2019年2月16日土曜日

白血病の治療~私の場合~② 白血病の治療費

白血病の治療費は? 仕事は? 毎月の支払、生活費は?


まずは大事なお金の話


 前回の投稿で、白血病の治療期間をフルマラソンに例えたら「寛解」は〈最初の給水所〉、まだ中間地点にもきていない、と言いました。

 寛解した時点で抗がん剤治療をやめてしまえば、すぐに再発する。再発した場合は、同じ治療をしても寛解することは難しくなる。そういう病だそうです。

 私も寛解した後も抗がん剤治療を続け、数々の重い副作用に襲われていくことになります。
 
 そのことは次回、書きます。

 で、今回は白血病の治療費や経済面でのやりくりについてお話しします。
 お金のことは大事ですからね。

傷病手当金


 まず仕事ですが、白血病の治療は長期間になるので休職しました。結果的に約1年間。
 私は会社員です。ということは収入ゼロに。この先、どうなることかと思いました。
 そんな中、会社には私の病気と治療を理解してもらえ、スタッフのサポートと励ましがあったことは、私の支えになりました。本当に感謝しています。

 で、自分の会社からすぐに「傷病手当」の説明があった。

 会社で社会保険に加入していれば、病気やけがで長期休業したときは、給料の6~7割分に相当する額が社会保険組合から支給される制度。

 こんな制度があるなんて知りませんでした。とりあえず家族が生活するには、これでなんとかなった。
 ちなみに、国保にはこの制度はありません。

健康保険限度額適用制度


 年収によって、ひと月に支払う医療費の限度額が決まっていて、その限度額以上は支払わなくていいという制度。社保でも国保でも、同じ制度です。これも、詳しくは知りませんでした。
 ただし、保険適用でない自費負担の医療費は含みません。
 ですから、保険適用されていない薬を使ったり、個室などの差額ベッドを利用した場合は、その分は全額自己負担となります。
 しかし、白血病の基本的な治療はすべて保険適用されますので、その点は心配ありません。骨髄移植も保険適用です。 

 私の場合は、ひと月の限度額が88,000円でした。年収がバレますね。苦笑
 この限度額適用が3カ月続くと、4カ月目以降は44,000円になる。ひと月にこの金額以上は払わなくて済むわけです。

 もしこの制度がなかったら、私の場合、月々20〜50万円ぐらいの医療費を払わなければなりませんでした。

がん保険、入院保険


 白血病は癌ですから、がん保険に加入していれば、がん保険がおります。
 これは非常に大事。加入していて良かったなぁとつくづく思います。

 それには理由があります。

 「傷病手当」や「健康保険限度額適用認定」は、申請して初めて受けられる制度。

 傷病手当の場合は任意の期間(例えば、1か月ごとでも3か月ごとでも自由に申請可能)の専用の診断書を添付して申請します。
 私の場合は1カ月ごとに申請してました。
 入院、治療が始まって1カ月たったところ、診断書の作成を主治医に依頼。
 診断書が手元に届くのが2〜3週間後。
 それから自分の会社に傷病手当の申請を依頼して、社会保険組合から自分の銀行口座にお金が振り込まれるのは、早くても3週間後。
 ですから、入院して傷病手当金を最初に手にできるのは、早くても、2カ月半後なんです。

 健康保険限度額適用の方も、最初は認定証がない。こちらも申請して手元に届くのに2週間ぐらいかかる。
 白血病と診断された時は、通常の保険証を提示してその病院にかかってますから、最初の1カ月間か2か月間の入院治療費は、通常通り3割負担になります。
 私が1カ月目に支払った入院治療費は3割負担で40万円ぐらいだったと思います。
 しかし、これは後日、限度額適用の認定がおりて、申請すれば、限度額を超えた分は社会保険組合から返金されます。とは言っても、これも申請してから2~3カ月後のことです。

 入院して休業すれば収入がなくなる、傷病手当を受け取れるのも、3カ月ぐらい先。
 その間、月々の支払い、家族の生活費はかかる。限度額認定証が届くまで建て替えなければならない膨大な医療費もある。

