2019年4月21日日曜日

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)② 34年ぶりに出身道場へ

「剣道」と出会った場所


リバ剣の二刀者は受け入れられるか


 前回の投稿では、リバ剣して最初の段審査の会場で再会したTNK先生の"教え"について書かせて頂きました。
 再会した時に、「二刀をやっているなら"東部"へ来てください」と声をかけて頂いた。(その時の経緯はこちら

 これはうれしかったですね。あの"怖い"TNK先生が満面の笑みで「古巣」に来るように促してくださった。

 正直、迷っていたのです。いつ市川東部に行こうかと。
 古巣といえども、今、どのような状況になっているかどうか分からない。少子化の影響で消滅している道場もあると聞きます。
 現在も同じ場所(中山小学校体育館)でやっているのか。主たる運営者は誰なのか。私のことを知る人が現在もいるのか。HPもないようなので、情報がまったくない。

 私が市川東部に在籍していたのは小学6年まで。中学からは部活で剣道をやっていました。(当時の市川東部〔旧中山剣友会〕の様子はこちら
 ですから、市川東部に行くとすれば34年ぶりになります。はたして、剣道再開したので二刀で稽古させてくださいなんて言って、受け入れてもらえるのだろうか。それがとても不安でした。

 しかし、TNK先生から声をかけて頂いたことによって、それは“取り越し苦労”になりました。

まずはご挨拶へ


 「ああ、あの頃のままだ」

 2010(平成22)年晩夏。
 とある土曜日の夜、市川市立中山小学校体育館前に着いた。
 34年ぶり。外観は何も変わっていない。窓からは明かりが漏れ、剣道の稽古をする子供たちの気合が聞こえる。

 懐かしいというよりは、何かせつないような、ほろ苦いような……。
 嫌な思い出があるわけでもないのに、胸が締め付けられるような……。
 夢が詰まり過ぎているんでしょうね、この道場には。

 冷房の設備はないようで、暑さのため出入り口の扉が開け放しになっている。
 中をのぞいて見ると、小学生が10名弱、指導している大人が2人。

 やはり少子化の影響か。週末のわりには人が少なすぎる。
 私が子供の頃、週末ともなればこの体育館には、入り切れないほどの人が集まり、活気に満ちあふれていました。

 指導をしている大人2人の「垂ネーム」に目をやると、1人は私と同時期にここで稽古をし、試合にも一緒に出場していた方だ。一つ年上のOIKW先輩。お互い年を取りましたが面影がある。

 「やはり剣道を継続されていたんだな」

 安心しました。OIKW先輩なら必ず私のことを覚えているはず。小学生の頃は、いつも私の面倒を見て下さる優しい先輩でした。

 小学生の稽古が終了したところを見計らって、一礼して道場の中へ。
 お2人のもとへ挨拶に向かった。

 「○○です。大変ご無沙汰しております」と名前を名乗った。
 
 少しの沈黙の後、OIKW先輩が「小学生の時ここにいた○○君?!」と驚いた様子。

 「そうです!」

 この半年ほど前に浦安で剣道を再開したこと、先日の段審査の時にTNK先生にお会いして声をかけて頂いたこと、二刀をやっていることなどを報告した。

 初めてお目にかかるもう1人の指導者の方と、OIKW先輩、お2人とも大変喜んでくださり、翌日の日曜日から稽古に参加することを約束して、道場をあとにしました。


 このことをきっかけに、剣道でご縁があった方々と次々に再会し、数えきれないほどの新たな出会いが、加速していくことになります。

 子供の頃、この道場に詰め込んだたくさんの夢。
 その“夢”を一つ一つ、現実の世界に引き出す時がきた。


2019年4月19日金曜日

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)① TNK先生

TNK先生は“怖い”


剣道で大事なことを教えて頂く


前回の投稿で、2010(平成22)年8月に、リバ剣後初めての段審査を、二刀で受審したことを書きました。
 その会場で、出身道場の恩師TNK先生と34年ぶりに再会した。

 私が小学生の頃、TNK先生は20代後半か30歳ぐらいだったでしょうか。とても怖い先生でした。

 まずは、顔が怖い。(笑) これは説明できません。とにかく怖い。
 そして、剣道が怖い。

 これは、どういうことかというと、正眼に構えた時の剣尖が怖い。剣尖が常に物を言っているのです。
 これは、小学生だった私たちにはとても恐怖で、どう打っていっていいか分からない。子供相手にも関わらず、剣尖を緩めてくれないのです。

