2021年10月1日金曜日

宮本武蔵『独行道』「我事に於て後悔せず」を考察する

後悔などしないという意味ではない

布袋観闘鶏図 宮本武蔵

後悔と反省


 行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた行為です。おそらく誰もが長い年月、積み重ねてきた習慣。しかし、その積み重ねた経験によって、後悔したり後から反省することが必要ないような自分に、なることができた人がいるのでしょうか。

 「我事に於て後悔せず」(『独行道』宮本武蔵)

 武蔵のこの言葉は、自分は常に慎重に正しく行動してきたから、世人のように後悔などはせぬというような浅薄な意味ではありません。ちなみに『独行道』とは、武蔵が死の七日前に、自らの生涯を省みて記した二十一箇条の言葉です。

人はどうあるべきか


 後悔や反省などは、ただのポーズだと武蔵は言っているのです。自己批判や自己清算だとかいうものも、皆ポーズだと。
 そんなことをいくらしてみても、真に自己を知る事はできない。そういうこざかしい方法は、むしろ自己欺瞞(ぎまん)に導かれてしまうと、警鐘を鳴らしているわけです。
 昨日のことを後悔したければ、後悔すればいい。いずれ今日のことを後悔しなければならない明日がやって来てしまうのだ、という意味だと私は思います。決して、後悔や反省など必要ないという単純な意味ではありません。

武蔵が体現した生き方


 その日その日が自己批判に明け暮れるような道を、どこまで歩いても、理想の自分に出会うことはない。別な道がきっとある。自分という本体に出会う道が必ずある。後悔などという"おめでたい"手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ。そういう確信を武蔵は語っているのです。
 それは、今日まで自分が生きてきたことについて、そのかけがえのない命の持続感というものを持て、ということになるでしょう。そこに「行為の極意」があって、後悔など、先だっても立たなくても大した事ではない、そういう「極意」に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れるようなものだと、この達人は言っているのです。

 ではその「極意」とは何なのか。
 それは、武蔵が遺した『五輪書』に「実の道」というキーワードとともに余すことなく書かれています。兵法伝書たるものをはるかに超えた『五輪書』。この書には、武蔵が生涯をかけて実証した思想が記されているのです。
 武蔵は言います。「実の道」は兵法にだけあるのではない。およそ技術を持ち、道具を用いて生きていくあらゆる人間のあいだに無数の度合いで存在する、ある語りがたい働きである、と。(「実の道」に関する記事は、こちら

 兵法というものを、あるいはひとつの思想というものを、これほど具体的な、また生活上の実践から生み出した流祖は、彼のほかにはいないのです。
 『五輪書』に表れた彼の考えには、人生論的説教も傲慢な自己宣伝も一切ありません。彼はここで非常に単純な、また同時に語りがたい思想を語ろうとしています。それは、つまるところ日常生活をよく生きることに関するひとつの徹底した思想です。

『独行道』は戒律ではない


 『独行道』を、武蔵が自身に課した、あるいは指針にした、戒律だと考えている方も多いのではないでしょうか。その二十一箇条は守らなければならない決まり事ではありません。
 鍛錬によって磨かれた身体と技と心が、「実の道」という境地にたどり着いたときに実行される日常が、どのようなものかを表しているものなのです。

 稿の終わりに、『独行道』の全文をを引かせていただきます。

 独行道

一、世々の道をそむく事なし。
一、身にたのしみをたくまず。
一、よろづに依怙(えこ)の心なし。
一、身をあさく思、世をふかく思ふ。
一、一生の間よくしん(欲心)思はず。
一、我事において後悔をせず。
一、善悪に他をねたむ心なし。
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
一、自他共にうらみかこつ心なし。
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこゝろなし。
一、物毎にすき(数寄)このむ事なし。
一、私宅においてのぞむ心なし。
一、身ひとつに美食をこのまず。
一、末々代物(しろもの)なる古き道具所持せず。
一、わが身にいたり物いみする事なし。
一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず。
一、道においては、死をいとはず思ふ。
一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
一、仏神は貴(とうと)し、仏神をたのまず。
一、身を捨てても名利はすてず。
一、常に兵法の道をはなれず。

 正保弐年五月十二日
             新免武蔵玄信


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2021年1月31日日曜日

剣道 戦国期の下克上が意味するもの

「下達」が駆逐され「上達」への道が拓かれた戦国時代


「下達」とは


 論語の一節に「君子は上達す、小人は下達(かたつ)す」という言葉があります。
 凡人は、とかくつまらぬことに悪達者になる。励めば励むほどかえってそういう方向に突き進んでしまう。やがて手に負えない厄介者になり、私はこんなにすごいと言って周りを睥睨(へいげい)する。実は、並以下の者でしかないのに。これが「下達」の意味なのだそうです。

 私たちが生きている世間には、ありとあらゆる種類の「下達」があります。武道家には武道家の、宗教家には宗教家の下達があって、理から離れて自分勝手な空想から物事を裁断するのに忙しい。「下達」同士の争いは歴史の本体を成していると言っても過言ではないかもしれません。

下克上という思想


 日本の戦国期に「下克上」というものがありました。「下克上」という言葉自体は誰もが聞いたことがあると思います。下位の者の勢力が上位の者に打ち勝つ、というような意味でとらえられるのが普通です。
 具体的には、戦国期に「下克上」という考えが広がり、それが思想化していった。そして、下達する者の架空の権威や争いが、至るところで徹底して破壊されたことを言います。

 その時代、小智を誇る架空の学問は破壊された。諸芸を守る家系の権威も一蹴された。政治も宗教も何もかもが叩き壊された。下達がどこでも通用しないことは、いやでも知るほかない状況が、百年以上も続いた。これは見方を変えれば大変重要なことではないかと思うのです。
 後世に生きる私たちは、この出来事によってもたらされた意味に気づかなければなりません。

 下達が通用しなければ、上達しかない。けれども、上達とは何で、それはどこにあるのか。

 こういう問いを根本的に立てようとした人が、おそらく戦国時代には出現していたに違いありません。もちろん上達というものが通用する見込みだってない。すべてが、際限のない下克上の嵐かも知れない。血で血を洗う乱世が百年以上も続いた。人間の領域に「上達」が存在することは、この時にこそ最も強く信じられ、希求されたのではないでしょうか。

兵法における「上達」


 下克上の思想から希求されたものが、まず何と言っても兵法における「上達」だったことは、至極当然のことと思われます。
 戦国期を通じ、軍略はさまざまに変化せざるを得ず、武器と戦法とのありとあらゆる工夫が試されては壊された。人はこの領域で下達、停滞することは許されなかった。と同時に、上達への路もまた見いだせないままとなっていた。

 このような状況の中で、剣法、刀法だけが、兵法として驚くべき独特の飛躍を生み出すことができたのです。言い換えれば、刀法は「上達」への路を突如として開き、言わば「上達」がこの世にあり得ることを証明しました。

偶然から脱し普遍原理に到達


 身体運動の一般法則によって試される戦闘が、いかに一寸先も闇の偶然に委ねられているかを、少なくともこの時代の武士たちは見尽くしたに違いありません。それが彼らを圧する実感だったでしょう。
 どんな下達もここでは空しい。それ故に、彼らが達しようと願ったところは、こうした一般性の外だったのではないでしょうか。

 その結果、実際に彼らの一部は「剣理」に達しているのです。達した領域で「上達」が生み出された。あるいは、思想としての下克上を脱せしめる普遍的な何事かが、そこで起こった。
 下達を破壊して嗤(わら)う思想は、一般化して時代の潮流を作りました。奇跡のごとく生み出された「上達」への通路は、少数者が実現する普遍原理となったのです。

兵法の「上達」はこのように顕れた


 剣法、刀法において、この時代に「上達」が顕れた具体的な変化として、諸手刀法の登場というものがあります。世界の剣技が片手で行なわれるのと同様に、室町以前の日本も、太刀を片手で操作する片手保持刀法でした。そして、室町後期に諸手保持刀法が芽生え、戦国期以後はそれが全盛となる。(片手から諸手に刀法が変更された経緯は、こちら
 
 変更された理由は二つしか考えられません。ひとつは、平安末期から続いてきた太刀打の動作体系が、通用しなくなったため。もうひとつは、その動作体系がある決定的な飛躍によって、新たな段階を開いたためです。

 なぜ、片手で太刀を振る動作体系が通用しなくなったのか。この動作体系では、乱戦というある意味の極限状態の中で、限界を知ることになってしまった。それは、同程度に熟達した者同士の斬り合いでは、どちらがどのような理由で勝つのか、このことがわからないのです。
 うっかり斬りをはずされた者、受けが間に合わなかった者、躊躇して動きが一瞬遅れた者、こういう者たちがたまたま不覚を取る。このようにして生じる勝敗は、スポーツなどでは立派な勝敗でしょうが、刀法では偶然にすぎません。いや、偶然と考え、その偶然を根底から克服しようと願うことが、刀法の探究に生きる意味だった。

「流祖」となった達人たち


 戦国末期の茶の湯と刀法とは、乱世に平常心を得て生きようとする二種類の徹底した探究として成立していました。
 茶の湯がそのようなものになるのに、利休という天才を要したように、刀法にもまた上泉伊勢守(新陰流流祖)のような天才が必要だったでしょう。
 しかし、〈太刀打の偶然〉を超えようとした者は、むろん伊勢守だけではないし、彼が最初の人間でもない。

 鎌倉中期までは片手で太刀を操作していたものを、その後、わざわざ両手で持ち、あえて我が身を相手にさらすような刀法に変更したのは何のためだったのでしょうか。確実に言えることは、身体と刀との相関関係を大きく変えうる何かに、彼らが到達したということです。

 片手刀法は、刀は振られる腕の延長であり単なる武器に過ぎず、それ以上でもなければそれ以下でもない。一方、両手保持の諸手刀法はそうではありません。腕は刀ではなく、刀は腕ではない。刀は決して腕で振ってはならない。体全体の軸移動の中に法があるのです。
 この運動は、身体のすべてと刀との厳格で複合的な結合によって出来ています。この結合の形式は、当然我と敵との間の関係の性質を変えます。
 こうした事を、実地の経験において考え抜き、答えを引き出した人間が幾人かいた。彼らはそうやって「流祖」となったわけです。

 その「流祖」たちが到達した刀法の共通した剣理が「刀身一如」でした。(刀身一如の大原則とは、こちら

武蔵の片手刀法は「下達」なのか


 宮本武蔵は、この戦国流祖たちが世を去ったころに生を受けました。
 戦国期の流祖たちが具現化し到達したそれぞれの剣の法を、ひとつの思想問題として決着させようとした人物、それが宮本武蔵です。

 武蔵は、著書『五輪書』の中で、太刀は片手で振るものだと言っている。二刀を執る理由は、片手刀法の修練のためだと。

 では、武蔵は、刀身一如の原則を否定したのでしょうか。いえ、武蔵は単なる片手刀法への回帰を謳ったのではありません。彼の二刀は、戦国流祖たちがもたらした深い革新である刀身一如の大原則を極めて厳密に受け継いでいます。
 武蔵が言うように、二刀を用いて稽古することは、その受け継いだ運動感覚を一層鋭く、自由なものに研ぎ上げるための手段にほかならなかったのです。

 誰もが、勝負の馬鹿げた運で死にたくはない。では、何を知り、何に熟達することが、この偶然の底なしの闇に勝つことなのか。武蔵は戦国武士が強いられたこの課題を、乱世が収束した時代にやって来て、たった一人で思索せざるを得なかった。彼は歴史の中に、そんな具合に生まれついた人なのです。

上達の至極「実の道」


 宮本武蔵は、剣の理法が、またそのための稽古が、そのまま生きる目的や理由になりうることを、「実(まこと)の道」という真に普遍的な思想によって明るみに出しました。
 武蔵は、およそ技術を持ち道具を用いて生きていく人間のあいだに無数の度合いで存在する、ある語りがたい働きの総体を「実の道」と呼んでいた。(「実の道」に関する記述は、こちら

 「実の道」は、人をも物をも活かしきる道で、何かを殺すことによって成り立つ道ではありません。兵法者は人を斬るのではなく、斬らなくてはならない事態に、常にあらかじめ「勝つ」人でなければならない。これが武蔵の兵法思想です。

 兵法は手技から出発しますが、手技のひとつであることをはるかに超えていきます。超えていくがゆえに、すべての手技に貫通する道を知ることができる。物を活かす道そのものを観ることができるのです。兵法の目的は実にここにこそあるのだと、晩年の武蔵は確信していたようです。

 下克上という戦国期の武士たちにもたらした探究が、ここに帰結しているのです。

 上達の至極「実の道」を体得した者が、どんな心持ちであるか。この稿の最後に、武蔵の言葉を引かせていただきます。

 兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替わる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直(すぐ)にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其(その)ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々(よくよく)吟味(ぎんみ)すべし。静かなる時も心は静かならず、何とはやき時も心は少しもはやからず、心は躰(たい)につれず、躰は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心のたらぬ事なくして、心を少しもあまらせず、うへの心はよはくとも、そこの心をつよく、心を人に見わけられざるようにして、小身(しょうしん)なるものは心に大きなる事を残らずしり、大身(たいしん)なるものは心にちいさき事を能(よ)くしりて、大身も小身も、心を直(すぐ)にして、我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要(かんよう)也。心の内にごらず、広くして、ひろき所へ智恵(ちえ)を置くべき也。智恵も心もひたとみがく事専(せん)也。(『五輪書』水之巻より)



引用・参考文献
 『剣の思想』甲野善紀 前田英樹 往復書簡 青土社 2013年



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2020年11月21日土曜日

剣道 「ナンバ」の足法は単なる歩き方の練習ではない

運動法則を根底から変更する


反発の原理を解除して得られるもの


 前回の投稿で、反発の原理をもって動作を起こそうとする運動法則を、解除するスイッチが体内にあると言いました。それを切り替えるために、ナンバの足法を身に修めるのだと。
 では、そのナンバの足法を身につけたら、何が変わるのでしょうか。
 それは単に、“送り足”が上手になるとか、“打突の起こり”が相手に察知されずらくなるとか、それだけのものではありません。もっと深いもっと根源的な問題を一挙に解決する「兵法の身なり」を稽古するために必要な身体運用法なのです。「兵法の身なり」とは『五輪書』にたびたび出てくる言葉ですが、そのことについて宮本武蔵はこう述べています。

 「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とすること肝要也」(『五輪書』水之巻)

 兵法の身が常の身と異なるものでないのなら、稽古など必要ではありません。しかし、これは、稽古によって常の身を深い次元で改変し兵法の身を修め、その兵法の身を常の身そのものに還元するのだ、と武蔵は言っているのです。

 ナンバの足法を前提とした「兵法の身なり」を修めた場合には、ただ真っすぐ正面向きに歩くだけなら、上体はぶれません。反動動作は自然に消えます。歩く時に両手を振ることは、一種の反動動作を用いることですから、これも自然に消える。
 この時、移動軸は体を左右対称に割った真ん中の線におのずと決まります。こうした厳密さだけが、武道(武術)を西洋から押し付けられてしまった運動法則から解放する基礎なのであり、先人たちが到達した理(ことわり)なのです。

地面に対する反発を解除する


 「ナンバ歩き」は、古来、日本人特有の歩き方。(ナンバ歩きについては、こちら
 日本の武術はこの身体運用法を前提としているといってよい。これができるようになれば、左足で床を"蹴って飛ぶ"必要がなくなり、右足を踏み出す前の溜がなくなる。
 構えた時に腰を入れて構えられるので機を逃しませんし、打突時には引付けようと思わなくても左足は引付けられます。

胴体に対する反発を解除する


 刀を振る時に、腕と胴体が反発し合っていては、自らの動作の起こりを相手に教えているようなものです。 
 まず、竹刀の柄をを小指と薬指で軽く握り締めること。小指から脇の下につながる筋肉(これを下筋と呼びます)が締まり、腕の動きと胴体は反発しない。わしづかみにすれば、体と剣はバラバラになり、互いに反発し合います。
 この時大事なのは、ナンバで身につけた“腰始動”で腕を振ることです。動作の“起こり”を腰で行なうわけです。
 

竹刀の重さに対する反発を解除する


 竹刀の重さに反発したり、力でねじ伏せるようなトレーニングはいつまでも続けられるものではありませんし、また、その意味もありません。
 重要なのは、構えた時の竹刀の重心の位置や、打突時の竹刀の重心の軌道です。竹刀の重心を意識した操作をすることによって、竹刀の重さを引き出して(利用して)振ることができる。(片手刀法の重心に関する記述はこちら
 例えば諸手一刀中段に構えた場合、竹刀の重心を頭の上に引き上げて振りかぶるのではなく、振り上げた竹刀の重心の下に右足を踏み出して体を入れる。体を一歩前へ出して、振り上げた竹刀の重心の下に入るのです。そして振り下ろす。
 前者は、竹刀の重心のベクトルが後方に向かってしまう。後者は、ベクトルが前方に向いた状態で、体が移動するベクトルの方向と一致します。前方にいる相手を斬るという、体のベクトルに反発しないわけです。
 竹刀の重量と重心の方向を感じ取っていれば、その重量が移動する動きに腕が加勢するように振ることができます。

