸潤」する


放射線治療で残っている癌細胞を消滅


 「白血病って、放射線治療するの?」って思う方、多いと思います。

 “固形癌”なら分かります。皮膚がんや肺がん、食道がんなど、その部位に放射線を照射するわけですよね。

 “流動性の癌”である白血病は、全身の骨髄に癌が広がります。ですから、手術で取り出すことはできません。大量の抗がん剤を点滴で投与して、癌を消滅させるわけです。
 
 しかしながら、骨髄以外の場所にも癌細胞が入り込むのです。流動性の癌である白血病の場合、これを「浸潤」と言います。固形癌の場合は「転移」ですね。

 浸潤した場合、最も危険な場所は、脊髄です。
 そのため、化学療法(抗がん剤治療)と並行して、髄液検査髄注を行ないます。
 尾てい骨から背骨、脳の表面まで、いわゆる中枢神経を覆っているのが髄液です。髄液検査は、背骨に針を刺して髄液を抜き取って検査します。抜き取った分と同じ量の抗がん剤を同じ場所に注入します。これが髄注です。

 そして男性の場合は、最も浸潤しやすい場所があるのです。それは精巣(睾丸)なんです。(白血病の初期症状については、このブログの「急性リンパ性白血病」のページに記載しています。)

放射線治療


 白血病と診断される3カ月ほど前、微熱盗汗(大量の寝汗のこと)、精巣(睾丸)肥大が始まりました。
 精巣(睾丸)は徐々に大きくなり、最終的には3倍ぐらいの大きさになりました。白血病の癌細胞が精巣(睾丸)に「浸潤」していたんですね。

 入院して化学療法(抗がん剤治療)が始まると、すぐに精巣(睾丸)は元の大きさに戻りました。
 しかし、精巣(睾丸)に浸潤した癌細胞が完全に消滅したかどうかは分からない。少しでも残っていれば、寛解したとしても、そこから癌細胞がひろがっていってしまうのです。
 なので、化学療法(抗がん剤治療)が終了した後に、精巣(睾丸)に放射線を照射して、浸潤した癌細胞を完全に消滅させなければならない。これを通院で行なうわけです。

 放射線治療は全17回。日曜日以外はほぼ毎日通院して受けました。
 放射線治療も健康保険の適用ですので、限度額以上に医療費を支払うことはありません。(白血病の治療費については、「白血病の治療~私の場合~②」をご参照ください。)

 治療を始める前に、放射線科の医師から治療の手順と副作用、精神面でのサポート体制などの詳しい説明がありました。こういう説明は、聞けば聞くほど不安になりますね。そんな中、放射線治療が始まりました。

 一回の治療で放射線を照射する時間はほんの数分。すぐに終わります。特に苦痛はありませんでした。
 化学療法(抗がん剤治療)を終えたばかりで、もともと副作用満載の体ですから、放射線治療の影響と言われてもよくわかりませんでした。(笑)

 ただ、一つだけ徐々に表れた影響があります。照射した部位の皮膚が、軽いやけどのようになっていくんです。私の場合は精巣(睾丸)でしたから、さほど気になりませんが、他の癌の場合、部位によっては精神的なダメージを受ける方もいるんではないでしょうか。実際に、それで放射線治療を中止する方もいると聞きます。

 こうして1カ月弱の放射線治療を無事に終えました。そして、最終的な検査を受けることになったのです。


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2019年3月5日火曜日

白血病の治療~私の場合~⑪ 8カ月間の化学療法(抗がん剤治療)終了そして退院

退院してもまだゴールではない


 2017(平成29)年12月、退院。

 「白血病の治療~私の場合~①」の投稿で、“治療をフルマラソンに例えたら、「寛解」は最初の給水所”と言いました。これは単に時間的なことを言ったのではなく、寛解した後の方が、遥かにつらく長い治療が待っているという意味です。寛解はほんの“入り口”です。

 池江璃花子さんが白血病を公表してから、いろいろな医者がメディアに出て“白血病治療の現状”を説明していました。
 その中で、「寛解」を「完治」と言っている医者が多かったのには驚きました。「最近は、白血病も“完治”できる病気になった」と。医者でも誤った認識を持った人がいる。このことは「白血病の治療~私の場合~③」の投稿で書きました。

 私の場合は1カ月目で寛解。4カ月目で骨髄移植をしないことを決め、化学療法(抗がん剤治療)を継続することを選択した。ここで、ようやく折り返し地点が見えてくる、といったところでしょうか。

 そして8カ月がたち、予定の化学療法をすべて終えた。でも、まだゴールまでもう一息というところです。
 入院したのは春。季節はもう冬になっていました。

感謝の気持ち


 白血病と診断されてから、気づいたことがたくさんあります。

 ああ、今まで自分は幸せだったんだなぁ、と思いましたね。
 仕事に不満はないし、好きな剣道もやりたいだけやってきた。一人息子も大きくなって、もう高校生になった。そんななんでもないことが、幸せだったと気づく。あらゆることに感謝するようになりましたね。

家族


 妻には不平不満ばかり言ってきましたが、毎日、仕事を終えてから病院に面会にくる姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。考えてみれば、困ったときにいつも力になってくれるのはこの女だなと思った。
 息子は朝寝坊で手を焼いていました。私が出勤のため家を出るまで、何度起こさなければならなかったか。しかし、私が入院すると、忙しい母親の手をわずらわせてはいけないと思ってか、朝、自分で起きて支度をするようになったと、妻が教えてくれた。そして、剣道の強豪校に通う息子は、さらに稽古に励むようになり、めきめき上達してるらしい。今、やるべきことを精いっぱい努力するようになってくれた。うれしかったですね。
 年老いた母親や一つ年下の弟も、いろいろと力になってくれた。普段は疎遠なのに、自分の時間を割いて病院に足を運んでくれました。