 剣尖が怖いから、正面をはずして左右にややずれて打っていったり、体を開いて打ったりする。そうすると、まったく打たせてもらえないんですね。すべてさばかれてしまう。
 どうすればいいか分からず、泣き出してしまう子供が続出でした。
 その頃の私はどうしたかというと、TNK先生のところには並ばない、そういう"対策"をとりました。(笑)

 当時、この道場は小学生が約200名在籍していましたので、一人の元立ちの先生に対して、5~10名ぐらいの子供たちが常に並んでいました。自分の順番が回ってくるまでには時間がかかります。(当時の様子はこちら
 TNK先生のところにまったく並ばないわけにはいきませんので、稽古終了時間の間際になってから並ぶ。そうすると、時間切れで私の前で終わるのです。稽古する意欲はあったと見せられるわけです。
 しかしこれが、うまくいかない時があるんです。思ったよりも早く順番が回ってきて、自分の番になってしまうことがある。それでようやく「もう、やるしかない」と心を決めて、稽古をお願いするわけです。

無言の教え


 私が小学4年生ぐらいだったと思います。ある木曜日の稽古。

 その日は参加者が極端に少なく、小学生は10名ぐらい。元立ちの先生は2名だったでしょうか。その先生のうちのお一人がTNK先生でした。

 基本稽古が終わって地稽古が始まりました。この日はもうTNK先生にかかるしかない。
 意を決してTNK先生の前へ、一番に並んだ。
 稽古が始まって構えると、いつも通り正眼に構えたTNK先生の剣尖が緩んでない。やっぱり怖い。どう打っていっていいか分からない。

 他の先生でしたら、相手が小学4年生ぐらいまででしたら、剣尖を緩めて打たせてくれる。緩めるどころか打突部位を開けてくれる先生もいる。

 TNK先生の剣尖は物を言っているんですね、常に。怖いものですから、中心を取らずに斜めに打っていったり、正中線でとらえずに開いて打ったり、体は残して手先だけで打ったり、自分の考えうる方法で打ってみた。でも、やっぱり打たせてもらえない。すべてさばかれてしまう。

 「もう真正面からまっすぐ打つしかない。どうにでもなれ」

 TNK先生に正対し、正中線を割って思い切って正面を打った。

 初めて打たせてもらえました。
 すべてを捨てて正面から攻め入った時、私の中心に向けられたその切っ先が緩んだ。その刹那を打つことができた瞬間です。
 その後も、真正面から捨て身で打っていくと、次々と打たせてくださる。

 「TNK先生は、これを教えようとしていたんだな」

 言葉は一切なし。剣尖で教えて頂きました。

 いつもは“怖い”面金(めんがね)の奥の顔が、微笑んでいました。

 あれから45年たった今も、ガチンコの相面で相手を仕留める時、思い出すのはTNK先生のこの“無言の教え”です。


※TNK先生は、再会した2010(平成22)年当時は市川市剣道連盟会長。現在(平成31年)は同名誉会長をされております。
 
 

2019年4月18日木曜日

剣道昇段審査② 二刀で二段を受審

リバ剣して最初の段審査


33年ぶり、46歳で


 前回の投稿で、2010(平成22)年の段審査を二刀で受審することを、決意した経緯を書きました。
  
 リバ剣した時は初段。中学1年生で取得したものです。
 今は、中学生は2段まで取得可能ですが、当時は初段まで。高校に入って、いよいよ二段を受審するという時に極度の貧血でドクターストップ。運動は禁止され、剣道継続も断念した。(その経緯はこちら

 あれから30年たって、46歳のオッサンになり、剣道でやり残したことに一つひとつチャレンジし始めた。
 同級生で当時一緒に剣道をしていた仲間や後輩たちは、皆、もう剣道七段です。剣道強豪校に通っていましたので、その後も剣道を継続した者は順当に昇段してました。

 そういった昔の剣道仲間や恩師との再会も夢見ながら、昇段審査の当日を迎えた。

初段から三段までの審査会


 剣道の段審査は、初段から三段の審査会は支部剣連が主催します。
 私が登録している剣連は浦安市ですが、その場合はお隣の市川市で受審することになります。
 
 私は元々は市川市在住でした。結婚を機に浦安に越した。そして、生まれた子供が小1の時に剣道を始めたいと言うので浦安の道場に入会。続いて妻もその道場で剣道を始めた。その後に、私がリバ剣しましたので、私もその道場に通うことになった。そういう経緯があります。