相手の動きに対する反発を解除する


 相手との対立を一挙に無にすることです。相手と自分との解きがたい相互反発を解く。
 これは、間合いや拍子の鍛錬に関わっており、稽古の最終段階に属します。 
 力まかせに打ったり、独りよがりに技を出すのではない。相手の力を利用し、移動しようとする動きを利用し、拍子をつかみ、相手を引き出す。
 相手を敵ではなく、あたかも理合を体現するための協力者のように動かすことです。


 何ものかに反発する時には、人はそのものを知ることができません。
 反発の原理から解放されることによって、「常の身」は変化する相手の運動そのものの中に入り込み、それが崩れる一点に我が身の移動を置くことができるのです。
 武蔵はひとりそれを「勝つ」と表現しています。



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2020年11月14日土曜日

剣道 作用/反作用の運動法則から抜け出る ~コロナ禍の再始動~

稽古自粛からの再開


稽古ができない


 2020年1月、仕事が多忙となり道場へ稽古に行く時間がとれなくなった。
 「またすぐに稽古に行く時間をつくれるだろう」
 そんなふうに安穏と考えていたところ、世の中の状況が変わってきた。お隣の国で未知のウイルスが拡散し、多数の死者が出ているという。
 2月には日本でも感染が広がり、外出自粛措置がとられ、道場も稽古休止になった。

 7月に入り、感染対策をして稽古再開する道場が出はじめた。私の所属する道場もその一つ。しかし私は急性リンパ性白血病の治療中のため、感染症にかかれば重症化は免れない。(私の急性リンパ性白血病闘病記事はこちら
 「もうしばらく状況を見極めてから再開しよう」
 そんな気持ちでいたのだが、それがだんだんと"言い訳"になっていると気づいてきた。

 道場が稽古休止の措置をとっても、自宅で"ひとり稽古"はできる。素振りはもちろんできるし、打ち込み台もある。
 5月ぐらいまでは自宅で”ひとり稽古”をしていたが、それだけでは煮詰まってくしモチベーションを上げることができなくなってきた。

 とうとうそれ以降は自宅で竹刀や木刀を握ることさえなくなっていた。

きっかけは妻のひと言


 「基本を一から教えてほしい」

 10月に入って、妻からこう言われた。
 息子が小1で剣道を始めたのをきっかけに、40歳を過ぎてから剣道を始めた妻は、三段を取得して以降は伸び悩んでいた。リバ剣してきた同年代の女性たちが次々と昇段していく中、このままではいけないと思ったらしい。
 
 以前は、私のアドバイスには一向に耳を傾けなかった妻。壁に突き当たってようやく稽古法を見直す決心ができたようだ。もう少し早く気づいてくれればと思うが仕方がない。しかし私にとってみれば、私自身の稽古再開のチャンスだ。妻の申し出を快く引き受けた。

 今から6年前の2014年、当時中学2年だった息子がやはり壁に突き当たって剣道を楽しめない時期があった。その原因は基本をおろそかにしているからに他ならないのだが、当の本人というのはまったくそれに気づかないものだ。あれこれと小手先の技を研究するという外道(げどう)にはまっている。見かねた私は、息子と一緒に基本を一から稽古し直すことを決意した。約一年間週一回2時間、二人だけの稽古をしたことがある。(その様子はこちら

 その時、使用したのが市総合体育館の剣道場だった。今回もここを借り切って、妻と二人で稽古することに決めた。中学までは弱小剣士だった息子が、その後は高校大学と剣道の強豪校に進学するまでになったが、果たして妻はどうなるか。

この稽古の目的


 息子の時と同様、この稽古の目的は作用/反作用の運動法則から抜け出し、反発の原理をもって動作を起こそうという身体運用を解除することだ。
 古流の身体運用を知らずスポーツ化した練習法をされている方々は、作用/反作用の運動法則を最大限に利用し、苛酷な反発動作に耐えうる肉体をトレーニングによって作っていることだろう。しかし、これでは必ず限界は来る。10代でその限界を感じてしまう人もいれば、30代で自覚する人もいる。たいていの人は、そこで剣道から心が離れてしまう。こんなにつまらない話はない。
 
 幸い私は幼少の頃に、古流の流れを汲む道場で剣道を習った。(その道場についてはこちら
 その頃に伝えられた剣道と今の剣道は、まったく違うものになっていると言ってよい。武道である剣道がスポーツ化の道を歩んで久しい今日、古(いにしえ)から連綿と伝えられてきた剣道(剣術)が下達(かたつ)の道を進んでいる気がしてならない。

 妻が身につけた「剣道」を見ていると、スポーツの訓練をしているようにしか思えないのだ。これでは運動神経が発達し、跳躍力や瞬発力がある若年層には可能だが、壮年には無理な話だ。この"訓練"が可能な年齢の人でも、そのうち限界は来る。
 戦国武士が敵と相対した時に、「跳躍力や瞬発力が低下したので戦えません」と言い訳するのだろうか。戦国武士にスポーツ選手のような引退はない。いついかなる時も、すべてを捨てて抜刀しなければならない事態に備えなければならなかったはずだ。

 話をもとに戻そう。
 作用/反作用の運動法則から、なぜ抜け出さなければならないのかについては、稿を改めて記述するつもりだ。
 ではその作用/反作用の運動法則から抜け出す方法、反発の原理をもって動作を起こそうという身体運用を解除する方法とはどんなものか。
 それは人が生活する上でもっとも基本的な動作を、深い次元にまで下りて変更することなのだ。

「ナンバ」の足法と刀法


 "ナンバ歩き"という言葉をご存知の方も多いと思う。日本人が江戸時代の末期まで、当たり前のように身につけていた歩き方であり身体運用法のことだ。
 明治維新になって身体運用にも変化をもたらす要因が起こってきた。和装から洋装へ、草履履きから靴履きへ、そして西洋式の軍事教練の導入など、“足裏で地面を蹴って前へ進む”動作を求められるようになった。その結果、上体をひねって腕を振りながら歩くという反発の原理を利用した身体運用法に変化してしまった。

 すると、日本古来の足法である「ナンバ」は日常の動作から消えていく運命をたどることになった。現在もかろうじてその足法が残されている分野としては、能楽、古武道、古流剣術、相撲などであろう。時代劇のプロの役者の方の中にも「ナンバ」の足法を身につけている方々を見かけることがある。

 日本の室町末期から戦国期にかけて確立された諸手刀法(両手で刀の柄を保持するもの)はこの「ナンバ」の身体運用がベースとなって生まれた刀法だと言ってよい。言い換えれば、日本人が「ナンバ」の動作を身につけていなかったら、あるいは身につけられなかったら、刀身一如の諸手刀法は誕生しなかったことになる。(刀身一如についてはこちら
 
 私が2010年に、30年のブランクから剣道を再開した時も、まず取り組んだのは「ナンバ歩き」の稽古だ。これは単なる歩き方の練習ではない。
 反発の原理をもって動作を起こそうとする運動法則を解除する「スイッチ」が体の中にあるのだが、その「スイッチ」を切り替えるために修めなければならないのが「ナンバ」なのだ。(過去の「ナンバ歩き」に関する記事は、こちら

二人だけの稽古


 2010年に剣道を再開してすぐに右ヒザの半月板を損傷して手術。(そのことに関する記事はこちら
 2017年には急性リンパ性白血病になり、約1年間の入院生活。(そのことに関する記事はこちら
 そして2020年、今回のコロナ。
 よくも稽古継続を阻むような出来事は次々と起こるものだ。しかしその困難を乗り越えるたびに、わずかだが成長させていただいている気がする。感謝しかない。

 妻と二人だけの稽古は、私が妻に剣道を教えるという偉そうなものでは決してない。剣道は、一心に稽古する本人が学ぶしかないと思っている。しかし、その土台となる部分は手ほどきを受ける必要がある。
 そしてなにより、私自身が基本中の基本をもう一度やり直す機会だと思っている。
 剣道に限らず、「理」を追求する者にとっては傲慢な考え方は命取りだ。いつも肝に銘じている。

 この稽古の初回で妻に伝えたことは、いかに足で地を蹴らずに移動するかという一点だ。
 これは、体さばきに課せられる最初の問題だ。足で地を蹴って前へ進むことは、作用/反作用の原理の運動法則に従ってしまうことだ。
 戦国期の流祖たちによって実行された「反発の原理の解除」。
 まずはこれを身に修めることが上達への道だと確信している。



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2020年4月19日日曜日

『五輪書』の序章に書かれた宮本武蔵の真意とは

地之巻冒頭に隠された真実を読み解く


古典を直訳しても意味が通じるわけがない


 古典に精通している方でない限り、すべてを原文で読むことは難しいと思います。
 約400年前に宮本武蔵が書いた『五輪書』は、原文と現代語訳が併記されたものが多数出版されています。通常は、原文を目で追いながら、現代語訳の方を読む方が多いのではないでしょうか。
 私もそのひとり。『五輪書』を初めて読んだのは高校2年のときです。(その時の状況は、こちら

 「この本の核になるもの、武蔵が伝えようとしているものが解らない」

 これが率直な感想でした。

 今から10年前の2010年、45歳の時に剣道を再開し、同時に二天一流武蔵会の門をたたきました。(そのきっかけは、こちら
 すると、実際に二天一流の稽古をする中で、ふと、あることに気づいたのです。

 「巷にあふれた『五輪書』の現代語訳は、ただの直訳だ」

 そうなんです。ただの直訳なんです。文芸評論家や東洋哲学者たちが古典である『五輪書』をただ現代語に訳した結果、そうなってしまっている。
 戦国期に誕生した剣術諸流派の流儀の概念や具体的な刀法を理解していない人たちが、歴史に実在した達人の書いた兵法伝書をいじくり回しているのですから、まことにひどい話です。(剣術諸流派の流儀、刀法についての記述は、こちら
 やられたほうの宮本武蔵も、たまったものではないでしょう。生涯をかけて思索しぬいて顕かにした思想を、まったく理解できない文章に変換されてしまっているのですから。

 それぞれの分野では“先生”と言われるような方々が書いた『五輪書』の現代語訳ですけどね、中学生の頃に英語の授業で長文をすべて直訳して失笑をかっている人がいましたが、それと何ら変わりありませんね、失礼ながら。
 私たちは、そんな直訳を武蔵の思想として読まされてきたわけですから、理解に苦しみ、武蔵を誤解してしまっている人さえいることは無理もありません。

 この稿では、今日の文章でいえば「序章」とか「前文」にあたる部分、『五輪書』地之巻の冒頭に書かれた武蔵の真意を、読み解いていきたいと思います。

地之巻冒頭の引用


 「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、始而(はじめて)書物に顕(あら)はさんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比(ころ)、九州肥後の岩戸山(いわとのやま)に上がり、天を拝し、観音を礼(らい)し、仏前にむかひ、生国(しょうこく)播磨(はりま)の武士新免武蔵守藤原(しんめんむさしのかみふじわら)の玄信(げんしん)、年つもつて六十。
 我、若年(じゃくねん)のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而(はじめて)勝負をす。其(その)あいて新当流有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国(たじまのくに)秋山といふ強力(ごうりき)の兵法者に打勝つ。廿一(にじゅういち)歳にして都へ上がり、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後(そのご)国々(くにぐに)所々(ところどころ)に至り、諸流の兵法者に行合(ゆきあ)ひ、六十余度迄(まで)勝負すといへども、一度も其利(そのり)をうしなはず。其程(ほど)、年(とし)十三より廿八、九迄の事也。
 我、三十(みそじ)を越へて跡(あと)をおもひみるに、兵法至極(しごく)してかつにはあらず。をのづから道の器用有(あり)て、天理をはなれざる故(ゆえ)か。又は他流の兵法、不足なる所にや。其後(そのご)なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕練(ちょうたんせきれん)してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比(ころ)也。其(それ)より以来(このかた)は、尋ね入(い)るべき道なくして、光陰(こういん)を送る。兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて、我に師匠なし。今此(この)書を作るといへども、仏法・儒道(じゅどう)の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちひず、此(この)一流の見たて、実(まこと)の心を顕(あら)はす事、天道と観世音(かんぜおん)を鏡として、十月十日の夜寅(とら)の一てんに、筆をとつて書初(かきそ)むるもの也」(『五輪書』地之巻)

解説


 この文章に、異常人の猛々しい傲慢や幼稚な自己顕示を見てしまう学者がいることは、驚きです。著名な小説家までもがそう解釈する思考力は、大変弱々しいものと言わねばなりません。
 なぜそう見てしまう人がいるのか。それは、この文章があまりに正直で、正確で、まったくの裸のままの姿をしているからにほかなりません。

 いったい、武蔵は何のために、あの者に勝ち、この者に勝ち、二十八、九の歳まで六十数度の勝負に無敗であったということを、わざわざ書いているのか。
 そういう勝利が、「兵法至極」によるものではなかった、と言うためにです。
 ということは、二十八、九の歳までの自分自身を武蔵が全否定してることになります。

 勝ちは単に自分にそこそこの天分が、「道の器用」があり、相手がたまたまそんな自分より弱かったから。ただそれだけのことである。
 そんなことを六十数度も繰り返せば、もうたくさんになる。だから武蔵は自己の天分を試すようなそうした勝負を、三十を過ぎた頃にやめてしまった。
 武蔵は「至極」に達するために、偶然の勝負と手を切ろうとした。「器用」にまかせて勝ち続けていたのではわからぬ「至極」がある。彼はそう言っているのです。

 彼の敵は、「器用」の限りを尽くして彼を倒そうとする現実の相手です。自分に器用があるように、相手にもそれぞれの器用がある。立合ってみれば、自分の器用と相手の器用は同じ質のものであることがわかる。違うのはその程度、ほんのわずかな程度の違いなのです。
 それで、日々の生死がむごたらしく分かれる。この現実を何とかするものが兵法であり、武士がその探究に生涯をかけるに足るものだ。武蔵は、そのことが三十の頃にわかったと書いているのです。

 このとき、「器用」にまかせた立合いから、突如として「至極」への道が身体に向かって開かれたということがわかります。
 この「至極」への到達を成し切るために、武蔵はさらに二十年の歳月を費やしたと書いている。

 この間、彼はほとんど試合をしていないと言われています。武蔵自身も、試合をしたともしていないとも書いていません。
 ただこういうことが言えるのではないでしょうか。彼にとって真剣を執っての斬り合いは、兵法修行の過程から消えるものとなったと。
 人を活かし、物を活かし、おのれの身体のすべてを活かし、敵の働きのすべてをも活かし切って「勝つ」。あらゆる物を活かすことに勝つ「至極」への道が、ここに端を開くわけです。
 
 このように、極度に端的に書かれた文章を読むにつけ、自慢したり、謙遜したりすることに、彼は何の興味も持っていないことがわかります。
 戦国の世が終息しかかった時代に、自分はただ一人このような経験から出発してみるほかなかった。戦場での経験が数々の流祖を生み出した時代は、もう過ぎ去っている。
 それでも自分は一人の流祖たらんとして振る舞い、「兵法至極」を目指して生きた。
 戦国期の流祖たちが成した仕事を一から徹底して考え、やり直し、そしてひとつの思想体系に仕上げる。武蔵が「兵法の道」、「実の道」の名のもとに行なおうとしたことは、実にこの仕事なのです。(武蔵の思想については、こちら

 そして、自分の生涯は「実の道」を極めるという、このまったく明瞭な経験以外のものではあり得なかった。「実の道」は、兵法だけにあるのではない。およそ技術を持ち、道具を用いて生きていくあらゆる人間のあいだに無数の度合で存在する、ある語りがたい働きである。彼はそう言っているわけです。


 最後に、引用文の最終行に注目していただきたい。

 「十月十日の夜寅(とら)の一てんに、筆をとつて書初(かきそ)むるもの也」

 と、ありますが、寅の刻とは早朝四時半頃のことです。ここで注意していただきたいのは、武蔵は、早起きして『五輪書』を書き始めたと言っているわけではないのです。

 寅の一点とは、いわば「夜の空」と「昼の空」が切り替わる時です。その刹那に、自分の生涯をかけた書を書き始めたと言っている。
 夜と昼の「二天」が切り替わるとは、陰陽の円明思想に基づくもの。二天一流の意味を深く示唆しているのです。

 剣術(剣道)において、物毎(ものごと)が切り替わる刹那というのは、打突の機会になります。なぜなら、相手は攻撃も防御も出来ない瞬間だからです。その拍子になるように相手を動かし、「石火の機」をとらえて打突する。その瞬間は、こちらも一切防御なしです。