会社


 仕事のことについては、どうなってしまうかと思いました。なにしろ、入院も長期になるし、治るかどうかもわからない。仕事に復帰する目どが全く立たないんですから。
 会社を辞めなければならないかも知れないと思い、会社に相談すると、もう休職の手続きがされていた。休職中の社会保険料や厚生年金の掛け金は全額会社が負担するという。
 傷病手当も毎月申請してほしいと。また、高額になる医療費にそなえて、健康保険限度額適用の申請も手続き済みでした。会社に復帰できるかどうかもわからない病気なのに。
 これで安心して治療に専念できると思いました。本当に有り難かったです。

剣道


 剣道仲間からの励ましもありました。二天一流武蔵会東京支部の皆さんから。
 仕事にも復帰できるかどうかわからない状況の中で、剣道はもうできないだろうと、あきらめていました。この37年前、高1の時にも病で剣道を断念しているので、「またか」と思いましたね。しかし、こんな状態ではあきらめるしかないと。
 そんな時に、武蔵会東京支部の稽古終わりにSさんが入院中の私に電話をくださった。そして電話を代わられたのが中村天信師範でした。驚きました。直々にお見舞いのお言葉をいただきました。そして、東京支部の皆さんがかわるがわる電話口に出て、励ましの言葉をくださった。うれしかったですね。また剣道がやりたい、と思った。
 この日を境に、気持ちが非常に前向きになったと思います。ありがとうございました。

病院


 主治医をはじめ、担当医の先生方、看護師さんたちに、本当にお世話になりました。ある意味、“快適な”入院生活だったと思います。というのは、私は10代の頃にも長い闘病生活を経験しています。その頃の医師や看護師の態度と比べると、今は雲泥の差です。
 そのことに関しては、「白血病の治療~私の場合~⑦」でも書きました。医者はえらそうな態度。看護師ときたら、ヒステリックな人もいれば暴言を吐く人、患者に八つ当たりする人など、いろんな人がいました。
 今はそんな人いないんですね。安心して入院してられた。本当にありがたかったです。
 そして忘れてはならないのが掃除のおばちゃん。無菌室や通常の個室に入院していたので、世間話ができる唯一のお相手が掃除のおばちゃんだったんです。おかげで、同じ病気の患者さんたちの様子も知ることができた。

 私は幸運だったなと思いました。こうやって、予定通りの回数の化学療法(抗がん剤治療)をし、ほぼ予定通りの期間で退院することができた。だからといって、喜べはしませんでした。
 他の患者さんは、寛解しない人もいる。つらさのあまり治療を拒否して退院される人もいる。もうこの病院では治せないと宣告されてしまう人もいる。寛解しないということは、生存率0パーセントということなんです。あまりにも悲しすぎます。


 冒頭で「退院してもまだゴールではない」と言いました。
 
 この後、通院での放射線治療が始まったのです。


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2019年3月3日日曜日

白血病の治療~私の場合~⑩ 化学療法(抗がん剤治療)中の“不安”と“楽しみ”

骨髄移植を選択しなかった私


化学療法(抗がん剤治療)で入院8カ月


 骨髄移植を選択しなかった私は、トータルで約8カ月間(8コース)の化学療法(抗がん剤治療)を受けました。
 
 2017年 4月に入院。化学療法(抗がん剤治療)開始。
 5月に寛解。
 6月にセカンドオピニオンを受ける。移植はしないと決めた。
 9月に肺炎を併発。
 12月に敗血症を併発。そして化学療法(抗がん剤治療)終了。

不安になった医師の言葉


 入院中、医師から告げられて不安になった言葉が二つある。

 一つは、寛解したあとに担当医から言われた言葉。「この段階で骨髄移植をしなければ、移植をするタイミングを失います」

 もう一つは、セカンドオピニオンで医師に言われた言葉。「再発した場合は、同じ治療では癌はなくなりません」

 というもの。骨髄移植をしないと決めた後は、なおさらこの二つの言葉が、重くのしかかってきましたね。

入院中の楽しみは、やはり食べ物!


 抗がん剤の副作用で味覚障害が起こる。食べ物の味がまるっきり変わってしまう。この世のものとは思えない味。例えようのない味。食べ物の味ではないんです。
 
 入院による化学療法(抗がん剤治療)の1回のサイクルは約1カ月。これを「1コース」と言います。
 最初の1~2週間が抗がん剤の投与。その後の1~2週間が抗がん剤で破壊された白血球などの免疫力を回復をさせる期間。白血球の数が基準値以上になれば、一旦退院。数日で再入院して、次の抗がん剤投与。これを繰り返すわけです。私は「8コース」やりました。

 抗がん剤の投与が始まると白血球数が激減します。すると抵抗力がなくなりますので、普通の食事は食べられない。加熱殺菌した「加熱食」になります。しかし、味覚障害があって食欲もないので、食べられません。
 その回の抗がん剤の投与が終わって1~2週間すると白血球数が増えてきます。食欲も出てきます。白血球数が基準値以上になれば、普通の食事が食べられます。生ものもOKになります。しかし、何を食べても美味しくない。

 それでも、やはり楽しみは食べることなんですね。

 一旦退院したときの数日間に食べ歩く店をリストアップしてました。寿司だったりステーキだったり近所の店20軒ぐらい。
 しかし体力がないので、一日に行けるのは1軒がやっと。食べても美味しくはないんですけどね。それでもうれしかったですね、食べられることが。次の抗がん剤の治療も、これで頑張れるってなるんです。

 ちなみに、いろいろ食べてみて一番美味しく感じられたものは、「かつ丼」でした!(笑)


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