2019年5月8日水曜日

リバ剣 日常の稽古⑥ 心にしみた師の言葉

被災して自分の剣道を見直す機会になった


東北の被災地へ竹刀100本の支援


 前回の投稿で、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の時のことを書きました。
 地元浦安市は、液状化現象の影響で、市内の体育施設は使用できなくなり、復旧には1年かかることがわっかた。

 通常、市内にある5つの剣道団体は皆、学校の体育館や武道館など、市の公共施設を使用して稽古を行なっている。それぞれの団体が"ホーム"として使用している施設が使えないのだ。
 市剣連が主催する剣道大会も1年間は中止になった。

 浦安も被災地だがもっと大変なのは東北の皆さん。
 所属する道場の会員さんから、こういう声が上がった。
 
 「私たちは稽古場所に困っているだけだが、東北の被災地の方々は避難生活をされているわけだから、そもそも物がない。素振りをしたくとも、竹刀すらないのではないか」

 道場のある先生が東北被災地の剣道連盟に問い合わせたところ、子供も大人も稽古をやりたがっているが竹刀がない、支援して頂けるのは大変ありがたい、ということだったという。

 それで、その先生の呼びかけで、浦安市剣道連盟本部道場として竹刀約100本を、支援物資として東北被災地に送らせていただいた。

「一人稽古」の徹底強化


 2011(平成23)年、被災後。
 道場での稽古もできない、1年間試合もない。
 これを好機ととらえ、「一人稽古」を徹底的に強化する道を選びました。

 剣道を再開して1年。自分なりには、かなり激しい稽古をしてきたつもりでしたが、もともと基礎的な体力が伴っていなかったところからの出発だった。だからすぐに限界がくる。自分では、「やってるつもり」になっていたのです。

 リバ剣当初は、数カ月も稽古すれば、すぐに昔の感覚が戻ると思っていましたが大間違い。
 あの頃と同じ努力をしなければ、その感覚は戻らないこともわかった。

「ナンバ歩き」の効果を確認


 地震発生時に職場から自宅まで、約20㎞歩いたことを前回書きました。(その様子はこちら
 その後、聞いた話ですが、同じ職場の同年代の人で、その日、私と同じように長距離を徒歩で帰った人は皆、ヒザを痛めたといいます。数日歩けなくなった人もいたそうです。

 私は、半月板の手術後数カ月しかたっておらず、段差の昇降には不安がある状態だったにもかかわらず、そういった症状は一切出なかった。
 やはり「ナンバ歩き」は足腰に負担がかからない歩き方であるということを、再確認できた。
 
 考えてみれば、剣道を再開を決意したころは、通常の走り方で毎日4~8㎞走っていましたが、その時使用していたランニングシューズは、3カ月ほどでボロボロになってしまった。
 その後、「ナンバ歩き」を実践するようになり、そのシューズも新しいものに買い替えた。同じメーカーの同じ種類のものですが、1年たってもまだまだ使える。靴にかかる負担も違うようです。

 年齢による足腰の衰えで、立合いの際の「機」のとらえ方が左右されるようでは、若い現役世代とガチンコ勝負などできるわけがない。
 年齢や運動能力に左右されない身体運用法の一つが「ナンバ歩き」。この歩き方を極めようと決意しました。

 これまでは、日常では、なるべく「ナンバで歩く」という気持ちだったのが、この時から、いかなるときも「ナンバで歩く」ようになった。
 さらに夕食後に、毎日8㎞のナンバ“走り”を自分に課しました。

自宅でいつでも「打ち込み稽古」


 前回の投稿で、木製の打ち込み台を作り、リビングに据えたことを書きました。
 それによって、もう、雑木林(防風林)の中に打ち込み稽古をしに行かなくてもすむようになった。笑(防風林の中での稽古の経緯はこちら

 「片手で、打って打って打ちまくる」
 
 自宅での打ち込み稽古は、それを信条にしました。
 その理由は、片手ででの打突が、諸手での打突と比較して、圧倒的に少ないということ。
 小学2年で剣道を始めた私は、剣道を断念する高校1年までで、どれほど「諸手」で打突してきたか。大まかな数字を出すのも不可能です。一方、「片手」での打突は、まだ始めて1年ほど。たかが知れている。

 以前、あるプロのピアニストのエッセイを読んだ時、ピアニストの“プロ”と“アマチュア”の違いについて、読者に問うている場面があった。
 私はすぐにその答えは「才能」だと思いましたが、違っていた。
 正解は「一日にピアノを弾く時間の長さ」だった。その人曰く、この違いは圧倒的なのだそうです。

 二刀流を始めた私にとって足りないもの。それは、「片手ででの打突の回数」ということになります。だから自宅で毎日、「片手で、打って打って打ちまくる」しかない。しかも“正しい片手刀法”で。

出稽古


 “一人稽古の強化”といっても、まったくお相手のいない稽古だけをしているわけにもいきません。同時に、実戦の感覚も磨かなければならない。
 
 浦安では施設が使用できないため、お隣の市川市へ出稽古に行かせていただくようになった。元々出身道場である市川市剣道連盟東部支部にはこの前年に登録していましたので、稽古には行っていましたが、市川市内の他の道場にも出稽古でお邪魔させていただくようになりました。