 これをカバーするのが、がん保険の“一時金”です。
 癌と診断されたらすぐにおります。私の場合は申請して1週間後に一時金がおりた。
 100万円。これは助かりましたね。最初の2カ月間の支払いはこれですべてまかなえた。
 その後は、限度額適用が認定されますから、月々の入院日数分のがん保険、通常の入院保険、通院すれば通院保険がおりますので、自分の限度額までは充分支払えます。
 傷病手当は給与の6〜7割となるため、余った月々の保険金はそちらの不足分に回せます。

 ですから、国保の人はがん保険の契約内容を手厚いものにしておくのがいいでしょうね。そうすることによって、傷病手当がない分、がん保険で入院している間の家族の生活費もまかなえます。

 これらの制度や保険を活用すれば、経済面では心配ないと思います。

 ただし、この制度の“恩恵”は入院・治療して、仕事を休業している間だけなのです…。



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2019年2月14日木曜日

白血病の治療~私の場合~① 白血病は骨髄の癌

白血病は骨髄の癌


イメージとは違う実際の治療法


 白血病の治療というと、“骨髄移植”と思う方が多いと思います。
 白血病になる以前の私もそうでした。

 診断を受けてから、すぐに骨髄移植の話をされると思っていたら、そうではなかったんですね。
 主治医から最初に説明があった治療法は“化学療法”。抗がん剤治療のことです。
 中心静脈にカテーテルを挿入して点滴で抗がん剤を投与する。

 まずはこれで、「寛解」を目指すんです。

 「寛解」とは、骨髄の癌が消滅した状態ということです。

 “癌が消滅する”ということは、これで“治った”と思う方も、いると思います。
 そうではないんですね。

 治療の全期間をフルマラソンに例えたら、「寛解」は〈最初の給水所〉という感じ。
 まだ、中間地点にも行っていない。
 
 私の場合は、診断を受けた翌々日に、抗がん剤の投与が始まりました。
 3日目に急に食欲がなくなり、4日目に大部屋から無菌室へ移りました。

 白血病は感染症ではありません。感染はしない。
 骨髄の癌です。
 無菌室へ入るのは、空気中の雑菌などでも体内に入れば急変してしまうからです。
 抗がん剤の投与によって白血球が破壊され、免疫力、抵抗力がなくなってしまうのです。

 面会は家族以外は不可

 食べ物は加熱食品だけ。生ものはダメ。
 とは言っても副作用で味覚障害が始まり、そもそも食欲がなくなってしまう。
 味覚障害というのは、食べ物がおいしく感じられないというレベルではない。食べ物すべてがこの世のモノとは思えない味になってしまう。例えようのない味になってしまうんです。ですから食べられない。

 歩くのも無菌室内にあるトイレまで行くのがやっと。筋力もあっという間に落ちました。
 治療開始2週間目には体重が10キログラムも減っていた。
 また、このころから脱毛が始まり、皮膚はボロボロ。鏡の中の自分は別人になった。
 こんな姿になった私を見なければならない家族の者の気持ちを考えると、胸が痛みました。

 毎日、ぼーっとして集中力もなく、ただ病室の天井を見ているだけ。
 テレビを観たり、本を読んだりする気にもなれない。
 ただただ、妻や子供、医療スタッフに対する感謝の気持ちで毎日涙があふれました。

 治療中は、月に1度、骨髄穿刺(マルク)検査があります。
 治療が始まって21日目に、最初の検査があった。

 「寛解」するのに数か月かかる人、数年かかる人といるそう。残念ながら「寛解」しない人も。

 翌日、担当医が検査の結果を告げに来た。
 
 「寛解しています」

 この年齢で早期の寛解はまれだそう。

 しかし、これは〈最初の給水所〉にすぎなかったんです。



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2019年2月13日水曜日

白血病の治療は壮絶なもの

競泳選手の池江璃花子さんが白血病であることを公表されて一日たった


医者には患者の気持ちを代弁できない


 各メディアには血液内科医が出て、白血病についていろいろ語っている。
 
 あくまでも治す側、医者の立場で。

 この方達は、もちろん白血病にはなったことがない。だから白血病治療の現状を話しているだけ。どの医者も話の内容はほとんど同じです。まあ当然といえば当然です。

 私も、“白血病”と診断されて、担当医からそういった話をひと通り聞きました。
 その2日後に化学療法(抗がん剤治療)が始まったんですが、実際には、想像を絶するようなことが次々と自分の体に起こってくるんですね。