 この打突の機会は三つあり、二天一流では、

  • 待(たい)の先(せん) 相手の技が決まる刹那
  • 体々(たいたい)の先  相手の技の起こる刹那
  • 懸(かかり)の先    相手が居付く刹那

 と言います。現代剣道では、これを、それぞれ、技の尽きたところ(応じ技)、技の起こり(出ばな技)、居付いたところ(先制の技)と言いますね。

 この「寅の一点」(打突の機会)という概念が、武蔵の自流にとって最も重要な要でることを、示唆しているのです。

 武蔵が二天一流の名に込めた深い思いが、ひしひしと伝わります。
  

引用・参考文献
 『五輪書』宮本武蔵著、渡辺一郎校注、岩波書店、1985年
 『五輪書』宮本武蔵著、鎌田茂雄全訳注、講談社、1986年
 『五輪書』宮本武蔵原著、大河内昭爾現代語訳、Newton Press、2002年
 『武蔵の剣』佐々木博嗣編著、スキージャーナル、2003年
 『宮本武蔵 剣と思想』前田英樹著、筑摩書房、2009年


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2020年4月15日水曜日

宮本武蔵が現代人に遺したもの

「実の道」という思想

枯木鳴鵙図 宮本武蔵 再利用が許可された画像
枯木鳴鵙図 宮本武蔵

『五輪書』は何を伝えているのか


 宮本武蔵を理解する上で、現代人がいまだに吉川英治や司馬遼太郎の描いた小説の中に、武蔵の実像を求めようとすることは、まことに情けない話です。

 剣豪小説は大抵の場合、剣の修行によって人格的道徳的に成長した、あるいは優れている主人公が最後に勝つという落としどころ。負ける方はその逆で、人格的道徳的に劣ることになっている。
 これは、大正期に生まれた大衆小説に、作者が「剣聖」として登場させた主人公たちの人物像に根をもっている。もちろん当時の読者が求める理想像を、小説家が描いた創作です。(小説の中の「剣聖」についての記述は、こちら

 武蔵という人は、『五輪書』を読めば読むほど、お手軽剣豪小説の主人公になるような性質とは程遠い人だということがよくわかります。

 宮本武蔵は、後世の小説家が描いた「剣聖」などという尺度で語れる人物ではありません。
 『五輪書』は、武蔵が生き抜いた思想がどういうものであったかを示しているのであって、単なる剣術指南書とは違います。そうした兵法伝書たるものをはるかに超える性質をもっている。
 
 では、約400年前に武蔵が『五輪書』に託したこととは何か。
 その答えを解く鍵は、『五輪書』に繰り返し登場する「実(まこと)の道」というキーワードにあるのです。

武蔵が背負ったもの


 室町末期から戦国期に確立していった剣の流儀(流派)という概念。(流儀についての記述は、こちら
 その剣の修行の果てに得られるものについての、普遍的な徹底した思索にこそ武蔵の生涯は費やされたと言っていいでしょう。
 武蔵は、乱世が終息した時代にやって来て、乱世を超えたこの探究の普遍的な価値というものを、たった一人で思索せざるを得なかった。
 彼は、歴史の中に、そんな具合に生まれついた人です。

 武蔵は、兵法という自己経験の意味を、たった一人でどこまでも問い直しました。
 まず、自身の兵法で修得した手技を、自分を取り巻くさまざまな職の技の中で実行した。実行しただけでなく、それらの職能を根源において同じひとつの生にしているもの、彼の言う「実の道」の本体をつかみ取ろうとしたのです。
 それが、江戸時代という太平の世において、兵法者の固有の務めであると考えたからです。
 

明らかな対抗心

 常陸国鹿島・香取の社人共(ども)、明神の伝へとして流々をたてゝ、国々を廻(めぐ)り、人につたゆる事、ちかき比(ころ)の儀也。古(いに)しへより、十能・七芸と有るうちに、利方(りかた)といひて、芸にわたるといへども、利方と云(いい)出すより、剣術一通にかぎるべからず。剣術一ぺんの利までにては、剣術もしりがたし(『五輪書』地之巻)
ここで武蔵が「鹿島・香取の社人共」と言っている人々は、飯篠長威斎、松本備前守、塚原卜伝といった戦国期の剣客たちのことです。
 この道における彼らの功績は、誰もが讃えるところだが、彼らの見識は兵法を狭い武技の体系に閉じ込めている。武蔵はそう言っているのです。

「実(まこと)の道」とは


その、生活全般の「日常」から切り離された狭い芸事としての「剣術」を、つまるところ、よりよく生きることに関するひとつの普遍的な思想として顕かにし、武蔵が到達した境地。それが「実の道」だと言えると思います。

 武蔵の太刀稽古は、人を斬り殺すことを目的にしていない。木刀や撓(しない)の試合で、人の頭を殴りつけることも目的にしていない。
 稽古を通して、物を活かす道に勝つこと、ただそれだけを目的にしているわけです。
 
 武蔵がひたすら歩いたのは、道具(刀)の使用を深くする道でした。
 道具(刀)の使用を深くすることが、知恵を深くすることになる。その理を立証するため、道具(刀)の使用を深くすることが可能だと確信することから、武蔵による二天一流の太刀稽古は始められる。
 「実の道」は、人も物も活かしきる道で、何かを殺すことで成り立つ道ではありません。兵法者は人を斬るのではなく、斬らなくてはならない事態に、常にあらかじめ「勝つ」人でなくてはならない。これが武蔵の兵法思想です。

 地の利を活かし、武具を活かし、おのれの身体のすべてを活かし、敵の働きのすべてをも活かしきって「勝つ」。兵法において勝つとは、あらゆる物を活かす道に勝つことである。
 兵法は手技から出発しますが、手技のひとつであることをはるかに超えていきます。そして、すべての手技に貫通する道を知ることができる。
 兵法の目的は実にここにこそあるのだと、晩年の武蔵は確信していたようです。

武蔵の水墨画


 「兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて、我に師匠なし」

 そう言ってのけた人の描いた絵が、ページ上部の水墨画です。
 驚異の写実力です。
 この絵を目に焼き付けたあとに、ぜひ、美術館に足を運んで、他の有名画家の水墨画を観ていただきたい。それらの絵が、稚拙にさえ見えてくるのは私だけではないと思う。
 武蔵の描いた絵画の数々は、圧倒的な写実力をもって観る者を驚嘆させ、心を奪います。

 「実の道」を体現し、「兵法の利」にまかせて描いた者の絵が、ここにあるのです。

五つのおもて(五方ノ形)


 武蔵は「五つのおもて」と称する形(かた)を制定しています。
 剣術諸流派にはそれぞれ独自の形がありますが、現代剣道においても明治期に制定された形があります。

 武蔵は、上段、中段、下段、右脇構え、左脇構え、の五つを自流の「五方の構え」としていて、「五つのおもて」はこの五種類のそれぞれの構えから展開されることから、「五方ノ形」とも呼ばれている。

 宮本武蔵は「五つのおもて」(五方ノ形)が、また独り演じる形の稽古が、そのまま生きる目的や理由となりうることを、「実の道」という真に普遍的な思想によって明るみに出しました。
 彼の思想の普遍性は、目も眩むような単純さをもって「五つのおもて」に顕れている。

 何にも騙されることなく、「実の道」を思考しぬいた人間の最終の要約、最後の表現とも言うべきものが、そこにあります。

理に生きる喜び


 人間は近代において、第二の道具である機械を作り出しました。機械の特徴は、それを操作する身体がその使用を深くすることができない点にあります。できたとしても、その限界はすぐに来る。機械は手技を自動運動に変換させ、コンピューターはやがて身体を不要にしてしまいます。

 コンピューターに依存し、生物種としての運動図式を放棄した人間は、当然ながら体を使うことが嫌になります。そして、人間の体と外界との間にできた不自然な隙間が、体と心を不安定にしていきます。

 その“不自然な隙間”を作らず、天地と身体が繋がっていく生きる喜びを知る。その方法は、道具を使い切る身体の技をさまざまに生み出し、それにどこまでも習熟していくこと。
 そこで得た身体運用の法や心の在り方を、日常の生活において実行する。そのような人間本来の「理に生きる」ことが、心の喜びとなるのです。

 武蔵はひとりそれを「勝つ」と表現した。

 装置が付随しない単純な道具、例えば、刀や大工の使うカンナや手斧、料理人が使う包丁など。そういう道具は、その使用を深くし手技を磨くことができる。
 この世界に物事の流れがあり、流れの働きがあり、働きの「拍子」があるとは何かを、その修行の中で普遍的に知ることができると武蔵は言っているのです。

 その具体的な稽古法として、二天一流という武蔵の流儀があり、『五輪書』があり、五方ノ形がある。
 また、その証として、「兵法の利に任せて」作られた彼のおびただしい数の絵画や鍛冶作品があり、『五輪書』があり、剣の理合・理法があるのです。


 批評家小林秀雄は武蔵についてこう評しています。
 彼の孤独も不遇も、恐らくこのどうにもならぬ彼の思想の新しさから来ていると。
 近代の散文において、これほどはっきりとした自己表現を示した人は、兵法者はもちろんのこと、文人、思想家にだってそうはいないのです。

 約400年たった今、武蔵の思想の新しさは、理解しやすいものになっているでしょうか。なってはいないと私は思います。どのように説こうと説き切りがたい新しさが、今も彼の思想にはあります。


 流祖宮本武蔵先生が顕かにした「実の道」。その本体をつかむことを夢見て、今日も稽古に励みます。

 
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2020年4月8日水曜日

剣道には人それぞれの実現形がある

否定してはならないその人の実現形


他人との違いを認められなくなってしまった現代剣道


 剣理をどう体得しているかが、その人の現時点での実現形(じつげんけい)に表れます。礼法、構え、足さばき、打突、残心、そして理合。そのすべてにはっきりと浮き出てしまうのが剣道。
 ウソはつけませんし、取り繕うこともできない。だから心を開いて謙虚に今の自分をさらけ出すしかない。何年キャリアがあっても、段位が何段であっても、たとえ高段者であってもです。
 その不断の稽古によって、人間形成の道が開かれていくのが武道としての剣道。スポーツのように年齢が来たから現役引退、あとは高みの見物でご意見番に、なんてことにはならない。戦国武士たちに現役引退などあるわけありませんからね。いざという時は、すべてを捨てて抜刀しなければならなかったわけですから。

 その武道としての剣道が、スポーツ化している側面を持っていることを、危惧している人は多いと思います。(剣道のスポーツ化に関する投稿は、こちら
 その一つとして、画一化ということがある。他者との違いを認められない風潮のことです。

実現形の違いは戦国期に剣術の「流派」として現れた


 室町末期から戦国期にかけて、剣術には流儀(流派)が生まれます。新当流(神道流)、念流、陰流(これを剣術の三大源流と言います)に始まり、その後に登場する新陰流がその概念を確固たるものにします。
 さらにその後、一刀流流祖の伊藤一刀斎、二天一流流祖の宮本武蔵、示現流流祖の東郷重位らが、流儀(流派)の概念を先鋭化させていきます。

 これらの異なる流儀(流派)は刀身一如を原則としていて、体現している理の部分は一致していました。しかし、理に対するアプローチの仕方が異なるという点において、実現形にはっきりとした違いが表れていたのです。それは、各流儀に伝わる形(かた)を見れば明らかです。
 アプローチが違っていても到達した剣理は同じであったため、明治期に「剣道」として諸流派を統合することができたのだと言えるでしょう。(「刀身一如」についてはこちらをご参照ください)

剣道家にも「流派」があった時代


 私が剣道を始めた昭和40年代は、元に立っている先生方は、皆さん大正生まれ。例外なく古流のいずれかの流派に属している方々でした。そのためお一人お一人の剣風はまったく違うものでした。(その当時の様子は、こちら
 教え方も様々で、各流派ごとに特徴がありましたね。しかし、言わんとする理は同じ。ここが剣道の魅力であり、神髄なんです。
 そういった流派の違いを超えて、一堂に会して稽古し、教え教えられるのが剣道だった。

 見た目や剣風の違いにとらわれることなく、根底にある理をつかもうとしていたあの時代。今とは比べものにならないくらい道場に活気がありました。
 画一化して、一見するときれいにまとまっているように見える現在の方が、いろいろな意味で雑になっていますね。礼儀をおろそかにしている人が多いし、体現できなくなってしまった理合や刀法もあります。そのことに現代の剣道家が気づいていないことは問題です。
 現代の剣道指導者たちは、剣道を非常に狭い枠の中に押し込めていることを自覚しなければなりません。このまま画一化が進んでいけば、剣道においては「自然体」という言葉は死語になります。奇矯な動作を訓練して身につける、一部のアスリートのためのスポーツと化していくことになるのではないかと危惧しています。(「剣道のスポーツ化」については、こちらをご参照ください)

身体的理由としての差異


 話はちょっとそれましたが、一人ひとりの実現形が異なる理由として、骨格や筋肉のつき方の違いということがあります。
 以前、解剖学がご専門の医師が書かれた記事を読んだときに、ちょっと驚いたことがあるのです。骨格は、体の大きさや身長の高低がありますから、違いがあるのはわかります。筋肉は、鍛えられたものとそうでないものが違うのは明らかです。しかし違いはもう一つあって、それは筋肉がついている場所なのだそうです。

 筋肉は腱で骨とつながっています。その腱で骨とつながっている場所が、一人ひとり違うそうなのです。それも、ちょっとずれているというものではないそうで、驚くほど離れている場所についている場合があるそうです。
 それだけ違う場所に腱がつながっていれば、物理的に全く同じ動作をすることは不可能なのだそうです。

 野球のピッチャーを例に挙げると、昭和の時代まではサイドスローやアンダースローのピッチャーが活躍していたことをご存知の方も多いのではないでしょか。これも、それぞれの部位についている筋肉の腱の位置が違うため、最も速くキレのある球が投げられるフォームが、人によって違うというわけです。
 現在は、ほとんどのピッチャーがオーバースロースタイルですね。もともとオーバースローに適した位置に筋肉がついている人には良いわけです。そうでない人は、ピッチャーとしては淘汰されてしまう。サイドスローやアンダースローという選択肢が事実上ほぼ閉ざされているからですね。

 このように、変更不可能な身体的理由で、全ての人が同じ動作ができるわけではないのです。

感覚的理由としての差異


 指導者によって教え方が違うということはよくありますね。これは、前述した剣術諸流派のようにアプローチの仕方が違うだけで、伝えようとしている理は同じであれば問題ありません。
 一つひとつの動作の意味のとらえ方、解釈の仕方は、皆が全く同じわけではありませんね。人それぞれ微妙に違う。それが指導にもはっきり表れます。

 また、指導を受ける側も、受け取り方が完全には一致しないのは言うまでもありません。人それぞれの解釈は違う。同じ段位でも剣道のとらえ方の深さは異なるのです。
 自分と同じようにとらえている人は、自分しかいないということですね。

 そういった感覚的な要因でも実現形に違いが表れます。

現代剣道においても剣風に違いがあって然るべき


 このように剣道を理解する深さが、他人と100%一致することはあり得ないことですが、それを自分と同じように理解させようと言葉で諭そうとするあまり、相手を全否定してしまう高段者がいることも困ったものです。
 人それぞれの実現形が"正しい"と言っているではありません。他人の今現在の実現形を尊重し、さらに上達することができる稽古をしてあげることが大切なのです。
 必要なのはお互いに理を追究する謙虚さであって、現段階の実現形の違いを否定することではないのです。

理の追究の機会を閉ざされてしまう人がいる


 剣道を画一化平均化しようとすることによって、結果的に他人との比較に終わるようなことになっている気がします。相対評価なんですね。これは評価する側もされる側も相対評価が基準になっている。

 評価する側(指導者)がそうなるのは絶対評価をする能力がないからです。自分とは違う剣風にとらわれて、理の体現を認識できない。認識できていたとしても、剣風の違いをことさらに問題視する方は多いですね。

 一方、評価される側にはさらに深刻な問題が表れます。指導者が相対的基準で指導しますから、指導を受ける側も自己評価を相対的基準で行なう癖がつきます。
 他人ができて自分ができない動作や技、試合に勝てないこと、あるいは強かった子が勝てなくなるなど、こういったことが気になり始めると、剣道をやめるきっかけになりますね。小学校の高学年あたりや、中学1年、高校1年でそういうことになってしまう人が多いのは大変残念なことです。(私の息子も剣道への情熱を失いかけた時がありました。その様子は、こちらをご参照ください)

 他人との比較で終わらないために、子供たちには理の体現という目標(喜び)とそのための稽古の意義を正しく伝えることが大事です。

剣理を教えることはできない


 剣理とは体得するものであることは言うまでもありません。他人に教えることはできない。教えられるのはせいぜい剣理を体得するための稽古の仕方ぐらいではないでしょうか。あとは本人が心を開いて一心に稽古するしかない。理をつかむのは本人なのです。