 どこへ行っても歓迎していただき、この時のご縁で本当にいい稽古をさせて頂き、勉強させて頂くことができました。今でも交流は続いています。

二天一流武蔵会東京支部の稽古会に参加


 震災後、最初の東京支部の稽古会に、二天一流第十七代師範の中村天信先生がお見えになった。
 中村師範は、寡黙な方。だから言葉に一切の装飾がない。今、心にあることをありのままにお話しされる。

 稽古開始前、参加した会員たちに対し、朴訥(ぼくとつ)とした話し方でこうおっしゃった。
 「一寸先は闇の世の中にあって、光明となるような二刀をするために、しっかり稽古しましょう」
 
 今でも胸に刻んで、稽古しています。


2019年5月7日火曜日

2011(平成23)年3月11日東日本大震災 居住地浦安も被災

ピンチをチャンスに


予兆のない出来事


 3.11東日本大震災で、かけがえのないご家族ご親戚を亡くされたご遺族の皆様に、改めてお悔やみ申し上げ、故人のご冥福をお祈り申し上げます。

 30年のブランクから剣道を再開して1年が過ぎたその日、私は東京ドームに近い職場で仕事をしておりました。
 突然の激しい揺れに危険を感じ、その場にしゃがみ込みました。
 生まれてこの方、こんなに強い地震は経験したことがありません。幸い職場の方たちにはケガはなかったので、外の様子を見に、職場の前の国道に出てみた。

 建物から飛び出してきたサラリーマンやOLが道路の中央分離帯のところに集まっている。建物内にいることや歩道への落下物に危険を感じてのことだ。泣き叫んでいる女性の姿も。
 近くの酒屋に目をやると、店内の酒という酒すべての瓶が棚から落ちて割れている。

20㎞歩いて帰宅


 これは、大変なことになった。
 職場にもどると、今日の仕事は中止だという。急いでしたくをして職場を出た。
 この時点では災害の規模は分かっていない。心配なのは妻と子供。二人とも浦安にいる。妻は仕事中で、息子は学校だ(当時小4)。
 浦安は埋め立て地で地震に弱い。海にも面しているので津波も考えられる。頼みのケータイも通じない。電車も止まっているらしい。家まで歩くしかない。
 
 調べてみると東京ドーム付近から浦安までは約20㎞。そんな距離は歩いたことはないが、とにかく歩き始めた。
 瞬く間に国道沿いの歩道は、帰宅を急ぐ人でいっぱいになった。

 私はこの数カ月前に右ヒザ半月板を損傷して手術したばかり。(その経緯はこちら
 20㎞も歩くことができるか自信はありませんでしたが、とにかく浦安にいる家族の無事をこの目で確かめたい一心で歩きました。

 同じ方向に歩く人の波の中で、私の後ろを歩く女性2人の会話が聞こえてきた。
 「今日中に家に帰れるかなぁ」
 「歩ける距離って、1時間で5キロよね」

 1時間で5㎞。浦安まで20㎞だから、4時間。21時前には着きそうだ。
 よし、こういう時こそナンバ歩きで歩こう!(ナンバ歩きとはこちら

 半月板の手術後のリハビリで、ウォーキングをしていた時、普通に歩いた日は手術した右ヒザが腫れるが、ナンバ歩きで歩いた日は腫れも痛みもなかったことを思い出した。

 3時間歩いたところで、疲労と空腹で座り込んでしまった。自宅まであと5㎞。幸いヒザは痛くない。しかし疲れて動けない。時計を見るともう1時間も座っている。
 気力を振り絞って再び歩き始めた。

 浦安市内に入ると街の様子がいつもと違う。
 車が1台も走っていない。
 停電で街の明かりはないが、暗闇の中でも風景が一変しているのがわかった。

浦安は液状化現象


 いつも通るコンビニの前。そのコンビニが何か変だ。
 よくみると、店内に砂が流れ込んでカウンターまで埋まっている。液状化現象だ。

 道路も波打って、平らなところなどない。アスファルトのひび割れから水を含んだ砂が噴出し、立ち往生した車が乗り捨てられている。道路脇の5階建てのビルの1階部分が地中に沈んで傾いている。街中のマンホールが人の背の高さほどに飛び出している。

 自宅マンションは大丈夫なのか。それよりも、学校にいただろう息子、職場にいた妻は大丈夫なのか。とにかく自宅を目指した。

 5時間かかって自宅マンションについた。周辺は液状化現象で道路も歩道も破壊されているが、マンション自体はいつものままだ。ただ、明かりのついている部屋はひとつもない。
 エレベーターも止まっているため階段を上って行き、自宅の玄関のカギを開けた。

 真っ暗な部屋の中に、妻と息子の笑顔があった。
 

仕事は1カ月"休業"


 仕事は会社から連絡があるまで自宅待機ということになった。事実上の休業。1カ月続きました。
 水道、電気、ガス、下水道など、ライフラインがストップしているため、まずは、その日その日の生活水と食料の確保が“仕事”になった。

 市内のライフラインが復旧したのは2週間後。水と食料の確保の“仕事”が必要なくなった。
 私の仕事はまだ再開されそうもないので、時間はある。
 市内の体育施設は液状化の影響で1年は使えないので、道場の稽古も再開の見通しが立たないらしい。
 リバ剣したばかりで、今またブランクを作りたくない。試合でも、ヘンな負け方をしているので、少しでも上達したいと気合を入れ直したところだった。