 一方で、各メディアは白血病を克服した経験のあるアスリートや俳優に取材をしていますね。
 皆さん、池江さんに心からのエールを送っていました。

 しかし、その取材に対して、ご自分の治療はどうだったのか、あまりくわしく話されている方はいなかったような気がします。
 取材時間の制約もあるでしょうから、すべてを話すことは難しいでしょうけど。本来、話したいことの10分の1も話していないんじゃないかな、と思って観てました。

 その理由はわかります。治療が壮絶すぎるからです。安易に話すことができないんですね。医者にも患者側からの話はできません。


 今日、78歳になる実家の母から電話がありました。

 「池江璃花子さんて、お前と同じ病気なの?入院中のお前の姿を思い出しちゃって、足の震えが止まらないんだよ」

 白血病は造血幹細胞(骨髄)が癌になる病気。しかし、他の癌のようにステージ“いくつ”っていうのがない。それは、白血病と診断された時は、あえて言うならばステージⅣの末期だから。
 その末期の状態から、全身の骨髄に広がった癌細胞を消滅させるために、抗がん剤を投与するわけですから、非常に危険な治療になります。
 
 白血病の治療は壮絶なものです。

    池江さん、この治療、必ず乗り越えてくださいね。


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2019年2月12日火曜日

池江璃花子さん頑張って!私も白血病患者です

 今日の昼過ぎ、突然入ってきたニュース


 「競泳女子の池江璃花子がツイッターで白血病を告白」


 一瞬、自分の目を疑った。
 「あの池江璃花子が……」「白血病……」「オレと同じ病気……」
 かわいそうすぎます。
 私は52歳で白血病になりました。池江さんは18歳ですか…。
 若い人が白血病になったと聞くたび、胸が締め付けられる思いがします。
 
 白血病は癌です。造血幹細胞が癌になる。ひらたく言えば、全身の骨の中にある骨髄が癌化する病。その骨髄で血液が造られますから、正常な血液が造られなくなる。免疫力が低下する。
 最終的には、普通の人なら何でもない空気中の雑菌や指先についたばい菌が、口の中に入っただけで40度以上の高熱が出る。肺炎や敗血症などにかかる。死に至る。

 私は入院中に敗血症になるところまでいきました。その時は熱が41度。3日間続きました。「ああ、人間はこうやって死んでいくんだな」と思いましたね。もうそうなると失禁しちゃうんですね。

 白血病は治療しなければ、生存率0パーセント。ステージいくつっていう段階はない。発症した時はもう末期なんです。
 
 私は白血病の知識がなかったので、2日後に抗がん剤治療を開始することを医師から告げられた時に、「来週からにしてもらえませんか?」なんてのんきなことを言ってしまった。そしたら、「それでは間に合いません」と言われましたね。

 私が入院中、同じ病気の方で、治療の副作用のあまりの苦しさに耐え切れず、治療を中止して退院してしまう方もおりました。胸が痛みます。

 池江さんには、これから始まる長期間の治療にしっかり耐えて頑張ってもらいたいです。

 『池江さん、夢と目標を忘れず、ガンバレ!!!』



このブログ上部の「急性リンパ性白血病」のページに私の闘病記を投稿しています。今後も加筆・更新してまいりますので、よろしければそちらもご覧いただければと思います。


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2019年2月11日月曜日

現在の二刀流をリサーチ。そして新たな出会いが!

リバ剣を決意したのは2009(平成21)年秋


「30年ぶりに剣道をやろう!」「二刀でやろう!」「子供の頃の夢を、一つ実現させよう!」


 そう決断した晩のこと、まず現在の剣道界のリサーチをしようとPCに向かい、全日本剣道連盟のHPを開いた。(リバ剣を決意したきっかけは、こちら
 手当たり次第に記事を読みましたが、チンプンカンプンでしたね。記事に出てくる人名も誰一人わからないし、取り上げられてるいろいろなイベントもなんだかよくわからない。あまりのブランクの長さに改めて気付かされました。

 で、“お勉強”はあきらめて、動画を検索することに。
 小学生から一般まで、立合いの動画を深夜まで見続けた。
 そして、お目当ての二刀者の立合いの動画にたどり着きました。

二刀流(片手刀法)の継承が、断絶してるのか?