 ですから、他人に翻弄されないために、正しい稽古、自分に合った稽古法を見つけることは重要です。そのために、古流を学ぶことはたいへん有意義だと思います。

 前述した通り、剣道とは明治期に剣術諸流派を統合してできたものですから、剣道にとって古流は“親”です。さかのぼってルーツを知れば、おのずと現在が見えてくる。剣道で当たり前のように指導されている一つ一つの動作の深い意味を知れば、稽古で得られるものが全く変わります。「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」という稽古本来の意味を知ることになるでしょう。
 

理にかなった剣道を目指して


 結局のところ基準は、自分の剣道が理にかなっているかどうかです。
 理にかなっていることを立証する行為が、理合の体現ということになる。
 それが喜びとなり、相手はその喜びの共鳴者となる。これが剣道のおもしろいところ。

 例えば新陰流にあっては、勝敗は創造された運動世界の切り離せない「表裏」のようにして成り立ちます。敵手はあたかも進んでこの世界の成立に協力するかのように動かされる。敵の太刀筋が差し込む光なら、自分の太刀筋はその陰のごとくに働く。勝つことは、この光を十全ならしめる陰となることにほかなりません。

 そのための実現形の次元や水準が人によって違うのは当然のこと。堂々と今の自分をさらけ出すことの何がいけないんでしょうか。
 他人との実現形の違いから何かを学ばなければならないのは、それを否定している人のほうではないでしょうかねぇ。


追記

 以前、ある方からこんな話を伺いました。

 その方は、30代の前半で剣道六段を取得しましたが、そこから七段へはなかなか昇段できず、20年が経ってしまったそうです。その間、あちこちの八段の先生の道場に伺っては指南を受けていたそうですが、迷いの心が次第に強くなってしまった。

 そのようなころ、友人に誘われて地元近くの道場に出稽古に行ったときに、稽古をお願いしたのがTNK先生。なんと、私の小学生時代の恩師。(TNK先生については、こちらをご参照ください)
 その方が迷いの中で剣道をしていることを見抜いたTNK先生に、ある言葉をかけられたそうです。その瞬間、暗闇の中でもがいていた自分に光明が差したとのこと。
 そして、TNK先生のもとに通うこと一年。見事、七段に昇段できたのだそうです。20年ぶりの昇段にその方はたいへん喜んでおられました。

 初対面のTNK先生にかけられた言葉は、こうだったそうです。

 「〇〇さん、自分の剣道をやりなさいよ」


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2020年3月20日金曜日

剣道 刀身一如の大原則

日本独特の刀法


土台となる概念


 剣道に関する書物を読んでいると目にすることがある「刀身一如」という四文字熟語。この解ったようで解らないような言葉の意味とはどんなものなのでしょうか。

 この「刀身一如」という四文字熟語はもともとあった思想に後付けされたものです。読んで字のごとく、刀と身体が一体となって、という意味です。
 その元となる概念は、約400年前に戦国流祖たちや上泉伊勢守、宮本武蔵らがそれを顕かにしております。彼らは概念だけでなく、それを実現するための刀法と理合を体現した人たちです。

 現代剣道では、後付けした「刀身一如」という言葉のイメージからか、抽象的な表現で解説されることが多くなってしまったような気がします。禅に影響されたようなインテリぶった理屈をつけて、自己満足を披瀝しているような解説を、剣道誌などに寄稿している剣道家がいらっしゃいますね。
 しかし、「刀身一如」は、不断の稽古の中で、もっと具体的に伝えられるべきものだと思いますし、本来はそうであったと思います。

 古流はもちろん現代剣道を稽古する上で、この概念を正しく具体的に知ることは、一生をかけて稽古するための、揺るがない土台作りになると思います。そういった意味において、この稿では刀身一如を剣道の"大原則"と位置付けることにします。

戦国流祖たちが到達した境地


 皆さんご存知の通り、現在の剣道は、明治期に剣術諸流派を統合したものです。江戸期には数百といわれる流派がありましたが、その源流となった流儀が新当流(神道流)、念流、陰流の三つです。この三大源流が登場する室町末期から戦国期に、刀法の革新的な変更があったことは、前回のコラムで書きました。(前回のコラムは、こちら

 室町中期以前は片手で刀を操作していたものを、諸手(両手)で操作する刀法に変更した。片手刀法から諸手刀法へと刀法が変更したその理由は、あらゆる敵に“あらかじめ勝つ、勝つ必然を得る”ためにです。しかし、そのために単純に片手から諸手(両手)に替えたというものではありません。
 いかなる場面でも敵を制するために流祖たちが到達した境地、それが刀身一如。その刀身一如を体現するために諸手刀法という日本独特の操法にたどり着いたということです。

刀身一如とは


 刀を諸手(両手)で持つ目的はひとつ。敵を斬るために身体が移動する、その移動の力と刀の働きを完全に一致させるためにです。身体の移動軸が敵に向かって動く。その動きが刀を通して敵の心と身体を崩す働きとなる。
 具体的には、相手と正対し、身体をひらかず腰を入れ、機をみて身体もろとも打ち込んで仕留める。その瞬間、防御は一切なし。まさに捨て身の刀法なのです。

 現代剣道では、初心者に対して竹刀は両手で握るものと教えますね。だから刀を両手で持つに至った経緯が分からない。諸手刀法の目的、刀身一如の深い意味が伝わりにくいという側面があります。

武蔵は刀身一如を否定したのか


 一方、宮本武蔵は、戦国流祖たちが世を去ったころに生を受け、江戸初期に生きた人です。いわば、刀身一如の諸手刀法が全盛となっていた時代。そんな時代に、二刀を自流の原則とし、「やっぱり刀は片手で振るものだ」と言って、諸手刀法を否定した人です。

 では、武蔵は、刀身一如の原則まで否定したのでしょうか。

 武蔵が著書『五輪書』の中で説く「兵法の身なり」、「足づかひ」、「目付け」、「太刀の持ちやう」、「太刀の道」。それぞれの節には、刀身一如を体現するための具体的な稽古法が解説されています。
 つまり、武蔵の二刀は単なる片手刀法への回帰ではなく、戦国流祖たちがもたらした刀身一如という深い革新を、極めて厳密に受け継いでいる。(武蔵は、実際に、幼少期に養父から当理流という諸手刀法を仕込まれているのです。)しかも二刀を用いることによって、戦国流祖たちの革新から受け継いだ運動感覚を、むしろ一層鋭く、自由なものに研ぎ上げようとした。実際、彼はそれを生涯をかけて体現することに成功しているのです。
 

外道に陥らないために 


 このように、諸手刀法でも片手刀法でも、一刀でも二刀でも、刀身一如は共通の原則であることが解ると思います。現代剣道においても、それが連綿と受け継がれており、これからもそれを伝承していかなければならない。これが日本の伝統文化としての剣道の核心部分なのです。

 しかし、残念なことに、刀身一如の大原則を無視するような稽古の仕方に明け暮れている人たちがいることも事実ですね。小手先の技やフェイント技に勝機を見いだそうとして、あれこれと奇妙な技をひねり出す人たち。
 こういった外道(げどう)といわれる者の特質は、理から離れて自分の勝手な空想から物事を裁断することにあります。
 相手の間抜けが原因で、たまたま勝ったに過ぎない幾つかの経験から、技をでっちあげる。自分では達者に立ち回って素人を欺き、大いによろしくやっている気でいるのかもしれません。しかし彼らは、俗世の幻想を維持する駒のひとつとなって、走り回らされているに過ぎないのです。
 その外道たちの行く末は皆さんご存知の通り。自分の技が通用しなくなって試合に勝てなくなったり、格下の者に打ち込まれるようになったり、昇段できなくなったところで、剣道をやめてしまう。稽古すべき正しい方向を、はるか前に見失っているからなのです。

 いにしえに流祖たちが具現化した刀身一如。その大原則を心に刻んでいれば、稽古すべき道は、目の前にはっきりと現れてくるのではないでしょうか。

 この稿も、最後に武蔵の言葉を引かせていただきます。
 手をねじ、身をひねりて、飛び、ひらき、人をきる事、実(まこと)の道にあらず。人をきるに、ねじてきられず、ひねりてきられず、飛んできれず、ひらいてきれず、かつて役に立たざる事也。我(わが)兵法におゐては、身なりも心も直(すぐ)にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝つ事肝心(かんじん)也。能々(よくよく)吟味あるべし。(『五輪書』風之巻)


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2020年2月29日土曜日

刀法は片手から諸手に変更された ~そして今、剣道で片手刀法を伝承する~

元来、刀剣は片手で操作するものだった

太刀 画像 著作権なし
〔写真1〕鎌倉時代の太刀
日本刀 画像 著作権なし
〔写真2〕江戸期の打刀拵


刀は片手で振れないという人たち


「日本刀は片手では振ることはできない」「片手では斬れない」

 剣道をやっていてこんなことを聞いたり言われたりしたことがある方、いらっしゃると思います。剣道家のほとんどが諸手保持刀法で剣理の稽古をしていますから、このような思い込みが生まれてくるんですね。
 ご自分が片手で竹刀(約500g)を振ることができないものだから、日本刀(約1㎏)を振ることなんてできるはずがないと決めつける。
 するとそれ以外の刀法を認められなくなる。それ以外とは、片手で刀(竹刀)を振ることです。

 そういった誤解や偏見は、昭和40~50年代にピークになります。片手で上段に構えて片手で打突する「片手上段」や、両手に一本ずつの竹刀を持って同時に操作する「二刀」が、この頃に絶滅の危機に瀕しました。(その様子はこちら

 現在は、全剣連の努力もあって、二刀に対する誤解や偏見はかなり少なくなっていると思います。しかし、
 「片手で振ったり打ったりできるのは、竹刀だからできること」
 「日本刀でそんなことはできない」
って公言する人は、今でも意外に多いのです。

 本当に、日本刀は諸手(両手)でしか操作できないものなのでしょうか。

刀を扱う武道


 現代剣道では、刀を執っての稽古はまずありません。刀といえば居合や抜刀術などになると思います。

 居合や抜刀術の形(かた)の演武を観れば、日本刀を終始諸手で操作していないことはすぐにわかります。特に、抜きつけ(初太刀)は片手です。重い真剣を片手で振っているわけです。そして二の太刀で諸手で斬り下ろす。現代剣道のように、終始諸手刀法に執着している剣の操法ではないんですね。
 また、試し斬りの演武では、巻藁を見事に片手で斬っていますね。片手では斬ることはできないなんて言う人は、これを見てどう思うのでしょうか。

 居合や抜刀術の醍醐味は「抜き打ち」です。日本刀を鞘から抜き放つ動作で相手に一撃を加える。この動作は、もちろん片手で行われます。諸手に構える暇はないのです。

 余談ですが、敵を片手で抜き打ちにするといえば、私たちになじみのあるものは、座頭市の抜刀シーンでしょうか。抜刀術の達人である座頭市が、諸手で斬るところなんて見たことありませんよね。(まあ、これは、映画の中のことですが……汗)

歴史的事実


 今日で言う日本刀が生まれたのは平安末期と考えられています。〔写真1〕はその時代の日本刀です。特徴は、片刃で反りがある刀身。そして、柄もまた刀の峰側に大きく反り返っていること。刃は下向きにして腰から紐で吊り提げます。ちなみに、それ以前の刀剣は大陸伝来の両刃(もろは)の直刀でした。
 この時代の合戦は馬上攻撃が主ですから、左手は手綱を引いて馬を操りながら右片手で刀を操作し、敵をなぎ斬りにします。刀身の反りや柄の反り返りは、片手でなぎ斬りにするためのもの。馬上からの攻撃に適した長刀になっています。

 一方、〔写真2〕は戦国から江戸時代のものです。いわゆる打刀拵(うちがたなこしらえ)です。刀身は反りが緩やかになりやや短く、柄は長くなり反り返りはありません。諸手で保持して、打つように斬るための刀。刃は上に向けて帯刀します。刀法が変更された証です。
 日本刀にこの特徴が表れ始めたのは室町後期、つまり戦国時代になってからです。

 その時代になぜ刀法が変更され、日本刀の形状が変化したのか。戦国武士たちに、いったい何が起こったというのでしょうか。

剣術流儀(流派)の起こり


 剣術には流儀(流派)というものがありますね。江戸後期にはそれが数百にも分化し、明治期に「剣道」として統合されるのですが、もともとの“源流”と言われているものがあります。それは、室町後期から戦国時代に誕生した新当流(神道流)、念流、陰流の三つです。
 ご存じのように、これらの流儀は諸手刀法を自流の原則とした最初の流派。よって、この時代に、刀法は片手刀法から諸手刀法に変更されたことがわかります。それと、〔写真2〕の打刀(うちがたな)の完成は軌を一にしているのです。

なぜ刀法が変更されたのか


 古来世界中の剣技が片手技なのはなぜか。片腕を伸ばし、身体を横に開いて構えることが、最も遠くから攻撃でき、自分の身を危険にさらすことを最小限にすることができる戦い方だからです。〔写真1〕の太刀はそのような戦い方のために造られた刀です。
 しかし、この片手技には理はなく、単に生まれ持った運動能力の差や偶然で、振り回す刀が当たれば勝敗が決まってしまう。負けるということは、そのまま死を意味します。
 そんなむごたらしい事態からなんとか抜け出したい、どうにかして勝つ必然をその原理を我が身に修めたい。戦乱に明け暮れた時代の武士たちが抱く当然の願いがあった。
 そして結果的に刀法は根底から変更され、一刀を両手で持つことを原則とする日本独特の諸手刀法が生まれたのです。

剣道はここを「稽古」している


 両手で刀を構え操作する理由は、刀が重いからではありません。
 その理由はひとつ。敵を斬るという動作、つまり身体の移動の力と刀の働きを完全に一致させるためにです(刀身一如)。(「刀身一如」の考察については、こちら
 その動きが、相手の心と移動軸を崩す働きとなる。これが戦国流祖たちが到達した諸手刀法の理想であり、それが現代剣道に連綿と受け継がれている。剣道の起源はここにあると、個人的には思うのです。(一般的に剣道の起源というと、日本国の始まりと同じように神話の世界にまでさかのぼってしまいます)

武蔵の片手刀法


 宮本武蔵は、諸手刀法が全盛となった戦国末期に生まれ、江戸初期に生きた人です。
 そんな時代に彼は、やっぱり刀は片手で振るものだと言っている。彼が創始した二天一流は二刀を流儀の原則とするという点で、他流と大きく異なっていた。ある意味、諸手刀法を否定した人です。このことの理由について、『五輪書』は実に明快に説明しています。
 太刀を両手に持ちて悪(あ)しき事、馬上にてあしゝ、かけ走る時あしゝ。沼・ふけ・石原、さかしき道、人ごみにあしゝ。左に弓・鑓(やり)を持ち、其外(そのほか)いづれの道具を持ちても、みな片手にて太刀をつかふものなれば、両手にて太刀をかまゆる事、実(まこと)の道にあらず。(『五輪書』地之巻)

また、なぜ二刀を執るのかについては、こう書き記しています。
 先づ片手にて太刀をふりならはせん為に、二刀として、太刀を片手にて振覚(ふりおぼ)ゆる道也。 (『五輪書』地之巻)
このように、二刀とは、片手刀法を修得するための稽古法だと言っている。左右の手に一本ずつ刀を持ってしまえば、両手で柄を握ることは不可能です。片手で振り続けるしかなくなります。
 武士は二刀を腰に帯びるものである。この二つの道具を使い切らずに死ぬとは、いかにも不本意、不真面目なことではないか、武蔵はそうも言っているのです。

武蔵の歴史的役割


 武蔵は単なる片手操法への回帰を謳ったのではありません。武蔵の二刀は、戦国流祖たちがもたらした深い革新、いわゆる刀身一如の大原則を極めて厳密に受け継いでいる。二刀を用いて稽古することは、その受け継いだ運動感覚を一層鋭く、自由なものに研ぎ上げるための手段にほかならなかったと思うのです。

 誰もが、勝負の馬鹿げた運で死にたくはない。では、何を知り、何に熟達することが、この偶然の底なしの闇に勝つことなのか。武蔵は戦国武士が多かれ少なかれ強いられたこの課題を、戦国期が収束した時代において、まさにひとつの思想問題として決着させようとした人物なのです。(この「実の道」という思想については、こちら

現代剣道で片手刀法を実践する


 現代剣道で片手で打突することは、もちろん可能です。一刀中段の構えから大きく振りかぶって、左片手で半面を打つ。または、諸手左上段から、左片手で面や小手を打つなど。
 しかし、これらは片手刀法とは言い難い。完全なる片手刀法ではなく、諸手での構えや打突も織り交ぜつつ、必要な時に片手技を遣うもの。

 一方、二刀は、一旦二刀を抜刀すれば諸手で持つことはできない。完全なる片手での操作を貫かなくてはなりません。現代剣道で、片手刀法を修練する、あるいは実践できるのは、二刀だといえるのではないでしょうか。
 言い方を換えれば、現代の剣道においても、片手刀法を伝承できる環境が残されているということ。これは本当に素晴らしいことだと思います。