 ですから、子供の頃は市川市で剣道をやっていた。所属していた道場は中山剣友会(現:市川市剣道連盟東部支部)という市川市で最も古い、戦後、市内で最初にできた道場の出身です。(この頃の様子はこちら
 
 なので、昔の剣道仲間や恩師は今も市川市で剣道をやっている。二段の受審で市川市の審査会に出るということは、そういう人たちに私がリバ剣したと表明しに行くようなもの。
 本当はもう少し上達してから、私の二刀を見てもらいたかったんですけどね。浦安でやっていれば"バレない"と思ったんですけど、そうもいきませんでした。笑

 「恥ずかしい剣道はできないな」
 気持ちが引き締まります。

 剣道の段審査は、二刀で受審することも可能です。
 しかし当日、数百名が受審する中、二刀者は私一人でした。当たり前ですね。初段から三段の審査会に、二刀者がいるはずありませんからね。

審査当日


 2010(平成22)年8月。市川市国府台スポーツセンター第一体育館。
 私が子供の頃から初段から三段までの段審査の会場はここ。建物も変わりませんが老朽化は否めません。

 会場に入り、二段受審者の列に並んで受付を済ませた。
 初段と二段の受審者のほとんどが中学生。三段の受審者のほとんどが高校生。
 そこにそれぞれ、それよりも年齢が上の受審者が少数いるという感じ。
 
 二段の受審者で40歳上は、私を含めて4名でした。
 なぜ、年齢が分かるかというと、審査の立会いの組み合わせの順番が、年齢順になっているからです。同年代が3名いただけで、ホッとしました。

 審査会の流れは、まず午前中が実技審査。2名の方と立合います。つまり2回審査されるわけです。
 これに合格すると午後から、形(かた)の審査を受けます。二段受審者は、日本剣道形の一本目から五本目までを演武します。
 これにも合格すると、筆記試験があり最終的な合格発表があります。

審査開始


 審査会場は3つ。二段の受審者は、第三会場。
 実技審査は若年者から順に審査が始まりますので、我々中年者の出番は最後の方。
 昼近くなってようやく順番が来た。

 実技一回目。お相手と向き合い、立礼から大小を抜刀して蹲踞。「はじめ」の号令がかかって立ち上がり、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えた。

 「おぉーっ」という観覧席からのどよめき。

 ただでさえめずらしい二刀流が、二段の審査会場に現れたんですから、驚きますよね。
 観覧席にいた妻にあとで聞いた話ですが、他の2会場の審査員まで(1会場に審査員は5人います)全員が私の立会いを見ていたそうです。

 お相手にしてみれば、災難ですよね。当然、二刀と立合うのは初めてでしょうから。
 まったく間合いの感覚がつかめない様子で、一方的に私が打ち込む展開になりました。
 剣道ですから本当はそれじゃいけないんですけどね。理合がなければダメ。
 まあまだ二段の審査ですから、そこまでの理は要求されてませんけど。

 二回目の実技もほぼ同じ展開に。しかし、終了間際に油断して、見事な「小手抜き面」をいただいてしまった。

 私の二刀がどう評価されたのか。どちらに転んでも、やるべきことはやったので、スッキリした気持ちでした。

 最年長者の立会いが終わって、すぐに結果発表。

 実技は合格していました。

形(かた)の審査


 昼食をはさんで、午後は形の審査から。
 小学生の頃に、「形稽古」はみっちりやっていたので不安はありませんでした。

 結果は、形の審査も合格。あとは学科試験のみ。

 学科試験といっても、事前に提示された課題について、回答を論述した用紙を提出し、審査員がその場で合否を決める方式。これも合格。
 
 最後に登録料を支払って、審査終了。

 「お父さん、僕も大人になったら二刀流をやる!」

 観客席に戻ると小学4年だった息子が飛びついてきた。
 リバ剣し、二刀で二段審査合格。本当にうれしかったですね。
 息子の"笑顔"で、張り詰めた緊張感が解けました。

34年ぶりの再会


 実は、私が審査を受けた第三会場の審査員の中に見覚えがある顔があったのです。
 審査前や審査中に、審査員と受審者が会話することは禁じられているので、ご挨拶はできませんでした。
 