 「家で稽古できるように、しっかりした打ち込み台を自分で作ろう」

 1週間かけて木製の打込み台を作った。すべての打突部位が打てるやつ。
 リビングの椅子とテーブルをかたずけて、そこに置いた。
 この日から、リビングは道場に。家族からは大ヒンシュクをかったが、目標実現のためには仕方がない。リバ剣した時に、3年以内に市民大会で優勝すると決めたので(その時の経緯はこちら)、あと2年しかない。時間がないのだ。

稽古ができる環境をつくった


 液状化現象の影響でその年の市民大会も、早々に中止が決まった。すると次の市民大会はその翌年の5月。リバ剣して3年目になる。

 「よし、その大会に照準を合わせよう」

 大会まで1年以上ある。一から片手刀法の基本をやり直そう。この打ち込み台で、毎日稽古できる!

 この半年前の市民大会の負け方。(その様子はこちら
 あの負け方が、悔しくてしょうがなかったんです。


高校1年時に剣道継続を断念した理由 十二指腸潰瘍と極度の貧血

大好きな剣道をあきらめさせた病


初期症状は小学4年時


 現在(令和元年)、私は55歳になる。剣道を再開して9年がたち、その間に急性リンパ性白血病と診断され、闘病も経験した。
 この目まぐるしい、非常に充実した、“幸福”な9年間を中心に振り返って、現在このブログにしたためている。

 前回の投稿までに、高校1年時に剣道の継続を断念していることに、たびたび触れてきました。しかし、その経緯について記述していなかったことに気づいたので、今回の稿で明らかにしておきたいと思います。


1974(昭和49)年のこと。小学4年生だった私は、夜中に起こる「腹痛」に悩まされていました。しかし、トイレに行って小用をすると、その「腹痛」がなくなるので、親にも言わずにいました。

 5年生になると、その「腹痛」は授業中にも起きるようになります。多いのは午前中。空腹になると、痛みが出たんだと思います。
 担任に腹痛を告げて保健室に行くことが増えました。すると、学校から親にその状況が伝えられます。そして、ある日の放課後、母親と一緒に近所の内科医院を受診しました。
 
 症状を伝えると、なにがしかの薬を処方され、帰宅してから数日間服用しましたが効果なし。
 今度は胃腸科専門病院を受診した。すぐに胃透しの検査をすることになった。
 初めて飲むバリウム。当時の検査方法としてはここまで。胃カメラはまだ普及していませんでした。
 結果は胃には異常はないとのこと。ただの「腹痛」と診断された。

医者に対する不信感


 しかし、症状は悪化する一方。再度同じ病院を受診すると、診察の際、医者が同席している母親に“目くばせ”をしている。「この子は、仮病をつかっていますよ」と言っているのだ。それに気づいてしまった私は、いっぺんに医者を信頼する気持ちがなくなった。

 病院を替えるも、診断は同じ。子供ながらにも、今の医学はこんなものかと思いましたね。明らかな症状があるのに「異常はない」とは。
 6年生になるころには、一日数回、のたうち回るほどの痛みに襲われることもありました。

 中学生になると、一日に数回おう吐するようになりました。夜中でも激しい痛みは容赦なく襲ってきます。このころには、何をしても痛みが治まりません。ただ転げまわるだけ。睡眠時間は3~4時間しかとれません。
 こんな状態になっても、医者に対する不信感から、受診は拒絶していました。

胃カメラが開発されたが……


 高校受験が近づくころには、毎日血を吐くようになり、食欲もほとんどない。いよいよ医者に診てもらわなければならないと思い、受験が終わるのを待って、近所にできた総合病院へ。
 この時には、胃カメラが開発されていて、初めて内視鏡検査を受けることになった。
 検査の結果はやはり同じ。「異常なし」。しかし、この医師は“胃には”と付け加えた。
 
 どういうことかというと、私は生まれつき胃下垂で、胃が骨盤の近くまで下がっていたため、胃カメラが十二指腸まで届かなかったのです。当時の開発されたばかりの胃カメラは、全長が短かったんですね。だから届かない。それで、この医師は「胃には異常はない」と言ったのです。

当時の“常識”


 でもね、ここまで解っても、医者は十二指腸潰瘍を疑わないんですよ。もちろん私も両親も疑いませんでした。
 その理由は、当時、胃潰瘍や十二指腸潰瘍は「成人病」に分類されていた。つまり、“中高年がなる病気”とされていたのです。ですから、まさか小中学生が十二指腸潰瘍になるなんて誰も思わなかった時代なのです。
 「成人病」という名称が「生活習慣病」に変わり、中高年の病気という間違った認識が訂正されたのは、この数年後のことです。

 それで、この病気が放置されてしまった。一週間ほど入院しただけで治療らしい治療はなし。食欲が多少戻った時点で、退院となった。
 しかし、家に帰れば「腹痛」と吐血。高校に入学した時には、やせ衰えていました。

ドクターストップ


 そんな状態でも、剣道は何とか続けていました。剣道をやっている時だけは、痛みを忘れ、その苦しみから解放されるのです。しかし、高校1年の時、剣道部での稽古中にこんなことが起こりました。