 諸手(両手)、片手、どちらの刀法を稽古するにしても大切なこと。それは、勝つ必然を、その原理を我が身に修めたいという、剣技に法を求めた戦国武士たちの激烈な生涯があったということ。彼らに敬意を持たずして、剣道の稽古をするなんてあり得ないことだと思うのです。

 この稿の終わりに、今一度武蔵の言葉を引いておきます。
 人毎(ごと)に初而(はじめて)とる時は、太刀おもくて振りがたし。いづれも其(その)道具其道具になれては、弓も力つよくなり、太刀もふりつけぬれば、道の力を得て振りよくなる也。(『五輪書』地之巻)


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2020年2月17日月曜日

剣道 心を学べは上達できるのか

小説に描かれたことを本当のことと思い込む人たち


「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」


 このフレーズを何かで見たり聞いたりした事がおありだと思います。
 社会人の講話や剣道漫画のセリフに引用されることが度々ある言葉です。最近では、中学生が剣道部の揃いの手ぬぐいに染め抜いたり、ポロシャツの背中にプリントしているのを目にしたりします。
 それなりに、人の心に響く力を持ったいいセリフなんですね。だから剣道経験が有る無しにかかわらず人々が耳にし、いまだに使われ一人歩きしている説教です。

 このセリフは、もとはといえば大正2(1913)年から新聞連載が始まった中里介山の『大菩薩峠』という長編小説の中に出てきます。島田虎之助という直心影流の剣客が、彼を暗殺しようと襲いかかる浪人たちを手もなく片付けたあと、彼が一味の首魁に向かって浴びせかけるセリフ。それが「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」です。

 しかし残念ながら、このセリフは中里介山の創作です。小説とはそういうもの。取材や歴史的資料などで大枠を創り、想像や思いつきでストーリーを肉付けしていく。その時代の読者に合わせた表現が、至る所に散りばめられた作品が作り上げられるわけです。
 厄介なのが、創作と事実が混同しているので、作品を読んでいるうちに書かれていることすべてを事実として誤解してしまう人がいることです。

 例えば、坂本龍馬といえば、司馬遼太郎の小説に描かれた人物像が、我々の龍馬のイメージになっていますね。司馬遼太郎の小説を原作とした映画やドラマ、漫画などが多く作られたことが影響しています。
 しかし、実際の司馬遼太郎の小説のタイトルは「竜馬がゆく」。坂本龍馬の龍馬ではなく"竜馬"なのです。司馬遼太郎はご丁寧に、この小説の主人公である“竜馬”は架空の人物ですよと、前もってことわっているのです。
 また、宮本武蔵の生涯を描いた吉川英治の小説『宮本武蔵』。ここに登場するお通さんは実在しませんし、佐々木小次郎の人物像も史実にはありません。

 それが小説というもの。事実と注意深く区別しなければなりません。

剣道(剣術)は道徳的観念を押し付ける道具ではない


 話はあの「剣は心なり……」のセリフに戻りますが、江戸期から明治にかけての戯作本、講談本に登場する剣豪は、このような説教じみたセリフを決して口にしません。
 剣客に、剣聖というおかしな“理想像”を求めるようになってしまったのは大正期。大衆小説が一般化し、その書き手たちが読者の求めに応じて、自作に取り込んでいったことが始まりではないでしょうか。

 「剣は心なり……」のセリフを聞くと、道徳的には一瞬説得されてしまいそうになりますよね。しかし、よく考えればズレているんですよ。目的の遂行から物事を考えていないことは明らかですね。だから話が矛盾してしまっている。
 剣道(剣術)は観念のうちにはありません。実在する敵(相手)との戦いなのです。
 その戦いに勝つために、厳しく辛い稽古を積んでいる。それなのに、剣は心だ、精神だと粗雑な理屈に逃げ込んでしまっている。厳しい稽古に日々打ち込んでいる剣道家にとっては、実に失礼な話です。

 さらに、現在の若者たちが、このセリフを正しい剣道訓だと誤解してしまっていることは問題です。心を学べば剣道が上達できることになってしまった、あるいは剣道の強者は人格的にも優れているという幻想ができてしまったんですね。
 実際はそうでないことは、剣道をやっている者ならばわかりますね。しかし、このセリフは剣道訓だと疑わない若者、いえ、大人だってそう理解している人が多いかもしれません。

道徳は理ではない


 道徳とは、その民族の生活様式や文化を背景にして、人間相互の関係を規定する通念です。ですから国や地域が異なれば道徳も異なります。よって、道徳は理ではありません。
 稽古をするのは剣理を追求するのが目的。道徳を追究するのが稽古ではありません。道徳を学ぶのであれば、もっと違う方法があるはずです。

 宮本武蔵は著書『五輪書』の中で、大工の棟梁を例にとってこう言っています。
 深い精神があるから、よい家が建つのではない。よい家を建てるという目的、それに向かう行為の中に、日常の生活では隠れている深い身体や細やかな心の原則が顕れてくる。この目的はすべてに先行する。
剣術とは、敵を斬るという端的な目的のために生まれたものであることは言うまでもありません。
 それを朝鍛夕錬していく中で、身体や心の運用法に理が顕れてくるというのです。武蔵はなにも心の存在を否定しているわけではない。
 目的の遂行があってはじめて心が磨かれると言っているわけです。心が磨かれれば、目的が達成されるわけではないのです。

常に目的を明らかにする 


 「とにも角(かく)にも、きるとおもひて、太刀をとるべし」(『五輪書』水之巻)とは、武蔵の繰り返し説くところです。
 剣術(剣道)は説教の種ではない。深く厳しい稽古の中で、身体と心に顕れてくる理をつかむのだという。

 『五輪書』に記された武蔵の思想は、禅などのに影響された知識人風な理屈とは関係がありません。剣術(剣道)で学ぶべきことは何なのか、それを学べば(稽古すれば)何を知ることができるのか、武蔵は約400年前に明快に書き遺しているのです。

 繰り返しますが、剣道は説教の種ではありません。
 道徳的観念の押しつけで、剣道が上達するのであれば、誰も苦労はしませんね。


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2020年2月14日金曜日

剣道 成長した息子を見て思うこと

驚きと感動の光景


追い出し稽古


「ああ、私が伝えたことをすべて実行しているんだなぁ」

 2019(平成31)年3月4日、都内某高校の剣道場。急性リンパ性白血病を克服して、久しぶりに息子が通う高校へ。この日は、3年生が卒業する直前に行われる「追い出し稽古」の日。
 都内では剣道強豪校の一角を占める学校で、3年間部活を休むことなく継続してきた息子。高校での最後の稽古を観るため、息子の学校へ行ったときに率直に感じたことです。

 まずは通常のメニューで稽古開始。そして最後に、卒業する3年生が元に立って地稽古になるのですが、下級生たちが次々に本気で掛かっていく。
 稽古をつけてやる立場の3年生がヘトヘトになって音を上げる、いわゆる「追い出し稽古」。息子の試合の観戦をしたことはありましたが、私が大病をしてしまったこともあり、高校生になってからの稽古を観る機会はほとんどありませんでした。

泣き虫少年剣士


 小学1年で剣道を始めた息子。その3年後に私が剣道を再開しました。ちょうど30年のブランクを経て。
 小学校低学年の頃の息子は、道場でいつも泣いてばかり。そんな息子がかわいそうで見ていられず、あまり道場には行かなかった私。しかし、あるきっかけで息子が小学3年を終わる頃に、私が剣道を再開して同じ道場で稽古するようになった。(あるきっかけとは、こちら

 「お父さんが始められてから、息子さんの剣道が変わりましたよ」

 ある保護者の方にかけられた言葉です。息子が剣道に真剣に取り組むようになったんですね、この時。強くなりたい、上達したいという気持ちが芽生えたようです。

試合で勝てない


 息子は小学校高学年になって、毎週のように対外試合に行くようになりましたが、試合に勝てないんですね。所属道場内ではそこそこでも、大会に出たら勝てない。
 それでも剣道が大好きで、張り切って稽古に行く姿を見て、息子自身が壁にぶつかるまでは、アドバイスはしないでいました。本人が吸収できる時に伝えないと、理解できないと思いまして。

剣道が好きでなくなっているかも


 中学に入って盲腸で2度入院した息子。これで、すっかり剣道への意欲がなくなってしまったように見えた。ライバルに差をつけられてしまったんですね。手術を終えて復帰してからも、何か惰性で部活をやっているような感じ。小学生の頃のような、生き生きとした様子が感じられないんです。

 「このままでは、剣道の本当のおもしろさを分からないまま、やめてしまうかもしれない」

 そう思った私は、息子と1から稽古し直すことを決意します。息子が中学2年の頃だったと思います。

二人だけの稽古


 毎週日曜日の夜、市の総合体育施設にある剣道場を借り切って、息子と二人で稽古しました。内容は基本稽古のみ。最初の数週間は、竹刀は持たず、足さばきの稽古。腰を入れた打突には不可欠な稽古法である「ナンバ歩き」を、徹底的に教えました。(ナンバ歩きとは、こちら
 次の数週間は構えの矯正と、正しい素振り。その次は、ひたすら切り返し。その次は………

 一つひとつの段階を、確実に身につくまでやって次にいく。よくも嫌がらずにやってくれたと思います、一年近くも。普通、中学2年といえば反抗期の真っただ中ですよね。そんな時期に父親と二人だけで毎回2時間の稽古をするんですからね。「あのとき頑張ってよかった」と思ってもらえるように、こちらも真剣でした。

 息子と稽古するにあたって、私自身に課した決まり事は三つ。
  1.  怒らない
  2.  大声を出さない
  3.  一つ一つの動作の意味(理)を伝える

剣道の楽しさ


 子供は、身長が伸びたり、体重が増加したりして、体のバランスが変わります。ですから、常に基本稽古に時間を割かなければなりません。そして、正しい基本が身についたところで、実戦メニューに入りました。二人だけの稽古を始めて半年ほど経ったころでしょうか。

 「攻める」、「相手の出ばなをとらえる」、「腰を入れて打つ」、「手の内の冴え」。正しい基本が身につけられたので、このあたりのことは教えればすぐにできるようになりました。
 そして、「一本をとること」=「理の体現」ということを、頭と身体で理解していったようです。出場した大会では、強豪校の選手に勝ったりして自信がついてきたみたい。運動神経がいいとは言えない息子が、試合で勝てるようになって結果が出はじめた。
 この頃には再び、剣道が楽しいという表情になっていましたね。そして、中学3年で進路を決めるにあたり、息子の希望はこうでした。

 「剣道の強豪校に進学したい」

病床で息子に伝えたこと


 息子が自分で決めた希望どおりの高校に進学し、休日には全国を遠征して回るようになりました。そんな生活にも慣れ、2年生にでもなれば試合に出場できる機会も増えると楽しみにしていた矢先、私が急性リンパ性白血病になってしまった。治療しなければ余命1カ月の病です。(私の急性リンパ性白血病闘病の様子は、こちら
 
 「もう息子と剣道をすることはないかもしれない」

 そう思った私は、抗がん剤治療を受け病院のベッドに力なく横たわりながら、面会に来た息子にいつもこんな話をしました。

  • 磨くのは「基本」、おろそかにするな
  • 大事なのは稽古に取り組む姿勢、試合に勝つことではない
  • 絶対に初太刀を取るという気概を忘れるな
  • 元に立って受ける場合も、気を抜くな。打たせる時は、絶妙なタイミングで打たれろ。元に立って打たせている時は、休憩時間ではない。元に立っている時も稽古せよ
  • どんなに強い相手でも、技には必ず技の“起こり”がある。強い相手の起こりをとらえられるように
  • 剣道は運動神経がいい者、体力がある者が勝つのではない
  • 理を体現できる者が勝つ、正しい剣道をする者が強い相手に勝つことができる

 まあ、ざっとこんなとこでしょうか。言わんとしたことは、「心構え」。小手先の剣道をするなということ。
 そんなことをすれば、一時的には試合に勝てても、本当の意味で上達することはできない。一生上達するための土台、剣道のおもしろさを知るための土台を作ってもらいたいがため。
 私がいつ死んでも悔いがないように、真剣に伝えました。

感謝でいっぱい


 奇跡的に治療を乗り越えることができ、高校最後の息子の稽古を見ることができたのが、冒頭の「追い出し稽古」。
 しばらく見ないうちに、伝えたことすべてをすべて実践してたんですね、息子が。後輩たちにも慕われて、3年生として立派な稽古をしていました。

 日曜の夜の二人きりの稽古、病室での二人きりの会話。その一つ一つの場面が走馬灯のようによみがえった。
 努力すれば、こんなに堂々とした剣道ができるようになるんですね。本当に感動でした。

 「これなら大丈夫。一生上達できる。一生剣道を楽しめる」
 
 ありがとう、息子!
 剣道って素晴らしい!
 人生って素晴らしい!


2019年11月10日日曜日

令和元年 浦安市秋季市民剣道大会 2度目の総合優勝!

病気とケガを克服した"おやじチーム"

総合の決勝、筆者(中堅)の試合

3年ぶりの再結成


 2019(令和元)年11月4日、浦安市秋季市民剣道大会が開催されました。
 この秋季大会は団体戦のみ。個人戦は春季大会でおこなわれている。

 団体戦は3人制で、過去3回同じメンバーで出場しています。
 今回は3年ぶりの参加となりました。
 というのは、中堅を任されていた私が一昨年に急性リンパ性白血病と診断され、治療のため入院。奇跡的に回復して昨年復帰。(闘病の様子はこちら
 しかし昨年、今度は大将を務めていた方が、稽古中に左アキレス腱を断裂。そのため、2年間チームを組めず、出場を見合わせていました。

壮年の部の優勝は、過去3回


 それでようやく今年、チームを再結成することができたのです。
 このメンバーにこだわっているのは、過去にこの大会の壮年の部で3連覇しているから。3年前(2016年)の大会からは総合の決勝も行われ、その時は青年の部の優勝チームをも破って、総合優勝しています。(その模様はこちら

 病気やケガで連覇は途絶えてしまいましたが、それを克服してチームを再結成できた喜びの方が大きかった。3人とも口には出しませんでしたが、今回も最初から総合優勝を目標にしていてたと思います。まずは予選リーグを1位で通過し、壮年の部の決勝へ駒を進めました。

壮年の部、決勝


 40歳以上のチームが対戦する壮年の部。大会パンフレットの参加チーム一覧を見た時、決勝まで勝ち上がってくるだろうと思ったチーム。予想通りそのチームが決勝のお相手です。
 それは近隣ライバル道場の方々。年齢的には我々と同じぐらいだと思いますが、皆さん高段者。一方、こちらは全員リバ剣組で低段者。笑
 風格も品格も、お相手チームの方が数段上です。苦笑

 まずは先鋒戦。こちらは逆二刀、TD範士のお弟子さんです。予選から絶好調で、勝ち点を挙げてくれる頼もしい存在。しかし、お相手はかなり対二刀を研究してきたと見えて接戦になっている。互いに有効打突なく時間切れで引き分け。

次は中堅戦。私、正二刀。主審の「はじめ」の号令で蹲踞の姿勢から立ち上がり、中段十字の構えのまま攻め込もうと前へ出た。すると、お相手はすかさず左小手を打ってきた。中段十字の構えの小刀側の小手を打っても、打突部位にはまず当たることはありませんから、そのまま見逃した。
  すると、「小手あり」と主審の声。左拳を打たれたんですね。拳は打突部位ではありませんので、厳密には誤審です。
 しかし、心を乱すこともなく、平常心のまま一本を取ることだけに集中。お相手が居付いたところを「面」を打って一本取り返し、そして試合時間終了間際に「出ばな面」でもう一本。これで二本勝ち。

  そして大将戦。激しい攻防の末、有効打突がないまま時間切れの合図。その瞬間、私たちのチームの壮年の部の優勝が決まりました。

総合の決勝


  ついにここまで来ました。
  市民大会ですから、対戦するお相手は面識のある方が多い。剣風もなんとなくわかっている。しかし、それは壮年の部の話。
  青年の部は毎年、出場者の入れ替わりが早いので、初めてお目にかかる方がほとんど。
  なので、青年の部の試合は、目を皿のようにして見てました。どのチームが総合の決勝の対戦相手になってもいいように。
  あるチームの中堅の選手を見て、この選手とだけはやりたくないな、と思った。
  するとやはり、そのチームが総合の決勝のお相手になるんですねぇ、これが。

  しかし、この時点では、私はなんとか引き分けに持ち込めればいいかな、ぐらいに思ってた。私のチームの先鋒は絶好調ですし、お相手のチームの先鋒は諸手左上段。二刀者にとっては対戦しやすいお相手ですから勝ってくれるんじゃないかと。
  しかしこのあと、勝負の世界でそんな甘い考えが通用するわけがないと、再認識させられることに。