 しかし、すべての審査が終了すると、その方が私の方に向かって歩いて来た。

 やはり、TNK先生だ。すぐに分かった。
 小学生のころ所属していた中山剣友会(現:市川市剣道連盟東部支部)の先生です。
 当時は若手でしたが、髪の毛もすっかり白くなって、満面の笑みで声をかけてきてくださった。

 「おめでとう!二刀をやっているなら"東部"へ来てください」

 市川東部支部。私にとっての二刀の"聖地"………(その理由はこちら
 子供の頃に、将来二刀を執ることを夢見て通ったあの道場で………
 夢が現実になる………

 

2019年4月17日水曜日

剣道昇段審査① 二刀流でリバ剣直後の苦悩

想定していなかった昇段審査


受審すべきか否か


 2010(平成22)年7月。
 右ヒザ半月板損傷の手術から2カ月たって、少しでも遅れを取り戻そうと二刀剣道の稽古にますます力が入っていたころのこと。(半月板を損傷した時の様子はこちら
 地元の所属道場の稽古に行くと、道場の役員をされている方から声をかけられた。

 「来月の昇段審査は受けますか」
 
 ドキッとしましたよ。段審査のことなんて、全く考えていませんでしたから。
 リバ剣を決意して以降、剣道ができる体を作ること、二刀をやるため片手刀法を身につけること、そのことに集中して今できることをやってきた。

 この時、私はまだ初段。リバ剣して半年。二刀でしか稽古していない。

 「来月の段審査は、受審すべきか回避すべきか」

 悩みました。とことん悩みました。

 実際問題として、二段の昇段審査を「二刀」で受審する人なんていません。少なくとも戦後は、そういう人はいないんじゃないでしょうか。

 戦前はいました。私淑する故松崎幹三郎先生は大正生まれ。旧制中学で剣道初心者から二刀を始め、一刀は習ったことがないお方。段審査も、初段から六段まですべて「二刀」で受審された方です。(故松崎幹三郎先生についてはこちら

 受審するとしても、二段を「二刀」で受審していいものなのか。または、この時だけ「一刀」で受審すべきなのか。

 迷いました。

 この時は結論を出せず、審査申し込みの返事は、1週間以内にさせて頂くことにしました。

息子のひと言


 「お父さんといつになったら稽古できるの?」

 所属道場で一般の稽古が始まろうとした時、小学4年になった息子が言った言葉です。
 
 息子は小学1年からこの道場で剣道を始めていて、この頃には小学生の部の稽古が終わると、続けて一般の部の稽古にも参加していました。

 私はこの時、リバ剣して半年。二刀でしか稽古していませんし、自分の稽古で精一杯だったので子供たちと稽古したことはありません。同じ道場に通いながら、息子と一度も稽古したことがなかったのです。

 何か納得のいく結果を出すまでは、一刀はやらないと決めてしまっていたため(その理由はこちら)、息子には随分と寂しい思いをさせてしまっていたと思います。

 「よしっ、二段を二刀で受審し、合格したら一刀での稽古を解禁しよう」

 息子のひと言で、受審すると決めた。

 段審査を二刀で受審して合格すれば、曲がりなりにも剣連から自分の二刀が認められたということ。そうなれば、二刀を執る自信にもつながる。
 
 そしてその日、昇段審査受審の申し込みを済ませた。

何度不合格になっても構わない


 二段を二刀で受審すると決め、申し込みはしたものの、不安感に襲われた。

 「二刀で受審したら、審査員の先生方になんて思われるだろう」
 
 受審を決めてから、何人かの高段者の先生方に、「二刀で受けても受からないよ」なんて言われました。
 そういう言葉は覚悟していたんですけど、面と向かって言われると、かなり凹みますね。

 昭和40~50年代は、二刀をはじめとする片手刀法に対し、著しい誤解と偏見があった時代。(その様子はこちら
 稽古では二刀とはやりたくないと中傷され、試合では片手で打ってるというだけで旗が上がらない、段審査では偏見から二刀の合格者がでない。
 しかし、そういった時代にあって、二刀を執り続けた方々がいらっしゃる。二刀者の数が激減した時代に、信念を貫き通した二刀剣士がいる。
 私は、小学生の頃、それをこの目で見ているのです。
 
 特に、故松崎幹三郎先生にあっては、芸術的な美しさのある二刀をやる方で、しかも圧倒的に強かった。しかし、二刀に対する偏見から、段審査では大変ご苦労なされたと伺っております。松崎先生は前述したとおり、まったくの剣道初心者から二刀しかやっていないのです。一刀は習ったことがない。ですから「二刀でだめなら一刀で」なんてできなかったのです。