 大学生の二刀者、市民剣士の二刀者、高段者の二刀、二刀でその頃の最高位の方など、現在の二刀の立合いの動画を見れば見るほど、「あれっ????」って感じ。
 
 私が子供のころ、昭和40年代から50年代に見ていた二刀と全然違う。
 私の知っている片手刀法とは、まるでほど遠いものに見えました。
 諸手左上段の理合のまんま、右手に小刀を補助的に持って剣道をやっているという感じです。

 古流を学んだわけでもなく、ただ全剣連が定めた規則の範囲内で、自分で工夫なさって二刀をやっている方々。それはそれでいいと思います。ご本人の自由ですからね。
 しかし私には、二刀の醍醐味、片手刀法の醍醐味がまったく感じられなかった。
 二刀の理、片手刀法の理が継承されていない、断絶してしまっている、そう思いました。とても寂しい気持ちになったのを覚えています。

二天一流武蔵会との出会い、そして衝撃の動画


そのあと、ちょっと気持ちを切り替えた。
 「二刀を基本から教えてくれるところを探そう。古流だ。二天一流の道場を探してみよう」
 検索でヒットしたのが「二天一流武蔵会」。二天一流の形稽古だけでなく、竹刀稽古もやっているらしい…… 師範の立合の動画…… 再生……

   「これだあぁぁぁぁぁぁーっ!!!!」

 子供のころに見たあの二刀。見るものを魅了し、二刀の理を体現し、華麗に舞う。
 立合う相手を自らの運動世界の中に引き込んでしまうような、二刀の醍醐味。
 自由自在の片手刀法。圧倒的な打突力。

継承されていた二刀流、そして片手刀法


その時、深夜2時をまわっていました。

「二刀の理の継承は断絶していなかった。ここに入門しよう。これで本物の二刀が基本から学べる!」
  
 翌朝、妻が言いました。
 「あんた昨日の夜は、ずいぶん大きな声で寝言を言ってたね。『これだぁー』って」
  
 


2019年2月9日土曜日

この出来事で、剣道再開を決意!しかも二刀で!!

突然息子がとった行動


あのバスの中の自分と重なる


 前回の投稿で、終バスの中でのエピソードを書きました。
 希望に満ちあふれた時代でした。

 その後、16歳の時に十二指腸潰瘍でドクターストップ。当時は潰瘍にいい薬なんてまだなかった。運動全般を禁止されてしまったので、剣道はあきらめるしかなかった。
 意外でしたが、あれほど大好きだった剣道をすんなり忘れられた。それほど病気がつらかったんですね。

 時が過ぎて、結婚し、数年後やっと子供を授かった。男の子一人。
 その息子が小学校に入るころ、「剣道がやりたい」と言うので近くの道場に通わせることに。「血は争えないな」と思いつつ、その頃の私は剣道には無関心。道場に付き添いで行くこともしませんでした。

 ある晩、家のリビングで寝転びながらテレビを観ていると、そこへ剣道の道場から、小学3年になった息子が帰って来た。

 「お父さん、二刀流ってこうやってやるんだよ!」
 
 リビングの扉を開けるやいなや、道着・袴姿の息子が上下太刀の構え(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をやったんです。

 私は「うわぁぁぁー」と大声で叫んでしまった。

 今、目の前に37年前の自分が現れたようで、飛び起きちゃったんですね。
 あの終バスの中で、車掌さんに向かって二刀の構えをやっていた私が突然目の前に。
 息子は顔がその頃の私にそっくり。その時の道着・袴姿も同じ。学年も当時の私と同じだったのです。
 そして同時に、初めて二刀流を見た時の衝撃の光景が、走馬灯のように頭の中を流れた。

 そして、あの頃の決意を思い出したんです。将来、二刀をやるという。

 後からリビングに入ってきた妻に言いました。

 「オレ、明日から剣道をやる!」


2019年2月8日金曜日

剣道 片手刀法に魅了された少年時代 その2

「将来は二刀をやる!」

時間のたつのも忘れて


 小学3年の時、二刀流との衝撃の出会いがあって、すっかり片手刀法のとりこになってしまった私。(その経緯は、前回の投稿をご覧ください)