 総合の決勝戦になると、市総合体育館のメインアリーナの試合会場も、一つのコートだけが使用されることになります。すると、観覧席にいた方々が最後の試合を間近で見るために次々にアリーナに降りてきて、その一つのコートのすぐ脇に陣取る。会場全体が緊張に包まれた独特の雰囲気です。
 総合の決勝戦が始まりました。

先鋒戦


 先鋒戦は、逆二刀対諸手左上段。派手な対戦に、観戦している少年剣士たちも目が釘付けの様子。
 諸手左上段の方は、逆二刀に対してどう攻めていいか分からないのか、理合(りあい)なく打突している。
 それを難なくしのいで、機をうかがっていたこちらの逆二刀者は、挑発しようとする意図があったんでしょうか、小刀を持つ右手を自分の腰の後ろに回したんです。
 するとすぐに主審の「ヤメ」の声。試合が止められ、3人の審判が合議に入った。その結果、自分の打突部位を隠したということで、反則をとられてしまった。
 すぐに試合は再開されましたが、逆二刀者の動揺が見て取れる。先ほどまでの落ち着いた試合運びができなくなってしまったよう。無駄打ちが多くなり、結局、有効打突なく引き分け。

中堅戦


 「先鋒で一勝は堅い」。そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなりました。
 もう私が勝つしかない。大将は、左アキレス腱断裂の大ケガから復帰して3カ月しかたっていません。チーム再結成のため無理に出場してくれたようなもの。私が勝ち点を挙げられなければ、大将にチームの勝敗を全て背負わせてしまうことになる。
 そんなことはさせられないという思いが、沸々と湧き上がってきました。

 私のお相手は、身長が190cm以上あろうかという20歳代の方。私とは親子ほど年が離れています。
 試合が始まりました。(添付動画参照)
 すると、すぐに「面あり」という主審の声。一瞬戸惑いました。
 私は大刀で面を打った感触はあるのですが、どのような場面でどう打ったのかが自分で分からない。素早いお相手の動きに、身体が勝手に反応してくれたみたいです。これでまず一本先取。
 しかしその後、お相手ともつれたところで押されて転倒。受け身をとれずに、後頭部を床に強打してしまった。意識はちゃんとあり痛みもなかったので、主審に問題ないことを伝えて、試合続行。
 なぜかこれをきっかけに、ますますエネルギーが湧いてきた。笑
 絶対にもう一本取ってやる!そう思いながらも、心は非常に冷静で、お相手の動きがよく見えました。
 長身と長いリーチをいかして次々と打ち込もうとするお相手の剣を小刀でさばいていく中で、私の「攻め」にほんの一瞬、打突を躊躇したお相手。再度打とうとしたその刹那を、「出ばな面」で仕留めた。審判の旗も3本あがっていて、これで二本勝ち。

 自分の役割を果たすことができた安堵感はありましたが、心配なのは大将の万全ではないアキレス腱の状態です。

大将戦


 ここまで来ると、実際問題として、勝敗よりも大将のケガのことの方が心配になってしまうんですね。事情を知る誰もが、そう思っていたんではないでしょうか。年齢も60代半ばですから。
 お相手の選手は、20代後半と思われる高身長で体格のいい選手。強く体当たりされればひとたまりもありません。
 「ケガだけはしないでほしい」。祈る気持ちで見守る中、試合が始まりました。

 やはり左足をかばいながらの、戦いには無理があります。お相手はスピードと瞬発力がありますから、打突すればその勢いで体当たりすることになる。故意ではなく自然にそうなる。
 すると、こちらの大将は、足で踏ん張ることができませんから、ヨロヨロと下がって場外に出そうになるんですね。その姿を見て、「もうそこまでして、頑張らなくてもいいですよ」と心の中で叫びました。
 誰よりも"勝つ"ということに執着している人なので、もう格好なんて気にしていないんですね。そんな身体の状態でも、果敢に攻めています。決して逃げることはしないのです。
 その戦いぶりに心を打たれたのは私だけではないと思います。見ているほとんどの方が、こちらの大将を応援していたと思います。

 そして、試合時間終了の合図。なんと引き分けに持ち込んでしまった。繰り返しますが、お相手は青年の部を制したチームの大将、強豪校出身の若手です。
 まあ、ホントにすごいおじさんです。この瞬間に、私たちのチームの総合優勝が決まりました。 
  

おやじ旋風巻き起こる


 本当に素晴らしいチームワークで達成できました。同じチームで2度目の総合優勝です。
 壮年の部の優勝に関しては、これで4度目。今大会、私たちのメンバーは誰も負けていません。"引き分け"か"勝ち"。チーム全員でつかんだ勝利の喜びは、個人戦のそれとは全く違うものですね。

 こんなおじさんたちと若者が、真っ向勝負できる剣道って本当に素晴らしい!


追記
 今大会中、先鋒の逆二刀の方が反則をとられた件。これは、反則以前の問題です。
 ご本人は、「俺は小刀なしでも、お前と戦えるぞ」という挑発の意図があったと思う。
 この方の師匠(故人)は平成の高名な二刀者でしたが、頭上高く大刀を上げたりして威嚇や挑発をする方だった。鍔迫り合いのルールも無視するし、抜刀や納刀の所作も自己流で、残心もしないというスタイル。
 高名な方や地位の高い方が誤った行為をしていても、指摘されたり注意されたりしないということ、よくありますよね。
 その"誤った行為"を見て、誤っていると気づく人は賢明ですが、「あの方がやっているんだから正しいこと」と認識してしまう人がいるんですね。
 剣道での〈攻め〉と、威嚇や挑発はもちろん違います。剣道では、威嚇や挑発は失礼なこと。
 同じチームの方ですが、学んでいただきたいと思います。


2019年10月4日金曜日

白血病 退院から1年10カ月でランニング再開

「走れる」までには意外に時間がかかった


これが現実、体力が完全に戻るのはまだまだ先


 病名は、急性リンパ性白血病 フィラデルフィア染色体異常。(闘病の様子はこちらから)
 2017(平成29)年12月に、8カ月間にわたる抗がん剤治療を終えて退院した。(退院時の様子はこちら

 その時に、まず直面した問題が……
 
 「うまく歩けない」

ということ。
 入院中は、抗がん剤の影響で筋肉は破壊され、起き上がることもつらい状態。それでも無菌室のベッドの脇のトイレに行ければなんとかなりました。
 しかし、帰宅すればそうはいきません。復職に向けて、リハビリが必要になる。まずは、歩けるようにならなくてはならない。
 自分が元々どういうふうに歩いていたか、歩き方が解らなくなっちゃうんですね。筋力が落ちてまともに歩けない。体力もない。まさに"よちよち歩き"といった感じです。

退院から5カ月で復職、剣道も再開


 リハビリとして散歩を日課にして5カ月。距離も最初は数十mから始めて1㎞くらいは歩けるようになった。

 会社からは、「しばらくは体への負担の少ない内勤のみで」という配慮をもらって、早期に復職することができた。
 同時に、大好きな剣道も再開。当然、全力ではできませんので、リハビリの延長という感じでしょうか。ごく短時間で軽い稽古だけ。それでも、稽古をすれば疲労の回復には時間がかかる。道場に行った後の3日間は体が怠い。

 しかし、この頃は「もっと早く体力をつけたい」と焦るばかりでした。なにしろその1カ月後に、市民剣道大会に出場すると決めてしまっていましたから。今から考えると、無謀な決断でした。苦笑(その時出場した市民剣道大会の模様はこちら

筋トレやランニングはできる状態ではなかった


 退院して歩くことから始めれば、徐々に体力がついて、筋トレやランニングもやれるようになると思ってました。しかし実際にはできません。剣道はできるのに(自分のペースでですが)、筋トレやランニングはやろうと思っても、やはり無理なのです。

 剣道は瞬間的にな動作がほとんどなので、年配になってもできる武道です。一方、筋トレやランニングとなると、そうもいきません。特にランニングは持久力の問題なので、病み上がりの身体には負荷が大きすぎる。
 それにしても、走れるような気配が起こらないまま、退院して1年10カ月がすぎようとしていました。

走らなければ走れないまま


 退院後に剣道を再開できた喜びで、稽古を続けてきました。しかし、最近になって自分の技量が後退していることを自覚するようになったのです。
 以前と比較すれば10分の1程度の稽古量になっていますから、当然なのですが……。(大病以前の稽古メニューはこちら

 素振りや打ち込み、防具を着用しての稽古は、量は非常に少ないながらもやってます。今は取り組んでいないことと言えば基礎体力の強化、特に足腰の鍛錬です。
 白血病になる前は、道場での稽古がない日は、「ナンバ走り」で一日約8㎞走ってました。(ナンバとはこちら
 それを今はまったくやっていないのです。ですから、本来の足さばきや腰の入った打突ができなくなってしまった。

 技量後退の原因は解っていても、実際には走れない。走りたいけど走る力が沸き上がらないといった方が解かりやすいでしょうか。
 しかし、このままでは剣道が下手になっていく一方。

 「やはり走るしかない」

 9月に入って涼しくなったら、ごくわずかな距離でもいいから走ってみよう。
 そう決意したのは、2019(令和元)年8月のことです。

無理はしない


 9月に入ると、朝夕はめっきり涼しくなって過ごしやすくなった。
 仕事から帰って日没を待って走ることにした。夜に走るのは暑さ対策ももちろんですが、一番の問題は紫外線。

 抗がん剤の影響で紫外線にあたると皮膚が真っ赤になって"軽いやけど"になってしまうのです。実際に、退院直後に20分ほど散歩した時、12月でしたが日光に当たった部分(顔、首、手の甲)だけが腫れ上がり、後にシミになってしまったのです。
 以来、外出時にはUVローションは必携ですが、日光に当たらないことに越したことはありません。

 そして、もう一つ大事なことは、絶対に無理はしないということ。
 
 「明日もまた走りたいと思うところでやめておこう」

 以前のような限界に挑戦するような走り方はせず、この日の上限は1㎞と決めた。

走り方も忘れてた、でも楽しい!


 すっかり秋の空気に入れ替わったとある夜。
 ランニングシューズに履き替えて、川沿いのランニングコースに出た。

 「走ってみてやっぱりダメだったらどうしよう」

 そんな思いが頭をよぎる。

 ゆっくり走り始めてみる。走法はナンバ。片手刀法には必須の稽古。
 うまく走れない。「ナンバ歩き」は普段やってても、ナンバで走るのは難しい。歩いた方が早いくらいだ。

 いきなりうまく走れなくてもいい。徐々に筋力と走法を取り戻していけばいいのだから。

 やはりキツイ。500mくらいでやめておこう。明日もまた走りたいと思えるように。

 「今オレは、確かに走ってる」


2019年9月1日日曜日

令和元年 千葉県剣道選手権大会に出場!55歳二刀で‼

昨年(平成30年)に続き二度目の出場

令和元年8月31日 千葉県武道館 開会式前の画像
令和元年8月31日 於 千葉県武道館


挑戦はあきらめられない


 2018(平成30)年1月に急性リンパ性白血病の治療を終えて、4月に仕事と剣道を再開。9月に千葉県剣道選手権大会に54歳で初出場しています。(そのときの模様はこちら
 そして今年(令和元年)8月31日、二度目の出場をしました。

 今回の出場は非常に迷いました。というのは、稽古不足が否めないということ。

 前回は、大病から社会復帰できた喜びで、夢中で参戦しました。抗がん剤治療の影響による肺炎で入院していた直後の大会だったにもかかわらず。(その様子はこちら
 あれから一年。今はだいぶ冷静になってきました。それは、どれくらい無理をするとどれくらい体調が悪くなるかが、分かって来たということです。

 現在は、医者から食事や運動の制限は受けていません。しかし、当然ですが以前とは体調が違います。仕事のし過ぎ剣道のし過ぎが、翌日の体調に如実に表れる。疲労の回復に非常に時間がかかるようになってしまったのです。

 白血病の原因は解明されておりませんが、癌の一種ですから過労やストレスが一因であることは想像できます。すると、どうしても稽古量をセーブしなくてはなりません。
 気持ちとしては、大病する以前と同じ稽古量をこなしたいのですが、10分の1程度になってしまっているのが現状です。(以前の一日の稽古メニューはこちら

 この3カ月前に出場した浦安市春季市民剣道大会では個人戦で準優勝していますので(その模様はこちら)、千葉県剣道選手権大会の出場要件は充分に満たしていますから、あとは自分の決断次第。
 となれば、やはり挑戦を回避することはできない。私の性格上、当然この結論になりました。笑

会場入り


 前回は初出場ということで、会場入りするときから勝手が分からず、緊張しっぱなしでした。しかし、今回は心にゆとりを持って千葉県武道館に到着、会場入りできた。

 まずは、受付けを済ませて竹刀計量・検査へ。
 二刀で使用する竹刀の規定は一刀のものとは違うので、検査員の方々に手間をとらせてしまいましたが、提出した大刀二本、小刀二本ともすべて合格。今年度からは、竹刀の規定が新基準に変更されているので、持参した竹刀がすべて不合格になっている方も見受けられました。

 開会式が始まるまでは時間がありますので、ゆっくり着替えて準備運動とアップ。
 しかし、前回に続いて今回も浦安市からのエントリーは私一人なので、心細いのなんのって…。早く試合が始まってくれないかなぁと思いました。苦笑

試合開始


 一回戦、私は第二試合場の13試合目。落ち着いてゆっくり準備する間に、いよいよ私の番が来ました。
 立礼から二刀を抜刀して蹲踞の姿勢になった。お相手の面金(めんがね)の奥の顔が見える。分かっていたことですが、私よりもはるかに若い、と改めて思ってしまう。
 この大会は全日本剣道選手権大会の千葉県予選も兼ねているので、出場者は20代~30代がほとんど。50代なんてほとんどいません。今回も私が最年長だったようです。

 「はじめっ」の号令で立ち上がって、すかさず攻め込む。前回、お相手の若さと瞬発力を警戒するあまり攻め切れなっかった反省から、思い切って攻める。

 足さばきは"歩み足"。これは古流の基本。年齢を重ねると"送り足"では攻め込みが遅くなる。陰陽の足が絶えず切り替わる"歩み足"での攻めには、お相手も対応を躊躇していると見えて、前に出てこない。(歩み足についてはこちら

 下がるお相手を追いかける場面が多くなる。そんな状況の中でも、虚(きょ)をついてお相手が反撃に出てくる刹那、その手元が一瞬上がるのが見える。
 そこを「小手」か「面」でとらえたいところだが、なかなか決まらない。前年も感じたことですが、この大会に出場するレベルの選手たちは動作の"起こり"が非常に判りずらい。いわゆる"色"を出さないから、機をとらえるのが非常に難しいのです。

 攻めてはいるが、キメめられない。

 時間だけが過ぎていく感じでした。
 そして、試合時間の5分を告げる合図。両者有効打突がないまま、延長戦に入った。

 下がるお相手を攻め込んで、機を見て打突したつもりが、さらに間合いを切られてしまう。ならば、誘ってお相手が出てきたところを仕留めようと足を止めた瞬間、お相手の竹刀が私の面をとらえていました。

 「面あり」

 審判の声。
 完敗です。お相手はそこを狙っていたんですね。
 ただ一瞬の機会を逃さない、その技量に納得の負けです。
 

試合を終えて


 前年の反省をふまえて、足を遣って攻め込み、お相手の構えを崩して手元を上げさせたところまではよかったのですが、一本を取る打突にならない。機を正確にとらえていないんですね。
 最後はくしくも前年の試合と同じ技で負けました。お相手の技を誘ったつもりが居付いてしまったのです。
 この辺をしっかり稽古していかなければなりませんね。

 一方で、心は晴れ晴れとしていました。
 前年のこの大会では、最後は体力がなく力尽きたという感じでしたが、今回は体力的にはまだいける状態。
 この一年間、稽古量をセーブしていたため、体力が回復していないんじゃないかな、なんて思い込んでいました。しかし、わずかですが体力の回復が実感できた。
 これは、大きな自信になりました。そして、出場してよかったと思いましたね。

 生きる喜び、再び剣道ができることへの感謝、改めて胸に刻みました。
 来年、またこの場所に立てるよう、"老体"にムチ打って稽古します。笑
 

2019年6月25日火曜日

平成30年 市川市民剣道大会 部門別3位 恩師の笑顔

大病から復帰して初めての市川の試合


新しい部門別


 この年(2018、平成30年)は、急性リンパ性白血病を克服して4月に復帰。(闘病の様子はこちらから)
 5月には、浦安市春季市民剣道大会に出場し部門別優勝を果たし(その模様はこちら)、9月には千葉県剣道選手権大会に出場している(その模様は、こちら)。