 切り返しをするときには、最初に正面を打ちます。その勢いのまま体当たりして、切り返しに入りますね。
 私はかかり手で、元立ちの先輩の正面を打った瞬間のことです。突然、スイッチが切れたように全身の力が入らなくなったのです。その状態で体当たりしてしまった私は、後方に飛ばされ、受け身をとることもできずに、後頭部を床に強打してしまったのです。

 幸い頭は何ともありませんでしたが、倒れ方に異常を感じた顧問の先生に、病院に行くように指示されたのです。

 父親の友人の紹介で、御茶ノ水にある病院を受診しました。血液検査の結果、「極度の貧血」と診断されたのです。
 告げられた具体的な数値は覚えていませんが、正常値よりも数値が低ければもちろん「貧血」ですが、その数値をさらに低くした状態が「入院が必要な貧血」とすると、私の場合はさらにそれよりも低く、「危険な状態」ということでした。

 その場で、入院を強く勧められましたが、初めて来た土地で自宅からも遠く不安もあり、一人で決めることができずに、その日は薬を処方してもらい帰宅することにしました。
 その際、医師からこのような条件が付けられた。

  • いつどこで倒れてもおかしくない状態だと認識すること
  • 通学は車で送迎をしてもらうこと
  • 体育の授業や剣道は見学すること

 病院からJR御茶ノ水駅に向かう坂の途中で、「剣道ができなくなったオレは、何をすればいいんだろう」なんて考えてました。
 「腹痛」の原因が判明する前に、“極度の貧血”でドクターストップになるとは。

あっけない“終わり”と突然の“再開”


 その後、剣道部の顧問には退部を申し出ましたが、引き留められた。
 「休部にしておくから、病気が治ったらいつでも戻ってきなさい」
 暖かい言葉をもらいましたが、症状が快方に向かうことはなく、復帰することはありませんでした。

 大好きな剣道でしたが、やめる時はあっけなかった。

 病状は相変わらず。
 そして高校2年になって、さらに体調を崩した時に入院した病院で検査を受けた。「腹痛」の原因が十二指腸潰瘍と判明。このころ、ようやく胃カメラの長さが現在のように長くなっていたのです。

 当時は、潰瘍に対する特効薬がない時代。その薬が登場するのは、この8年後です。長い闘病生活を強いられました。

 いつしか、剣道のことはすっかり忘れ、30年の月日が流れた。
 もう思い出すことのなかった夢を、息子が思い出させてくれたのです。
 あの出来事で。

 

2019年5月5日日曜日

リバ剣 日常の稽古⑤ 期待されていない“リバ剣おやじ”

周囲の目は冷めている


道場のに通う子供の保護者たち


 「見た目は強そうに見えるんですけどね~」

 前回の投稿で、2010(平成22)年10月の市民剣道大会に出場したことを書きました。その大会後の懇親会の席で、ある保護者から言われた言葉です。
 まあ、言われてもしょうがないですよね。2大会続けて、ヘンな負け方をしてますからね。
 
 剣道をやっている人から言われるんだったらいいんですけどね。やってない人に言われると、傷つきますね。マジで。笑

目標は3年以内に市民大会優勝


 この目標は、リバ剣した時にたてたもの。(その時の状況はこちら
 私の場合、運動不足解消のためとか、子供と一緒に剣道がやりたいからとか、子供の稽古の指導を頼まれたとか、そういう目的で「リバ剣」したわけではありません。
 あることがきっかけでリバ剣を決意したのですが(そのきっかけは、こちら)、目標はガチンコ勝負で現役世代に勝つこと。その第一段階の目標として“3年以内の市民大会の優勝”を掲げたのです。

 しかし、1年たってもこんな状況でしたから、やはり現実は甘くないと思い始めましたね。
 そして、市民大会のレベルもあなどれないと思った。初心者から、私のようなリバ剣剣士、百戦錬磨の現役選手、熟練の高段者まで、垣根なく出場するのが市民大会。意外な猛者や伏兵がいるのも特徴です。
 また、市や県のレベルで代表に選出されている人が、市民大会出場を回避していることも見受けられます。そういった代表選手の中には、市民大会で“土”をつけたくない、負けたらかっこ悪い、そう思っている人も少なくないということも分かりました。
 私自身も、市民大会をナメてたな、と反省しました。

 でも、目標は決めてしまいましたから、それに向けてやるしかありません。

中学時代の恩師との再会


 リバ剣してもうすぐ1年。試合で結果が出てない現状に、暗中模索していたころです。
 お隣の市川市に小学生の剣道大会にを観戦しに、息子を連れて出かけました。
 市川市は、私が中学卒業まで剣道をやっていたところ。現在の小学生の試合のレベルはどうなっているのか、なんとなく知りたくなってのぞいて見た。

 会場の観客席に上がる通路で、懐かしい顔とバッタリ。同級生のJ君。中学と高校で一緒に剣道をやった仲間。会うのは28年ぶり。
 聞けばJ君も、十数年のブランクからリバ剣したそうで、その時二段だったのが六段まで昇段したとのこと。いきなり勇気をもらいました。

 その直後、今度は中学時代の剣道部の顧問にバッタリ。国士館大学出身の鬼のように怖い先生です。その先生が開口一番、「随分、穏やかな顔になったなぁ」ですって。
 私もそんなに怖い顔してたんですかね。笑