 自分の稽古が終わっても、その二刀の先生の稽古が始まると目がくぎ付けになってしまい帰れない。
 「なんで片手で打っているのに、あんなに強く打てるんだろう」「なんで歩み足でやってるんだろう」「なんで右足が前でも左足が前でも打てるんだろう」「なんでこんなに多彩な技が次々と繰り出せるんだろう」「二刀対一刀、明らかに条件が違うのにお互い真剣に戦っている。剣道はスポーツではなく武道なんだ!」時間のたつのも忘れて見入っていました。

道場の帰りに 


 道場へは、路線バスを使って片道25分かけて通ってました。
 ある日、いつものように二刀の先生の稽古を熱中して見ていたら、帰りが最終のバスになってしまった。
 当時は、路線バスには車掌が乗っていて、道着姿で竹刀を持った低学年の小学生が終バスに乗ってきたので、驚いたんでしょうね、声をかけてきた。

 「おい坊主、今日はなんでこんなに遅いんだ?」
 「二刀流の稽古を見学してたんです」
 「ここの道場の二刀流の先生は有名なんだってな。オレも見てみたいなぁ。二刀流ってどうやってやるんだ?」
 「こうやってやるんです!」

 若い車掌を相手に、上下太刀の構え(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をやって見せた。懐かしい思い出です。

 この37年後に、まるで同じような出来事が私の目の前で起こって、私の人生を変えてしまうとは……。このことは、別の機会に改めて書きます。

日本武道館での稽古


 話は戻って、当時のこと。
 そのころ、毎年正月に日本武道館で小学生が参加できる稽古会があったんです。
 元立ちの先生に小学生が稽古をお願いする自由稽古だったと思います。
 会場は全国から集まった少年剣士で埋め尽くされていました。
 みんな初めてお目にかかる元立ちの先生方に次々と稽古をお願いしていく。

 で、私はというと。防具を着けて、面も着けていますが稽古はしません。必死になって二刀を執っている元立ちの先生を探し回ってるんです。笑
 毎年、その稽古会で二刀者は一人いるかいないか。見つけてもかかっていかない。客観的に見れなくなってしまうから。二刀の見取りをする大チャンスなんです。そんな変わった子供でした。
 
 現在は二刀者は増えてきました。各支部の剣道連盟に数名いるところもあるんじゃないでしょうか。
 当時は非常に少ない。たいへん貴重な存在でした。昭和40年代。ビデオカメラなんて一般には普及していない時代ですから、見たいと思っても見ることができない。
 長年剣道をやっていても二刀剣道を見たことがない人はたくさんいたと思います。

誤解と偏見


 二刀者が少なかった理由の一つに、“片手打ち”に対する偏見があったと思います。
 「片手で打つなんて邪道だ」「相手に対して失礼」「有効打突にならない」なんてことが、まことしやかにささやかれていました。

 諸手上段や片手上段、そして二刀。片手で打つ刀法はことごとく否定され、偏見の嵐が吹きまくっていました。上段に対する"胸突き”のルール(上段に対する突きは、突き垂れだけでなく胸部も打突部位に入るというもの)ができたのは、この数年後のことです。このルールの導入で、上段を執る者は激減していきます。

 私の通う道場の二刀の先生も、そういった意味でたいへんなご苦労をなさっていたと、子供ながらに感じていました。
 そんな状況ですから、身近に素晴らしい片手刀法の継承者、二刀の先生がいても、それを習おうとする若い人がいなかったんですね。

 小学生だった私は、こんなことを胸に秘めながら剣道をやっているようになっていました。

 「高校生になったら、この二刀の先生に弟子入りして二刀流を習いたい。そして将来、二刀で全日本選手権に出場したい。そのために今は一刀で頑張って強くなる。二刀をやる時に誰にも文句を言われないようにしてやる」


 まあ負けん気の強い子供でした。

 しかしこの頃、すでに病魔は忍び寄ってきていたんですね。16歳になり、夢をあきらめることになるとは……。(その原因はこちら
 

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