 そして、約300名が参加する10月の市川市民剣道大会。
 これまでは、個人戦は段位と年齢で9部門に分かれていましたが、複雑すぎるということで今回からは年代別に変更された。
 私は以前は「四、五段40歳以上の部」という部門でしたが、今回からは、「50歳代の部」ということになりました。(この時、私は54歳で四段でした)
 年齢的には近い方と対戦することになってよかったのですが、この部門の特徴は元気な高段者が多いということ。厳しい戦いとなりそうです。

会場入り


 会場に到着すると、たくさんの方々から声をかけていただき、大病から復帰したことを喜んでいただいた。
 その輪の中心にいた私を見つけて、満面の笑みでこちらに向かってくる方の姿が見えた。この時、市川市剣道連盟の会長だったTKHS先生だ。
 この方は、8年ほど前に私が初めて市川市の合同稽古に参加させていただいた時から、大変お世話になった先生。二刀遣いである私が市川市の稽古に参加しやすいように、配慮をしてくださった方です。そのおかげで今ではこうしてたくさんの方々と、市川で交剣させていただけるようになった。
 この日も、剣道を再開した私の姿を見て大変喜んでくださり、激励してくださいました。本当に心優しい、ありがたい先生です。

試合開始


 一、二回戦のお相手は、いずれも五段の方だったと思います。
 最初は試合のペースがつかめず、タイミングが合いませんでしたが、徐々に身体が動くようになり、有効打突がでるようになってきた。

 三回戦まで進み、試合場に入ると、対戦相手はもう待っていました。

 その対戦相手とは、中学高校の同級生で剣道部でも一緒だったJ君。
 彼も高校卒業以来剣道から離れていたそうですが、20年ほど前に"リバ剣"して、現在はもう剣道七段。
 面白い試合になりそうです。なんといっても、二人が対戦するのはほぼ40年ぶり。中学3年の時の部内戦が最後だったと思います。 

 お互いに年齢を重ねても、またこうやって対戦できるのは剣道ならでは。なにか時間が巻き戻ったような、照れくさいような、そんな気持ちでコート内に入った。
 しかし、互いに立礼から抜刀した時には、もう試合モード全開。旧友との対戦が始まりました。

 40年前と違ところは私が二刀であること。J君は中段の構えを変化させて、平正眼に構えた。
 正二刀に対しては、一刀者は「平正眼」に構えることがセオリーといえるでしょう。
 また、逆二刀に対しては、一刀者は「霞の構え」を執ることがセオリーとなると思います。
 
 平正眼は中段(正眼)の構えを変化させて、切っ先を中心から大きく右にはずして構えます。自分の「右小手」を防御しているような形になります。
 正二刀に対してこの構えを執る理由は、まず小刀で剣先を押さえられないようにするためでしょう。それと同時に「小手」の防御もできますし、構えた竹刀の位置を高くすれば「面」の防御も容易です。

 私は、そこを狙いました。「面」を防御した時を。
 防御に優れた平正眼に対してそのまま打っていっても、なかなか一本になるものではありません。
 どの構えでも立合いで大事なことは、相手の構えを崩すこと。
 平正眼の構えが崩れた状態とは、「面」を防御しようと手元を上げた瞬間です。この時に、右小手がガラ空きになり、打ちやすい位置にくる。

 しかし、そう思うようにはいきません。剣道七段ともなれば対二刀も慣れたもので、なかなか手元を上げてくれない。
 J君は高身長で180cmは優に超える。だから「面」が非常に遠く感じるのです。
 しかし、ここで「小手」に執着していては有効打突がとれないと思い、思い切って歩み足で攻め込んだ。そこで「面」を打とうかという時に、J君の手元が上がったのです。
 その刹那に私の体が反応して、大刀で「小手」をとらえてました。

 「小手あり」と主審の号令。その後すぐ、試合時間の終了の合図があり、一本勝ちに。
 40年ぶりの対戦は、辛くも制すことができた。

準決勝


 私の中ではJ君との対戦で、ひと山越えた気持ちになってました。
 続くお相手は、こちらも剣道七段の方。稽古では、たびたび交剣させていただいています。
 だから手の内は分かっている、これが慢心ですね。

 立合いが始まって、予想に反して技が決まらない。こんなはずじゃない、なんて思いながら、あせりだしてしまった。

 いつものように、先(せん)をとって「面」で仕留めようと、安易に打って出てしまった。
 お相手は、その"出ばな"をとらえたんですね。「面」を打たれたのは、私の方でした。ぐうの音もでないほどの、素晴らしい一本。参りました。

恩師の笑顔


 結果は、個人戦「50歳代の部」で3位。
 剣友の皆さんは、病み上がりでよくここまで戦ったと、ねぎらってくれましたが、悔いの残る試合になってしまいました。
 病み上がりと"慢心"は関係ありませんからね。しっかり、稽古し直します。

 そんな中、大会役員席から、私の立会いをずっとご覧になっていた方がいました。
 中学時代の剣道部の顧問だったTMI先生です。この時は、市川市剣道連盟の副会長になられていました。

 「見てたよ」

 表彰式の前に、満面の笑みを浮かべて声をかけてくださった。よく白血病を克服して戻って来てくれたと。
 そしてJ君と私は、恩師の前で同門対決をしていたのです。
 これには恩師も大変喜んでくださった。40年もたってご自分の教え子同士が立合うところが観れるんですから。感慨もひとしおだったんじゃないでしょうか。

 先生が、最も手を焼いた生徒ですからね、二人とも。笑

 (恩師とJ君に関する過去の記述はこちら

 
追記
 この半年後に出場した試合の模様は、すでに記事にしております。
 令和元年 浦安市春季市民剣道大会の模様はこちら

2019年6月23日日曜日

平成30年 浦安市春季市民剣道大会 白血病を克服して、復帰戦は優勝!

一年間の治療を終えて大復活


帰って来た「リバ剣おやじ」


 2018(平成30)年5月。浦安市春季市民剣道大会(個人戦)に出場しました。
 この1年前の2017(平成29)年4月、急性リンパ性白血病と診断され、入院。(その様子はこちらから)
 8カ月間の抗がん剤治療と1カ月間の放射線治療を受け、この年の4月に仕事と剣道に奇跡的に復帰。
 その1か月後に、市民大会出場となった。この時、54歳。

 実は、復帰した直後に市民大会があったから、出場したのではないのです。
 この大会に出場することを決意して、それに間に合うように復帰したのです。
 本当は、もっと自宅療養をした方が良かったのかもしれません。
 しかし、仕事も剣道も早く再開したくて、自分で期限を切ってリハビリしてました。

 この半年前に退院して、強力な抗がん剤の影響で低下した体力を元に戻すため、歩くことから始めました。
 "歩くことから"と言っても、実際にはそれしかできませんでした。
 走ったり、素振りや打ち込みもやってみたりしましたが、とても続けられるような状態じゃない。
 数カ月すれば、徐々に体力が戻ってくるものだと思っていましたが、そういうものではありませんでした。

 白血病は骨髄の癌ですが、特に急性白血病の場合は診断された時点で、普通の癌でいえばステージ4の末期なのだそうです。
 その状態から一気に全身の骨髄の癌を消滅させるために、致死量にも及ぶ抗がん剤を投与するわけです。残念ながら私が入院中に、同じ病気で亡くなられた方は何人も見てきました。
 幸運にも治療を乗り越えられたとしても、その強い抗がん剤を投与してきた後遺症と戦わなければならない。
 退院後にそういう現実に直面しました。

 体が完全に元の状態に戻るのは、数年後かも知れないし、一生戻らないかも知れない。
 ならば、完全に戻るまでは待っていられない。不完全な体でも、やり始めるしかないと思ったのです、仕事も剣道も。

 幸い私の場合は、今は食事の制限も運動の制限も、医師から受けているものはありません。なので、この大会の出場を目標にして、その前になるべく早く仕事と剣道を再開しようと決意していました。
 そして、実際に復帰できたのが大会の1カ月前となったのです。

試合当日


 1カ月前に復帰して、道場で稽古できたのは数回だけ。
 しかも、体力的には試合に出られるようなものではなかった。会場まで来ただけで、ゼーゼーハーハーという有り様。
 しかし、ご心配をおかけした皆さんに、元気になった姿を見ていただきたい一心で、ここまで来ました。

 会場入りすると、他の道場の皆さんから次々と声をかけていただきました。大病を克服して戻って来たことを喜んでくれた。ありがたさに目頭が熱くなりました。
 
 そんな私に、試練がまち受けていました。
 手渡されたパンフレットのトーナメント表を見て落胆することになるとは。
 一回戦のお相手が、一昨年のこの大会の壮年の部優勝者だったのです。実は、私はその時この方に負けています。しかも今回は病み上がりで、以前よりも条件が悪い。
 もうすっかりあきらめムードになってしまい、「一回戦で負けて早く家に帰って、体を休めなさいということだな」なんて思ってしまいました。

試合開始


 立礼から大小を抜刀して蹲踞。「はじめ」の号令で立ち上がって、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えながら、右足を半歩前に出した。
 足の裏とつま先は、抗がん剤の影響でしびれていて、感覚がない。自分の足が今、どんなふうに床をとらえて接しているのかが、まったく分からない。
 しかも二刀は、片手で竹刀を保持しています。この手に力が入っていない。握力がないのです。
 こんな状態で戦えるのかと、自分でも思いました。

 しかし、状況が違うことに気がついた。攻めて相手を追い詰めているのは、私の方なのです。
 お相手の動きがよく見える。体力には自信がないものの、怖さは感じないのです。

 下がるお相手をさらに攻め込んで、その手元が上がったところを「小手」で仕留めた。
 そして、試合時間が終了し、一本勝ち。

 ちょっと自分でも信じられませんでした。どうしてこんな展開になったんだろうと。
 その後も、トントン拍子で勝ち進んでしまい、終わってみれば壮年の部で優勝していました。

壮年の部で優勝、そして総合の決勝へ


 部門別のトーナメントが終わると、最後は総合の決勝に。
 私のお相手は、青年の部で優勝した20代の強豪校剣道部コーチ。

 こんな体の状態で、ケガをしないで帰れるのかと思いましたよ。
 健康だった時も、現役選手とやる時は、少なからずそう思ってましたから、この状態ではなおさらです。
 しかし、逃げるわけにはいきませんから、腹をくくりました。

 試合が始まりました。
 私は、前に出て自分から打突の機会をつくることだけ考えた。そうすれば、あとは自然と体が動くだろうと。待っていては、現役選手のスピードに対応できませんからね。

 そんな中、互いに打突して体が接触した時に、私が大刀を落としてしまった。
 これで、反則1回。あと一つ反則を取られれば、お相手に一本がついてしまう。
 やはり、握力がないんです。こんなことで、竹刀を落とすなんて。

 ちょっと弱気になりかけましたが、気持ちを強く持ち直しました。
 そして、一足一刀の間合いから、さらに後ろにあった左足を一歩前に出しながら攻め込むと、お相手の動作の"起こり"が見えた。
 その瞬間、私の大刀の重心はお相手の竹刀の裏鎬(うらしのぎ)まで到達していました。そこから自分でも信じられないような力で、振り下ろした。

 「小手あり」

 審判の声が聞こえた。
 なんと先制したのは私。充分な手応えもありました。

 しかし、このあとがいけなかった。
 お相手は、このあと明らかに戦い方を変えてきた。このままでは分がないと思ったのでしょう。鍔迫り合いから体当たりを仕掛けて、私がバランスを崩したところを「引き胴」。これが一本になって、勝負に。

 私の体力が限界に達し、集中力を欠いたところを、竹刀で大刀をたたき落とされて反則に。
 先ほどの反則と合わせて、お相手に一本が入り、勝負あり。
 試合終了となった。

試合を終えて


 悔しさはありませんでした。 
 体力の限界までやりましたから。よくここまで出来たなと。
 「竹刀落とし」と「引き技」。総合の決勝では過去に何度もこれでやられているので、観ていた方たちにはどう映ったのかなぁなんて、心配になりましたけど……。

 閉会式を終えて着替えようとしていると、青年の部で準優勝された方が、声をかけてきた。
 「総合の決勝で"小手"を先制した時、会場からものすごい歓声が上がってましたよ。感動しました」
 観ていた皆さんがそういう反応をされていたのは、驚くとともに本当にうれしいことです。

 また、総合の決勝で主審をされていた先生は、「本当に、白血病で入院していたの?」っておっしゃってました。笑

 そして、大会役員席にいた審判長(剣道八段)も、周囲の先生方と私のあの「小手打ち」を話題にして、盛り上がっていました。二刀の「出小手」はどうやって打っているのだろうと。
 その輪の中に、身振り手振りでそれを再現しながら、笑顔でレクチャーする方がいました。この前々年の秋季大会で、私のチームが団体戦三連覇し、総合優勝までした大会の懇親会で、一人だけ笑顔のなかったあの先生です。市剣連のアンチ二刀、最後のお一人。(その様子はこちら

 しかし、もう"アンチ"ではないようです。帰り際に私に対して、「どうもありがとうございました」とあいさつしてくださった、満面の笑みで。
 正しい二刀をやっていけば、必ず伝わると信じてやってきましたが、こんなにも早く、皆さんに理解していただけるとは思っていませんでした。
 
 しかし、気の緩みは禁物。今後も見られ続けられますから、さらに精進しなければなりません。
 再び、剣道ができる喜びをかみしめながら。


追記
 この4カ月後の試合については、すでに記事を投稿しております。
 平成30年 千葉県剣道選手権大会出場の模様はこちら
 

2019年6月19日水曜日

平成29年 第16回剣正会オープン剣道大会 体調不良は大病の初期症状だった

大好きなはずの試合が楽しくない


極度の眠気とだるさ


 2017(平成29)年1月。第16回剣正会オープン剣道大会に出場させて頂きました。
 この大会は、この3年前に初めて参加させて頂き、その時団体戦で3位に入賞しています。(その模様はこちら

 この時も3位になった時と同じメンバーでチームを作って参戦。
 当日は、一番に会場入りして準備する気合の入れようでした。
 
 しかし、気持ちとは裏腹に体調が今一つ。
 思えば半年ほど前から、極度の眠気が続いている。最近は体がだるく疲れが取れない感じ。
 これから試合だというのに、ワクワクしない。
 開会式が始まったころには、「一回戦で負けて、早く家に帰りたい」なんて考えるようになっていました。

予選リーグ敗退


 3人制の団体戦で、私は大将。前二人は同じ道場の若手。予選リーグが始まりました。
 なぜか不運は重なるもので、この日はポイントゲッターの先鋒が、絶不調で負けが先行。
 中堅はウオーミングアップ中に、右足の甲を痛めて試合にならない。(後の診察で、骨折と診断)
 私も元気がなく、引き分けが精いっぱい。
 あっけなく予選敗退しました。

 「ああ、よかった」

 この時の私の正直な気持ちです。
 負けてよかったなんて、私が思うこと自体、体に異変がある証拠。
 しかし、この時はそれに気づけなかった。ただの風邪だと思ってしまった。

 午後からの個人戦はキャンセルして、駐車場に止めた車の中で休みながら、若手の試合が終わるのを待つことにしました。

 結局、昼食も取らずに大会終了までそこで爆睡。チームの若手に起こされて帰宅しましたが、その後、この体調不良は決定的なものになりました。

 自分の人生で、こんなことに直面することになるとは。
 予想なんかできませんよね。
 リバ剣して7年。52歳の冬のことです。


 急性リンパ性白血病と診断される経緯、入院、治療の記述はこちらから。
 
  

2019年6月18日火曜日

平成28年浦安市秋季市民剣道大会 初の総合優勝!