 30年ぶりに剣道を再開したことを伝えると、大変喜んでくれました。
 というのも、この先生は、私が高校に入ってから極度の貧血で剣道を断念したことを知ると、心配してわざわざ家まで来てくださったことがあるのです。それくらい、剣道と教育に熱心な先生。傍らにいた私の息子にもこんなふうに声をかけてくださった。

 「お父さんは、剣道が本当に強かったんだぞぉ」

 その時の、息子のうれしそうな顔、今でも忘れません。
 恩師からの証言ですからね。息子もやる気になったようです。

 私に対しては、こういう言葉をかけてくださった。

 「まあ、ケガに気をつけてやれよ」

 拍子抜けしました。笑
 全然期待されていないんだなって。運動不足解消でリバ剣したぐらいに思ってる。
 まあ、無理もないですね。ブランク30年で、このとき二段ですからね。そこそこのところでやってなさい、って感じでしょうか。

 「よし、絶対に驚かせてやる」

 その誓いが現実のこととなるのは、この2年後のことです。

予期せぬ出来事


 以前、防風林の雑木林の中で、打ち込み稽古をしていることを書きました。(その投稿はこちら
 あれは、雨の日以外は毎日続けていて、打ち込みに使用していた「カーボン竹刀」が2カ月でポッキリ折れるほど、熱が入っていました。

 仕事から帰宅して夕食を済ませて、まずは「ナンバ走り」を4~8㎞やります。(ナンバとはこちら
 その後、打ち込み用のカーボン竹刀を持って、海岸沿いの雑木林(防風林)に向かいます。いつも21:00ごろでしょうか。そこから、一時間半ぐらい片手で打ち込み稽古をします。

 街灯はありませんから、真っ暗な林の中で独り。目が慣れてきて、打ち込み用に据えた松杭がうっすら見えてきたら、稽古開始です。
 周囲にひと気は一切ありませんから、最初のころは恐怖心がありましたけど、慣れてしまえば本当に集中できる環境です。その日も、無心で稽古してました。
 
 しばらく稽古していると、背中にないはずの「人の気配」を感じたのです。
 恐る恐る振り返ってみると、5mぐらい後方に警察官が3人立っていた。何かの通報かパトロール中に来たんでしょうね。
 松杭の“頭”には緩衝材を巻き付けてあったので、打突音が響いたわけでもありません。コソコソしたら、不審者と思われるのではないかと思い、そのまま堂々と打ち込み稽古を続けました。
 数分しても、声をかけてこない。不思議に思って振り返ってみると、もうそこに警察官の姿はありませんでした。こんな夜中に、こんなところで剣道の稽古をしているんですからね。相当ヘンなやつだと思われたでしょうね。笑

 また、ある日のこと。いつものように真っ暗な雑木林の中で打ち込み稽古に熱中していた。すると、またしても「人の気配」。気味が悪くなって振り返ると、真後ろに人が座ってこちらを見てるんです。
 「ギャーッ」って、心の中で叫びましたよ。怖いなんてもんじゃない。真っ暗で誰もいない林の中で、知らない人が私をじっと見つめているんですから。
 警察官の時は、外見で素性が分かりましたからね。今回はどんな人か分からない。30歳ぐらいの男性ということだけ。本当に怖い。
 その人がニコッと笑って、声をかけてきた。

 「二天一流の稽古ですか?」

 その言葉を聞いて少し落ち着きました。剣道の関係者かなって。

 「そうです」と答えると、その方が堰を切ったように話し始めた。

 その方は、宮本武蔵の大ファンで、武蔵に関する劇画や小説、映画など、あらゆるものを研究しているそうで、川沿いの遊歩道を竹刀の大小を持って雑木林に向かって走って行く私の姿を見て、あとを追ってきたのだそうです。

 「もう少し稽古を見ていていいですか?」

 いやとも言えないので了解しましたが、気味が悪いので早々に稽古を切り上げて、その日は帰りました。

 その1週間後ぐらいでしょうか。その人と最寄り駅でバッタリ会ったのです。

 「先日はありがとうございました。本物の二天一流の稽古が見れるなんて思いませんでしたっ」

 スーツにネクタイ姿。きちんとした、いい青年でした。
 ああいう人のためにも、一日も早く理にかなった二刀ができるように頑張ろう。そう心を新たにしました。

子供だけは信じている


 子供って、「お父さんはすごい」って思っているところって、ありますよね。なにかにつけて。
 そういう子供の心を思うと、こちらもいい加減なことはできないし、手が抜けなくなってくる。そうすると、ますます自分の稽古に力が入ります。

 夜な夜な、竹刀を持って出かけていく“お父さん”。どんな稽古をしているのかと思ったんでしょうね。
 その日は、防風林の中の稽古についてくるという。2010(平成22)年の12月のこと。小雪がちらつく夜でした。息子は当時小学4年生。

 寒いからダメだと言ったんですけどね、どうしても聞かない。仕方なく許可して、一緒に海沿いにある雑木林(防風林)へ向かった。
 すると、林の入り口まで来たところで、帰りたいと言い出した。
 真っ暗な雑木林を見て怖くなってしまったんですね。