 先師荒関二刀斎もこの世代のお方ですから、取り巻く環境は同じく厳しかったんではないでしょうか。

 そういった方々のご苦労があったからこそ、今、こうして私たちが二刀を執ることが出来るのです。
 そう思った時、何度不合格になったとしても二刀で受審する以外ない、そういう決意が沸き上がってきました。

 審査の数日前。所属道場の高段者TZW先生が背中を押してくださった。

 「二刀で受けるかどうか悩んでいるの? 君は二刀でしか稽古してないんだから、堂々と二刀で受審しなさい」
 
 涙があふれそうになりました。


2019年4月16日火曜日

半月板損傷 剣道の稽古中

初出場した試合は反省しきり


取り組むべきことが見えたばかりなのに


 前回の投稿で、30年ぶりに剣道を再開して始めての試合となった、2010(平成22)年の浦安市春季市民剣道大会に出場したことを書きました。
 しかも、始めて間もない二刀での出場で、1試合中に場外反則を4回もやってしまうという大失態。前代未聞だと思います。(その様子はこちら

 30年のブランクで、"コート感覚"が全くなくなっていることが判明しました。

 普段の稽古では試合コートのことなんて意識しませんからね。これは、試合経験を重ねて、取り戻していかなければならない感覚なんだなと思いました。

 他にも、反省点、改善しなければならないところはたくさんあります。数え上げたらきりがない。取り組まなければならない問題だらけ。

 その中でも、最も重要で真っ先に取り組まなければならないことが、はっきりした。

足さばき


 リバ剣して、試合に出てみて、痛感したこと。
 やはり、攻める、打突の機会をつくるのは、「足と腰」だなと思いました。
 
 この半年前、リバ剣を決意した時に、最初に取り組んだのが足腰の強化、そして足さばき。なのに、その足が動かない。試合になったら全くダメなんです。稽古ではそこそこ足が遣えてたんですけどね。
 
 今までの稽古量では"ぬるい"と思い。さらに強化しなければならないと思った矢先、予想もしていなかったことが起こった。

右ヒザ半月板損傷


 市の剣道連盟が主催する稽古会に参加した時のこと。

 稽古場所は、所属道場が使用している市の武道館ではなく、市の総合体育館。

 「ここは、床が硬いな」

 会場に入ってすぐに思った。剣道をやる人なら、結構気にするとこですよね。

 案の定、稽古開始前に担当者からアナウンスがあった。

 「ここは、床が硬いので気をつけてください」

 まるで、コンクリートの床の上に直接板材を張ったような感触だ。その日は強く踏み込まずに稽古したつもりでした。
 
 稽古終了時の「静座」で、何となく右ヒザに違和感があった。それでも、特に気にすることもなく帰宅。

 しかし翌日、右ヒザに痛みを感じるようになり、3日後には痛くて右ヒザが曲げられなくなった。

 「これは、半月板が折れてるな」

 そう思った。
 
 実は私、この9年ほど前に左ヒザの半月板を損傷して、手術した経験があるのです。
 この左ヒザは、小学生のころに剣道の稽古中に痛めてそのままにしていたもの。日常生活に支障はなかったので、長年放置していたのです。

 "放置"といっても最初からそうしたわけではありません。小学生でしたから親も随分と心配して、あちこちの病院やら接骨院やら鍼灸院までいろいろ連れて行かれました。
 当時は昭和40年代後半ですから、レントゲン検査といってもアナログの時代で、画像の解像度なんてめちゃくちゃ低いですから、ヒザの痛みの原因が分からなかったんです。
 もちろんMRI検査なんてありませんでしたから。

 それから26年たったある日。家で床にあぐらをかいて座っていて、立ち上がろうとした時に「ボキッ」という音がして、左ヒザがロックして動かなくなってしまった。
 翌日、近所の整形外科を受診し検査すると、医師からこういう説明があった。

 「左ヒザの半月板が折れています。あなたは生まれつき、半月板が“半月”の形をしておらず、丸い形をしているので(これを円盤状軟骨といいます)、こういう人は普通に生活しているだけで折れます。右ヒザの半月板が折れるのも時間の問題です」

 この医師の言葉を思い出して、今回、“折れてる”と思ったのです。
 そしてすぐに整形外科にかかると、やはり思った通り。手術も一週間後と決まった。
 痛みだけで動かすことはできていた右ヒザは、手術当日までには「ボキッ」と音がしてロックしてしまった。
  