団体戦、壮年の部は3連覇


今回から秋季大会も「総合の決勝」を挙行


 2016(平成28)年10月。浦安市秋季市民剣道大会に出場しました。この秋季大会は3人制の団体戦のみ開催されます。
 この前年は、この大会で壮年の部連覇を達成しております。(平成27年大会の模様はこちら

 なお、今回は部門別のトーナメントだけでなく、その優勝者が「総合の決勝」を行なうことになったらしい。
 春に開催される春季大会(こちらは個人戦のみ)では、総合の決勝が行なわれています。なので、以前から秋季大会の団体戦も「総合の決勝を」という声は上がっておりました。
 今回、ようやくそれが実現したかたちになりました。

今回も同じメンバーで


 メンバーは不動のおやじチーム。今回も、壮年の部に出場のチームの中で、平均段位が最も低いチームでした。笑
 
 先鋒は40代半ばの逆二刀者。三段。
 中堅は私でこの時52歳。正二刀。四段。
 大将は還暦すぎたおじさんで一刀中段。三段。

 私が声をかけて結成したチームですが、こんなに注目を浴びることになるとは思いませんでした。
 この大会で、同一チームが連覇したのは初めてのことですし、メンバー一人ひとりが個人戦で優勝経験があるのですから。お相手にしてみれば、いやーなチームでしょうね。私だったらやりたくありません。笑

 しかし、市内のライバル道場の皆さんは、今回もメンバーを組み替え、新チームを作って参戦してきている。気を引き締めなければなりません。

壮年の部


 試合が始まって出だしは順調。
 しかし、2回戦でちょっとヒヤリとしたことがありました。

 その2回戦の私のお相手は、以前、春季大会の個人戦で対戦し、私が負けたことのあるお相手。今回はリベンジするチャンスと思い、試合に臨みました。
 以前の対戦で負けた時は、大刀側の拳(こぶし)を打たれて一本を取られています。(拳は打突部位ではありませんので、厳密には誤審)

 今回はそういう負け方はしたくないと思い、積極的に自分から攻めていった。そして、私が大刀で面にいったところを、お相手は竹刀で受けて胴を打ってきた。「面返し胴」です。
 二刀者は大刀で面を打ちにいった場合、小刀が自分の胴の前にありますので、自然に胴を防御しているかたちになる。
 この時も、お相手の胴打ちは、私の小刀に当たっただけ。しかし、その時の音が胴を打った音のように聞こえてしまったんですね、審判の方に。それで、一本になってしまった。今回も誤審……。

 先鋒は勝っていますが、これで私が負ければ大将戦にもつれ込んでしまう。こんな負け方だけはしたくないと思い、急にあせり始めてしまった。
 このお相手の方は、本当に隙がない。試合時間もあとわずかだと思われる。
 このままでは、一本負けになると歩み足で思い切って攻め込んだ。
 お相手の手元が上がったのが見えた時、そこをめがけて大刀を振り下ろしていました。

 「小手あり」

 審判の声が聞こえました。本当にホッとした。
 その後すぐに試合時間の終了の合図があり、引き分け。
 大将も引き分けて、チームは勝ち上がることができた。しかし、一歩間違えれば、危ない展開になるところでした。

 その後もチームワークよく勝ち進み、決勝戦に。
 この対戦も、先鋒の逆二刀者が勝ち。
 私は、お相手を崩しきれず、機をつかめないまま引き分け。
 大将も引き分けて、壮年の部の優勝を決めた。

 今回は、私は引き分けが多かった。いまいち調子に乗れなかった感じ。振り返ってみれば、機を逃した場面が、多々あったと反省しきり。
 しかし結果は、3連覇達成。本当にうれしかった。

総合の決勝


 壮年の部3連覇の喜びもつかの間、総合の決勝が始まるとの場内アナウンスがあった。
 前年までは、部門別のみの団体戦でしたが、この年は青年の部の優勝チームとの「総合の決勝」をやるという。

 普通は嫌がると思います、おやじチームは。若い人とやってもどうせ負けるからやだ、って言うんじゃないでしょうか。
 しかし、私たちおやじチームの先鋒と大将はやる気満々なんです。それを見て、私はおかしくて笑っちゃいました。まあ、私もやる気満々だったんですけどね。笑

 対戦相手は、青年の部の決勝で、30代の強豪大学OBチームを破った現役大学生チーム。
 この大会では、初めての試みである団体戦総合の決勝。会場にいる誰もが固唾をのんで、試合開始を待っています。

 対戦チームのオーダーを見ると、先鋒に最も強い選手を据えている。勝ち点を先行させようとする作戦。3人制の団体戦ではよく使われる手法です。
 一方、私たちおやじチームは単なる年齢順。そういった駆け引きはナシ。
 試合が始まりました。

 お相手チームは強豪校の現役剣道部員。瞬殺だけは避けたいところ。
 会場にいる誰もが、青年の部優勝チーム優勢を疑わなかったのではないでしょうか。
 
 先鋒戦。
 足さばき、打突、身のこなし、何をとってもこれまでのお相手とは、速さが違う。
 しかも、逆二刀を相手に防御も完璧。さすがに、現役選手は順応が早い。大刀側の小手を執拗に狙ってきている。
 おやじチームの逆二刀者はよくしのいで、引き分けに持ち込んだ。
 まずは、先鋒で勝ち点を先取するというお相手チームの思惑は、阻止することができた。
 
 中堅戦。
 ここで私が勝ち点を取って、優位に試合を進めたいところ。大将は、年齢差があり過ぎますから。大将に勝敗をゆだねる展開にはしたくない。
 しかし、試合が始まってみると、お相手は私と勝負してこない。引き分けに持ち込んで、大将戦で決着させようという作戦です。
 こういう戦い方は、壮年の部ではやる方はいません。やはり現役選手は勝ち負けにシビアですね。どん欲に総合優勝を狙ってる。
 のらりくらりとかわすお相手を攻めきれず、引き分けになってしまった。
 
 大将戦。
 試合を見ているほとんどの人が、おやじチームには分がない、と思ったんじゃないでしょうか。
 私もそう思いました。ああ、これで終わりだと。
 しかしね、我がおやじチームの大将、打たれないんですよ。ホントに。
 危ない場面は何度かありましたけど、負けないんですよ、打たれないから。
 なんと、引き分けに持ち込んじゃった。
 これは、観ていて驚きました。最低段位のおやじチームが、青年の部の優勝チーム相手に、代表戦ですって。
 場内からは、歓声とどよめきが起こった。

 代表戦。
 試合を終えた大将が戻ってきて、代表に指名したのは私。
 この日は、調子が今一つでしたが、そんなことは言っていられない状況。
 お相手チームの代表は、思った通り先鋒の選手。
 試合が始まりました。

 代表戦は、一本勝負です。体力のことを考えれば、早く決着をつけたい。歩み足でどんどん攻め込みました。
 お相手は、近間(ちかま)を嫌って間合いをとりたがっている。小刀で竹刀を押さえられるのを、警戒しているようだ。

 お互いに決まり手がなく、試合時間は、10分を超えていたと思います。いつもなら、私はとっくに息が上がっているはずですが、この時は少しも疲れを感じません。
 気迫は充実したまま。心は非常に冷静でした。

 お相手とは、互いに「出ばな」を取り合って、相面になる場面が何度もあった。
 「これは、ちょっと危険だな。ヘタをすると一本をとられてしまうかもしれない」と、弱気になりかけた時が一瞬あった。
 しかし私は、相面になった時のお相手の竹刀が、正中線からわずかにはずれていることに気づいていた。

 「やっぱり、相面で仕留めよう」

 そう決意した直後、石火の機に相面になった。正中線を制して「正面」をとらえたのは、私の大刀でした。
 審判の旗が3本上がると同時に、ものすごい歓声が場内に響く。

 ついに勝った。総合の決勝。しかも代表戦で。
 観客はみんな大喜び。中でも一番喜んでいたのは、大会役員席の先生方でした。笑

懇親会


 大会後の懇親会も大盛り上がり。
 選手の私たちより、観ていたおじさん剣士たちが喜んでくれて、大騒ぎ。
 本当にうれしかった。皆さんがこんなに応援してくれ、優勝を喜んでくれるとは思いませんでした。

 部門別で3連覇して、今回は総合優勝も。
 おやじ3人で勝ち取った偉業です。
 こんなことが起こるんですね。剣道って本当に面白い!
 リバ剣して7年目の出来事です。


追記
 この懇親会で、一人だけ笑顔のない先生がいました。
 この方は、市の剣連に"アンチ二刀"が3人いたうちの、最後の一人。(そのアンチっぷりはこちら
 "アンチ"だからといって笑顔がなかったわけじゃないんです。この時、仕事上の重大なトラブルを抱えていたそうで、元気がなかったのです。
 この方は大会役員ですから、一応、優勝者としてお席までご挨拶にうかがった。
 すると、小さな声でお礼の返事をいただきましたが、心痛な面持ちでしたね。

 この2年後に、アンチ二刀ではなくなったこの方の笑顔に、出会うことになります。


2019年6月17日月曜日

剣道 克服すべきは反発の原理

稽古の目的は「反発の解除」


日常の動作は、反発に満ちている


 「何ものかに反発している場合、人はそれを知ることはできない」

 その通りだと思う。

 私たちは歩くとき、動かない地面を支えにして、踵(かかと)を上げながらその地面を足の裏で蹴って前へ進む。地面を蹴るという"反動"で前へ進んでいる。

 また、テレビで野球中継を観ていると、バッターがウェイティングサークルで重いバットで素振りをしている光景をよく目にする。これは、重いものを振って、バットの重みを力でねじ伏せ、軽く感じるようにしているのだろう。つまり、重さに対して"反発"しているのだ。

 このような反発の習性は、日常のいたるところに見られます。
 剣道は、この習性から、可能な限り自由になろうとするものです。

解除しなければならない4つの反発


  1.  <地面に反発>
     反発しない歩き方とは「ナンバ歩き」。(ナンバの足法については、こちら
     古来、日本人がワラジや草履をはいて歩く時の歩き方。日本の武術はこの身体運用法を前提としているといってよい。これができるようになれば、左足で床を"蹴って飛ぶ"必要がなくなる。踏み込む前の溜がなくなる。
  2.  <胴体に反発>
     この反発を解除するには、竹刀の柄をを小指と薬指で軽く握り締めること。小指から脇の下につながる筋肉(これを下筋と呼びます)が締まり、腕の動きと胴体は反発しない。
     わしづかみにすれば、体と剣はバラバラになり、互いに反発し合う。
  3.  <太刀の重さに反発>
     竹刀の重さに反発したり、力でねじ伏せるような操作はしない。竹刀の重心を意識した操作をすることによって、重さを引き出して(利用して)振ることができる。(片手刀法の重心に関する記述はこちら
     諸手一刀中段に構えた場合は、竹刀の重心を頭の上に引き上げて振りかぶらない。振り上げた竹刀の重心の下に、右足を踏み出して体を入れる。体を一歩前へ出して、振り上げた竹刀の重心の下に入るようにする。
     前者は、重心のベクトルが後方に向かってしまう。後者は、ベクトルが前方に向いたまま。前方にいる相手を斬るという、体のベクトルと一致する。
     竹刀の重量と重心の方向を感じ取っていれば、その重量が移動する動きに腕が加勢するように振ることができる。 
  4.  <相手の動きに反発>
     力まかせに打ったり、独りよがりに技を出さない。相手の力を利用し、拍子をつかみ、相手を引き出す。相手を敵ではなく、あたかも理合を体現するための協力者のように動かすことが肝要。

兵法の身なり


 宮本武蔵は『五輪書』の中で、以上のような、反発の原理を克服しうる身体運用のあり方を、「兵法の身なり」という言葉で解説しています。

 作用と反作用の中で動く身体の習性は、なぜ消し去らなくてはならないのでしょうか。
 この習性に従っていればどうなるか。

  •  体に無駄な負担をかける。
  •  動く気配が事前に出る。
  •  拍子が遅れる。

 剣道では致命的といわれる特徴が、表れてしまいます。
 しかし、こういったことは、一挙に解消できるのです。

 大事なことは、こうした反発の原理を克服すること。
 この反発の原理を解除し、ある意味の自由をつかんだところに、「理」の体現があるのではないでしょうか。

 それとは逆の、反発を強化するような練習やトレーニングはすぐに限界がくる。誰もが自身の身をもって経験したことではないでしょうか。

兵法の身を常の身とする


 常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事肝要也。(『五輪書』「水之巻」)

 これも、武蔵が繰り返し説くところです。

 「日常の最もありふれた動作を深く変更して、作用と反作用の対立から解き放たれた身体の、新たな自由を得るのだ」と、武蔵は言っているのです。

 では、どうすればその自由を得ることができるのでしょうか。

 これも武蔵がはっきり言い残しています。

 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」
 
 近道はないようです。
 武蔵がそこに無愛想に立っているようですね。


2019年6月16日日曜日

平成27年市川市民剣道大会 打たれて感謝!感動的な一本‼

昇段して出場部門変更


四、五段40歳以上の部


 2015(平成27)年10月。市川市民剣道大会の個人戦に出場しました。

 この大会は、2012(平成24)年と2013(平成25)年に部門別で連覇しています。(平成24年大会の模様はこちら。平成25年大会の模様はこちら
 その時は、「三段以下45歳以上の部」という部門。大人になってから剣道を始めた方と、私のような"リバ剣"組が多い部門でした。

 今回は、この年の8月に四段に昇段しておりますので、「四、五段40歳以上の部」への出場となりました。(四段審査の記述はこちら
 この時私は51歳。この部門ですと10歳も若い方と当たる可能性がありますし、長くこの部門に出続けている年配の方もいらっしゃる。
 初めて出場する部門ということで、様子がまったく分からず、ちょっと不安でした。
 

試合開始


 「四、五段40歳以上の部」の出場者の方々を見ると、以前の部門の出場者の方々と比較して、体格が大きく見える。気のせいかも知れないが、日頃の鍛錬の違いだと思うと、いっそう不安な気持ちになる。笑
 トーナメント表を見ても、誰も過去に対戦したことがある方はいない。
 いよいよ試合が始まりました。

 以前の「三段以下45歳以上の部」では、試合コート内を中段に構えて、右に左に動き回る方が多かったのですが、この部門になると、もうそういう方はいませんね。
 奇をてらって打ち込んでくるようなことはせず、理合(りあい)のある技を出している。大人の剣道の試合らしくなってきました。

 私は自分でも以外でしたが順調に勝ち進み、準決勝まで駒を進めました。

準決勝のお相手


 準決勝のお相手は、年齢がなんと70歳ぐらいと思われる方。
 この市民剣道大会は出場者が約300名いますが、その中でも最高齢だと思います。
 その方が、この部門にいるのです。

 この方は、剣道五段ですが、実力的にはもうとっくに七段以上になっていなけれはおかしい人。
 実際に、どんな若手現役選手もこの方に相対したら子供同然。自分の思う通りの剣道なんてさせてもらえません。ご自分より段位が上の七段の方々も、コテンパンに打ちのめしてしまうのです。
 ちょっとこういう方は、見たことがありません。気迫と体力が半端じゃない。

 信念があって六段以上の審査は受けないそうですが、市の剣連ではある意味、非常に恐れられた存在です。
 しかし、出稽古先でお会いしたりすると、笑顔で声をかけてくださり、素晴らしい人格者でもあります。

 そんなお方が、今、私の前に立ちはだかっているのです。

心を打たれた一本


 試合が始まって意表を突かれた形になった。
 私はこの方とは、出稽古先で何度も稽古をお願いしていて、手の内も解っていたつもり。攻略する自信もあったんですが、なんとお相手は諸手左上段に構えている。
 普段は中段の構えで稽古している方です。上段に構えているところなど見たことがありません。二刀対策としての「上段の構え」のようなのです。

 しかし実際には、二刀は特に「上段」を苦にするということはありません。どちらかと言えば、対上段は得意な方でしたので、好都合だと思った。
 それが間違いでした。

 諸手左上段の左右の小手は、上下太刀に構えた二刀からしてみれば、大刀で非常に打ちやすい位置にあります。それを簡単に仕留められると思ってた。
 私は機をみて上段に構えたお相手の「右小手」を打ちにいった。同時にその出ばなをとらえたお相手が「面」にきた。
 お互いに打ち損じました。しかし、審判の旗はお相手の方に上がっていたのです。
 
 この時は、まだ落ち着いていました。充分取り返すことができるだろうと。
 機を見たつもりが、逆に出ばなをとらえられたことを教訓に、しっかり居付かせるか崩すかして打とうと思った。
 その通りにお相手が居付いたところを、もう一度「右小手」。今度は一本。

 これで勝負に。もう一本取った方が決勝進出となる。

 しかし、ここからがお互いに攻め崩せなくなって決まり手がなく、延長戦に入った。
 試合時間は20分を優に越している。
 左右の小手打ちは読まれて打つ手がなくなり、私はこう決断した。

 「相面(あいめん)で仕留めよう」

 お相手は終始一貫、私の「面」だけをとりにきている。そこに私の弱点があるとみて、そこだけを狙っているようだ。
 ならば、こちらもその面に合わせて、得意の「相面」で仕留めようと決意した。

 お相手は諸手左上段、私は正二刀の上下太刀。お互いの気勢が充実しきって、もう後戻りすることが出来ない"石火の機"に、渾身の「出ばな面」を打った。
 この"石火の機"にお相手が打ったのは、私の「右小手」。大刀を持った方の「小手」です。「出小手」が決まったのです。観覧席からは、「オォーッ」という歓声が上がりました。

 お相手は、これを待っていたんですね。私が「相面」が得意なのを知っていた。その機会をひたすら待っていたんですね。
 そうとは知らずに、機をとらえて「相面」にいったつもりでしたが、動かされたのは私の方だったんです。そこを見事に「出小手」で仕留められてしまった。

 完敗でした。これ以上の素晴らしい一本は、打たれたことがありません。
 試合中にもかかわらず、「参りました」と言ってしまいました。
 "心を打つ一本"とは、こういうことなんですね。

 「四、五段40歳以上の部」の初参戦は3位に終わりましたが、忘れることのできない大会になりました。

 剣道は「活人剣」。胸に刻みます。
 

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