 「帰るなら、ここから一人で帰れ」

 そう言うと、心を決めた様子でついてきました。

 いつものように、ひたすら片手で打ち込み稽古をする私。傍らで座ってそれを見ている息子。小一時間ぐらいたったでしょうか。ちらつく雪の粒が大きくなってきた。

 「まだ終わらないの?」

 しびれを切らした息子が聞いてきた。

 「あと100本やったら帰ろう」と私。

 「じゃあ、ボクが数えるね!」

 そう言って、打ち込みを数え始めた息子。

 「………37、38、39、40、71、72、73………」だって。

 よっぽど早く帰りたかったんですね。笑


追記
 市内にこの一角だけ残っていた防風林ですが、この2年後にはその姿を消し、海浜公園に生まれ変わっています。白血病を患って退院後に、リハビリがてらこの公園に散歩に行くたび、あの日の思い出がよみがえります。


 

2019年5月4日土曜日

平成22年浦安市秋季市民剣道大会 屈辱的な負け方

剣道再開から10カ月目の試合


リバ剣後初の団体戦


 2010(平成22)年10月。リバ剣してから2度目の試合エントリーです。
 この秋季大会は団体戦のみ。個人戦は、春季大会で行われており、この年の5月に初参戦して2回戦敗退に終わっています。(その時の模様はこちら
 
 あれから5カ月。私なりに稽古を積みましたので、今回はもう少しいい試合ができるんじゃないかと、ひそかに思って参戦しました。

 この大会の団体戦は3人制で、私はこの時46歳で中堅。正二刀です。先鋒は30歳の左上段。大将は例の"お弟子さん"で40歳、逆二刀。(例の"お弟子さん"とは、こちら
 かなり目立ったチームになりました。道場の副会長が面白がって編成したようです。

 まあここまではよかったんですけどね。当日、会場入りしてビックリです。
 1回戦の相手チームは20代半ばで編成された、市内にある高校のOBチーム。
 勝てるわけありませんよ。この高校の柔剣道は全国レベル。私たちは、ただのオッサンですし、私はブランク30年ですからね。1回戦から現役選手との対戦が組まれるとは、主催者側の"意図"を感じました。笑

試合開始


 そういって、泣き言も言ってられませんからね。気持ちを入れ替えて、試合に臨むことになりました。

 先鋒は、お互い攻めきれず、時間切れで引き分け。

 次、中堅。私です。
 お相手は対二刀に慣れていないと見えて、小刀を警戒するあまりに、常に間合いをとっているんです。ですから、お互いに機をつかめない。打突がありませんから、両者反則をとられかねない展開になりました。
 私は焦りを感じ始めて、無理に間合いを詰めて打っていくんですが、有効打突にはなりません。打突の勢いで鍔迫り合いになりそうになると、これまた鍔ぜり合いを嫌って中途半端な間合いをとるんですね、お相手が。
 ここで主審の「ヤメ」がかかった。当然見ている誰もがお相手の反則だと思った。しかし3人の審判の合議の結果、反則は私についた。「正しい鍔迫り合いをしていない」ですって。
 両者反則ならまだしも、鍔迫り合いを避けるお相手が反則にならずに、私だけに反則ですって。観覧席がざわついているのが分かりました。
 後で分かったことですが、この審判の中に"アンチ二刀"がいて、その人が合議を主導していたんです。さらに、市剣連の上層部には2人ほど、"アンチ二刀"がいることもわかった。
 試合の方は、お相手もちゃんと鍔迫り合いをするようになったんですけどね。その時、先ほどの件で頭に血がのぼって、コート際で場外を背にしていることを考えてなかった。
そしたら、ポンと押し出されて場外反則。先ほどの反則と合わせてお相手に1本がついた。
 その後すぐに制限時間になり1本負け。

 そして、大将ですが、お相手は試合巧者で難なく引き分けに持ち込んだ。
 これで、チームは負け。勝敗は、私のところで決まったも同然です。

屈辱が大きな成長につながる


 悔しかったですね。子供の頃を含めてこんな屈辱的な負け方は初めてでした。いろんな意味で。

 まず、場外反則。春季大会のあの普通ありえない負け方と同じ。(その状況はこちら
 いまだに、コート感覚ができてなかった。恥ずかしいことです。

 そして、市剣連の"アンチ二刀"の存在。これはね、逆に私にパワーを与えてくれましたね。俄然やる気になった。正しい二刀をきわめて、必ずその方たちとの立合いを実現させて、理解してもらおう。そう心に決めた。
 "アンチ二刀"はね、正しくない二刀を最初に見ちゃってるからアンチになっちゃうんです。正しい二刀はちゃんと伝わります。一刀も二刀も同じ剣道ですからね。

 のちに、この"アンチ"の方々が一人ずつ二刀を理解していく様を、紹介していくことになります。

 でもね、一番困ったのが、例の大物二刀範士のお弟子さん。
 試合後に、道場のHPの掲示板に、私の二刀をクソミソに批判した投稿をしているんですね。まあ、この人からもパワーをもらいましたよ。
 この1年半後、この人とは、市民大会個人戦で直接対決することになります。