 手術が終わって当日一日だけ入院し、翌日退院しましたが仕事は2週間休みました。
 剣道は1カ月休むことになってしまった。これには焦りました。リバ剣後、初めての試合も二刀で経験して、さあこれからという時ですから。
 
 この剣道ができない1カ月間、何をすべきか考えた。

 「こういう時だからこそ、ヒザに負担のかからない“ナンバ歩き”をしっかり身に付けよう」

正しいナンバ歩き


 術後はリハビリがつきもの。半月板損傷の手術の後のリハビリは、ヒザの屈伸運動をすることと、歩くこと。これをしないと、ヒザが曲がらなくなったり歩けなくなったりする。

 リハビリの指導をしてくれた理学療法士からは、「ヒザが腫れた場合は、一旦中止し、腫れが引いてからやってください」と言われていました。

 早く剣道ができるようになりたかったので、まじめにやりましたよ、リハビリ。毎日2㎞歩くと決めた。
 この頃は、稽古していたナンバ歩きはまだまだ身に付いておらず、試行錯誤の状態でした。ですから日常でも、ナンバで歩いたり普通に歩いたりの繰り返し。リハビリ中もそうでした。

 するとすぐにこんなことに気がついた。

 「普通に歩くと手術した方のヒザが腫れるが、ナンバで歩くと腫れないな」

 正しいナンバで歩くと腫れない、これはいい“先生”になりました。
 本気でナンバ歩きに取り組むきっかけになりましたね。

 「ナンバ歩き」というと、同じ側の足と手を一緒に前へ出す歩き方、と思っている方は多いと思います。しかし、これは誤りです。
 「ナンバ歩き」とは、ある腰の遣い方で歩くと、結果的に自然と踏み出した足と同じ側の手が前に出るのです。(その方法は、こちら
 ですから重要なことは腕の振り方ではなく、“ある腰の遣い方”なのです。
 これは、日本古来の武芸に共通する基本中の基本ですね。

 リハビリをナンバ歩きですることによって、この“腰の遣い方”が理解でき、身に付き始めたのです。

 まさに、“怪我の功名”になりました。

 

2019年4月15日月曜日

平成22年浦安市春季市民剣道大会 リバ剣後初出場

二刀でのデビュー戦


30年ぶりの試合


 2010年5月。30年のブランクからリバ剣して5カ月目。
 所属道場の稽古に行った時、掲示板に市民大会参加者の登録名簿が掲示されていたのが目に入った。

 浦安市の市民大会は春季と秋季の年2回。春季剣道大会は団体戦はなく、個人戦のみ。
 掲示された参加者登録名簿に、参加希望者が記入してエントリーするようだ。もうすでにたくさんの方々の名前が記入されている。

 「個人戦なら他人に迷惑が掛からないだろう」

 そう思ってすぐに参加を決め、名前を記入した。
 リバ剣直後で、しかも二刀もまだまだぎこちない。でも、とにかく30年ぶりに試合を経験したかった。少しでも早く試合の勘を取り戻したかった。この時、もう46歳ですから。

 剣道の市民大会は、剣道初心者や私のようなリバ剣剣士から、百戦錬磨の現役選手、教員や警察官、全国大会予選出場の常連者、熟練の高齢者まで、幅広い層の選手が出場するのが特徴です。

 私が最後に出場した試合は、中学3年の時の県大会でした。ですから、一般の部に出場するのは初めて。市民大会の一般の部はどういうレベルなのか、実際に感じてみたかったのです。

 負けるのは分かっています。負けることによって今の自分を知り、何をすべきかが見え、次へのチャレンジができる。笑われてもいいから二刀で出場する、そう決めました。

幸先いいスタート


 試合当日、午前11時に開場入りすると、小学生の部が終わって、中学生の部が始まっていた。
 この後、高校生の部があって、一般の部が始まるのは午後2時過ぎらしい。
 
 まさか自分の人生で、再び試合前のこの緊張感を味わうとは思いもしませんでした。

 「ああ、この環境に戻って来たんだな」

 会場に入って実感がわきました。

 実は、1週間前から不安で仕方なく、この日は朝から不安感が頂点に達していた。

 一刀で試合に出るなら、ここまで不安にならず緊張だけで済んだと思います。
 リバ剣して二刀を始めてまだ5カ月目。これで試合に出るというわけですから、ちょっと無謀ですよね。
 不安を取り除く方法も見つからないまま、一般の部が始まった。