追記
 この時対戦したチーム。実は私の母校の後輩たちです。試合後に、挨拶に来てこう言ってました。

 「どうもすみませんでした」

 いい後輩です。笑


2019年5月3日金曜日

リバ剣 息子と稽古⑤「機をとらえる」「初太刀とは」

「石火の機」に挑む


正しい基本の稽古は一生するもの


 前回の投稿までに、足さばき、腰の遣い方、構え、一つ拍子の打ちを、息子と共に稽古し直してきたことを書きました。2010(平成22)年のことです。息子は当時小4。

 ここまでできても、安心はできません。一週間たてば足さばきが崩れる。すると、腰の遣い方が変わってしまう。それが、構えに表れる。体重移動の仕方が変わるので、一つ拍子の打ちができなくなる。
 これは、大人でも同じこと。自分で自分の基本を正しく修正することができるまでは、誰もが通らなければならない"難所"です。
 なぜ、"難所"なのか。自分で自分の基本を修正できるようにならないうちに、剣道から放れてしまう子供も多いからです。剣道の面白さが、全く解らないうちに辞めてしまうということです。
 ですから、なるべく早くこの“難所”をクリアさせてあげたいんですよね。そのためには、ある程度の厳しさは必要になってくる。それに耐えて、正しい基本を自分で稽古できるようになれば、「稽古の仕方」が解り始めるんじゃないでしょうか。
 やらされ感覚ではなく、本人が「稽古の仕方」を身に付ける。一生上達し続けるために、必要なことなんではないでしょうか。

「起こり」をとらえる


 正しい身体運用ができて、一つ拍子で打てるようになれば、「機をとらえる」ことができるようになります。
 息子は当時小学4年生。小さい子供にそんなことを教えるのはまだ早い、という人がいますが、「機をとらえる」のができないのは大人の方です。子供は素直ですから、正しく教えればすぐにできます。

 ご存じのように、機をとらえるところは三つ。居ついたところ、技の起こり、技の尽きたところ、ですね。
 まずは、技のおこり「出ばな」を息子に伝えました。
 教え方はいろいろあると思います。その子供に合った、理解できる教え方をすればいいと思います。息子には何パターンかの説明をしてすぐに理解できました。やや大げさに「起こり」を作ってやると、そこをとらえて“出ばな面”を打てるようになった。

「相面」自分を捨ててガチンコ勝負


 次は、相面を制することができるようにしました。
 相手が打ちかかってくるときに、恐怖心を捨てて正しい姿勢と動作で「打ち切る」ことができるように稽古した。もちろん、言葉ではなく稽古の中で子供自身が気づくまで何度も繰り返しました。

「初太刀」をとるということ、初太刀は「面」以外ありえない


 最近は、稽古が始まって、元立ちの先生に対していきなり小手を打って、「͡コテ、コテ、コテ」なんて言っている人が結構いますよね。昔だったらそんなことをしたら、ぶっ飛ばされて、帰らされましたよ。笑

 今の人たちは、初太刀で「面」以外を打つことが失礼なことだと分からない人が多いんですね。これも、「剣道のスポーツ化」が一因になっていると思います。残念なことですけどね。

 なぜ、「初太刀」を取りにいくのか。なぜ、初太刀は「面」なのか。
 このことは、回を改めて詳しく記述したいと思いますが、私が子供の頃に教えられたここを簡単にいうと、こういうことになります。

 真剣(日本刀)を執っての斬り合いで、最も理想的な勝ち方は、最初の一撃で相手を倒すということです。それに失敗すれば、次は自分が斬られるかもしれない。だから、「初太刀」に命を懸けるのです。
 命を懸けるというと大げさに聞こえるかもしれませんが、武士が抜刀するということは、その時点でもう後には引けない、すべてを捨てたという覚悟があるわけです。ですから、「初太刀」はまさに“命がけ”となるわけです。

 では、なぜ「面」なのか。これは、一撃で倒すためには、必殺技でなければならないということです。
 宮本武蔵は弟子たちに、「真剣勝負になったら、眉八文字を斬らなければ絶対に勝つことはできない」と常日頃から伝えていたそうです。「眉八文字」とは眉間(みけん)のこと。まさに「面」です。武蔵の養子である宮本伊織はのちに、武蔵は数十回の試合で眉八文字を外すことはなかった、と証言しています。
 剣道で一撃必殺の技は「面」なのです。他のどの部位を斬っても、相手は死に物狂いで反撃可能です。ですから、この「面」を稽古することが重要なのです。
 剣道の基本の打突は「面」から教わります。素振りも「面」、切り返しも「面」ですね。
 
 ゆえに、稽古で元立ちの先生にかかっていくとき、「初太刀」を必ずとるという気迫が必要です。昔は、初太刀をとりにこなかった子供は、稽古してもらえませんでした。ですから、何が何でも初太刀の「面」を取りにいくという気概がありました。

 ではなぜ、初太刀で「小手」や「胴」を打ったら元立ちの先生に失礼なのか。
 「スポーツ化した剣道」であれば、小手や胴も打突部位なんだから打ってもいいじゃないか、ということになっちゃうんでしょうね。
 試合であれば、いいですよ。どこを打ったって。勝負ですからね。
 でも、元立ちにかかるのは稽古です。「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」わけです。ですから「初太刀」は一撃必殺の「面」なのです。

 ちなみに古来、小手、胴、突き、というのは、面打ちの稽古の際、師が弟子に対し指導のために打った場所といわれています。

  • 「小手」を打って、攻めに対して手元が上がったことを教える。
  • 「胴」を打って、脇があまくなったことを教える。
  • 「突き」を打って、中心が取れていないことを教える。