 私の一回戦はトーナメントの第一試合。お相手と向き合い、礼をし、大小を抜刀して蹲踞した。

 「始めっ」

 主審の号令とともに立ち上がって上下太刀に構えた。
 すると、一刀中段に構えたお相手が、スーッと前に出てきて、小刀の切っ先にご自分の竹刀の物打ちを合わせてきた。

 これ、錯覚してるんですね、お相手が。竹刀同士が触れ合うところまで間合いを詰めたつもりなんでしょうけど、こちらが中段に構えているのは短い小刀です。これに触れるところまで間合いを詰めたら、かなりの近間になっているのです。

 私はすぐに反応してました。
 小刀に触れてきたお相手の竹刀を、その小刀で瞬時に押さえて大刀で小手を打った。
 気づいたら打ってたって感じ。旗は三本あがってました。

 「二本目っ」

 主審の号令が掛かると、今度は警戒して間合いを詰めてこない。小刀が気になっている様子。
 ならばこちらが足を使って攻め込もうと前にでると、お相手は下がって間合いを切る。この繰り返しになって試合時間がもうわずかしかない。下がるお相手をさらにもう一歩攻め込んで面に飛び込んだ。

 「ちょっと浅かったかな」そう思いましたが、旗は三本あがってました。

 30年ぶりの試合、しかも始めての二刀での試合。これは幸先がいいなと思いました。

ブランク30年で失った感覚


 二回戦が始まった。今度のお相手は、平正眼や霞の構えで防御一辺倒。すぐに鍔迫り合いになってしまう。
 ならば引き技で一本を取ろうと、大刀で引き面を打ったんですが、旗は一本しかあがらず勢い余って場外へ出てしまった。場外反則一回。
 続けてまた同じことをしてしまい、場外反則二回。これでお相手に一本となってしまった。

 この後、さらに同じことをもう二回やってしまった。つまり、場外反則4回で二本負け。
 場内からどよめきが起こりました。私には失笑に聞こえましたけどね。

 引き面を打って場外へ出てしまう。一度やったら、普通は気をつけますよね。

 私、試合中に気づいたんですけど、コートの感覚が全くないんです。
 30年前はありました。ちゃんと。
 今、どれぐらい下がったら場外へ出てしまうとか、今、コートのどのあたりを背にしているとか。

 意識しようとしても余裕がないためか、どちらの方向にどれだけ動いたら場外に出るのかが、把握できないのです。
 自分でもこれには驚きました。

 リバ剣にも、リハビリが必要なんだなと思いましたね。ブランク30年は重症です。

 こんな変な幕切れで、リバ剣二刀での最初の挑戦は終わりました。

 「打たれて負けたわけではないから、まあいいか」

 そんなおかしな言い訳を、心の中でつぶやきがら会場をあとにしました。

 この“コート感覚”。取り戻すまで、この後、1年かかることになるとは。


2019年4月14日日曜日

二天一流武蔵会 稽古会参加④ 二天一流第十七代師範 神免二刀流第十六代師範

流祖武蔵から連綿と継承された流派


中村天信 師範


 2010(平成22)年4月。武蔵会東京支部の稽古会に参加させて頂いた。

 会場に到着して着替えを済ませ準備運動をしていると、Kさん(HN:KOJIROさん)がお見えになり、こうおっしゃった。

 「本日は、中村先生がいらっしゃいます」

 ついにこの日が来た。
 現代の二刀流に失望しかけた私に、中村師範との出会い(その時は動画でですが)は、一条の光明となっていました。(その経緯はこちら

 二天一流の第十七代師範という「運命」を背負われたお方。
 宮本武蔵自流の正統として、伝統の荘厳なる継承の使命を負う。そういうお方に、いよいよお目にかかれる。

流祖から中村天信までの系譜


 江戸前期、流祖宮本武蔵が晩年を肥後(熊本)で過ごし、「二天一流」の系譜はここで端を開きます。
 その主な道統に「肥後の五流派」があります。寺尾派(山尾派)、山東派、村上派正勝系、村上派正之系、野田派。いずれも二天一流の正統です。
 また、二天一流から分派した流派として、新潟越後に伝わった神免二刀流があります。

 「肥後の五流派」のうち、大正期までに三流派が継承者が得られず断絶し、現在は、山東派と野田派が二大流派を形成しています。
 一方、神免二刀流は越後藩の剣術指南役を務める五十嵐家に伝わり、代々家伝の流儀として現代まで継承されてきました。

 先師荒関二刀斎は、神免二刀流継承者五十嵐一隆に就いて二刀流の指導を受け、後に印可を得て、神免二刀流を継承します。
 また、熊本に渡り、野田派の二天一流十五代松永展幸のもとでこれを学び、後に印可を得て二天一流の十六代を継承しました。
 いずれも昭和30年代のことです。

 先師荒関二刀斎は、昭和44年の第17回全日本剣道選手権大会にも二刀で出場されています。

 そして、平成8年に中村重則天信という後継者を得て、十七代を継承させたのです。

稽古開始


 この日も最初は、ナンバ歩きの稽古から。床を擦る「すり足」の音だけが、道場に静かに響く。中村先生が見守る中、皆さんの緊張が伝わってくる。

 次に形(かた)稽古。ここからは直接中村先生からご指導いただいた。私も「胴を切る」場面で、刃筋を手を取って直して頂いた。
 二刀の形で二刀の刀法を知り、理合を知る。古流でなければ出来ない稽古法です。特に武蔵会の場合は、これが竹刀稽古につながっている。実践につながる理論があるんですね。
 私自身、この3年後に、試合や段審査でその成果を実感することになります。

 そして、防具を着用して竹刀稽古。まずは基本打ち。
 これも中村先生が手本を見せて頂き、直接ご指導くださった。

 これも武蔵会ならではの稽古。
 試合や地稽古は、お相手さえいればある意味どこでもできます。しかし、二刀の基本稽古を正しくじっくりやるとなるとなかなか機会がない。
 私にあっては、この稽古ができるところを探してたわけですから。二天一流の十七代師範に直接ご教授頂けるなんて信じられない気持ち、まるで夢のようです。

 この後、通常であれば、それぞれにお相手と組んで地稽古となるんですが、この日は中村先生がいらっしゃるということで、一人ひとり中村先生と稽古して頂けることになった。
 とはいっても、人数も多いし時間の制限もあるので、代表の上級者5名ほどが稽古することに。他の者は、見取り稽古となった。
 私は面をはずして、固唾をのんで立ち合いに見入った。

少年の頃に見た二刀流がここに


 「この師に就いて学ぼう」

 立合いが始まってすぐにそう決意した。

 昭和40年代に見た、心を揺さ振られた二刀流。
 今、目の前で繰りひろげられる立合いに、あの頃と同じ種類の感動が沸き上がってくる。

 昭和40~50年代は二刀者が激減した時代。(その理由はこちら
 この頃二刀を執っていた方々は皆、大正生まれ。戦前から二刀流をやっていた方々です。そして、後継者がないまま二刀剣士の高齢化が進んでしまい、世を去ってしまった。

 平成に時代を移して、「試合・審判規則及び細則」が改正され、環境が変わって二刀を執る者が徐々に現れてきた。現代の二刀剣士の多くは(高名な二刀者も含めて)、これ以降にご自分の創意工夫で二刀を執られてきた方々です。

 私はそういう方々の二刀を、批判したり否定したりするつもりはありません。
 そういった時代背景がありますから、私たちが子供の頃に見た二刀流と違っていて当然なのです。

 しかしここに、継承された二刀者が実在したのです。
 中村天信師範。
 子供の頃から私淑してきた故松崎幹三郎先生と剣風はちがうが、根底に流れる「理」が同じような気がする。(故松崎幹三郎先生についてはこちら

 二刀の操作をどうにかやり繰りして一本を取ろうとする二刀剣道ではない。右片手、左片手、それぞれが独立して片手刀法として成立している。どちらか一方の介助がなかったとしても一本が取れる剣道だ。
 それでいて、左右の片手刀法が絶妙な調和をして、迫力があり美しい二刀剣道を具現化している。


 地元でも、故松崎幹三郎先生の二刀を知る人は、めっきり少なくなりました。
 松崎先生との立合いの経験がある、現在は高齢になった先生方は、「あの先生の二刀には、理があったね」と皆さん口をそろえます。


 もう見ることが出来ないであろうとあきらめていた「二刀の理」が、今、目の前にある。
 

 
参考文献
 『武蔵の剣 剣道二刀流の技と理論』佐々木博嗣編著・スキージャーナル・平成15年
 

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