 それを、稽古の最初に、元立ちの先生に対してかかり手やったら、失礼だということです。

 稽古の最初、「初太刀」の「面」を何が何でもとりにいく。返されり、応じられると分かっていても渾身の「面」を打つわけです。
 その「初太刀」で、稽古の“質”が決まると言ってもいいんじゃないでしょうか。わずか5分程度の地稽古が本当に充実したものになるかどうか。
 そして、最後も渾身の「面」で締めくくるのです。稽古をつけて頂いた最後に、「初太刀」よりも上達した「面」を打つ、“捨てて打つ”ことが、礼儀なんではないでしょうか。

 小4だった息子が、どこまで理解したか分かりませんけどね。でも、先生方に対して失礼な剣道だけはしてほしくなかったので、伝えるべきところは伝えたつもりです。

剣道の面白さを知る


 ここまでのことができれば、「剣道は面白い」と思い始めるのではないかと思います。ですから、ある程度の厳しさがなければならないんじゃないでしょうか。甘やかして楽しいだけでは身に付かないことはありますからね。
 結果的には、息子に一番厳しく稽古することになってしまった。それでも毎回、稽古の最初は私のところに一番に並んで来た。
 うれしかったですね。息子とこんなふうに剣尖で会話ができるようになるなんて思ってもみませんでしたから。

 便宜上、“教える”という言葉は使ってますけど、剣道は“教える”ことはできないと思っています。教えて全部できるようになるんだったら、誰も苦労はしませんからね。心を開いて、厳しい稽古を通して、自分が“学ぶ”しかない。
 大人はその稽古の仕方を“示す”ことしかできないんじゃないでしょうか。

後は指導の先生にお任せしました


 この時点で、子供に身に付けて欲しかったことは、大体伝えられたと思います。
 最低限の稽古の仕方を身に付けて、あとは心を開いて精一杯稽古するだけ。
 中学生ぐらいになって、真剣に試合に勝ちたいと思うようになれば、また伝えることがあるんじゃないかと。

 私は私で、自分の稽古に集中して、息子にその後ろ姿を見せるだけです。

 とりあえずは、“剣道大好き”になってくれてたみたいで、安心しました。
 

 ある朝のこと。
 その日は道場の稽古のある日。
 息子は起きてくるなり、こう言いました。

 「やったぁーっ!今日は剣道だぁー!!」

 昔の私と同じです。笑


2019年5月1日水曜日

リバ剣 息子と稽古④ 一つ拍子で打つ

正しい「一足一刀」で打つ


一足一刀の間合い


 2010(平成22)年8月。当時小学4年の息子と初めて稽古した時のこと。
 「一足一刀の間合いから打ってみて」と息子に言ったら、「届かないよ」って言われました。しかも、偉そうに。笑

 言うまでもなく、「一足踏み込めば打突部位をとらえることができる間合い」ですね。
 具体的な距離は規定されていませんが、互いの切っ先が5cmほど交差する間合いと言われています。
 剣道をやっている人ならこの距離感は体に染みついていると思います。
 
 では、この「一足一刀の間合い」から“一足一刀”で打てる人はどれくらいいるでしょうか。

 実際問題として、「一足一刀の間合い」からでは届かない人が多いのではないでしょうか。
 基本稽古で、「一足一刀で打て!」と言われて、もう一歩前へ出てから打っている人、よく見かけます。その場合の間合いを“打ち間”と称している方もいますが、いずれにせよ「一足一刀の間合い」ではありません。
 または、届かないので左足を右足の前に出して、つまり二足一刀で打っている人も多いですよね。
 私が子供の頃は、こういったことをしていたら、怒られたなんてもんじゃない。大変なことになりましたよ。笑

 現在は指導者によっては「一足一刀の間合いでは届かないから一歩入って打て」と言っている方もいます。ご自分が一足一刀で打てないんですね。

 「一足一刀の間合い」は“一足一刀”で打てるから「一足一刀の間合い」なんです。
 それが届かないのであれば、“一足一刀”で打つための基本、身体運用が崩れているということになります。

 息子の場合は、前回の投稿で記述した「一足一刀で打つための3つのポイント」を実践しただけで、すぐに打てるようになりました。本人が「絶対届かない」と思っていたものが、届くようになる。届くだけでなく“正しく”打てるようになったのです。
 
 何も特別なことをしたわけではありません。基本に忠実に打突しただけです。

 私自身も、「一足一刀の間合いから一足一刀で打つ」という基本稽古をすることによって、正しい基本ができているかどうかのバロメーターにしています。

 「届かないよ」なんて自信たっぷりに宣言してた息子ですけどね、基本通りに正しく打って届くようになった後の顔は、やっぱり輝いてましたね。

「二つ拍子」で打っている


 前回の投稿で、記述が途中になってしまいました息子の拍子のとり方。
 「二つ拍子」になっている。
 大きく打ったら「二つ拍子」で、小さく速く打ったら「一つ拍子」というわけではありません。(その違いは、前回の投稿をご覧ください)

 「一つ拍子」の打ちをやって見せるんですが、できない。道場の子供たちで「一つ拍子」で打っている子の打ち方を見せても、自分との違いが分からないんですね。「ボクだって、ちゃんとできてるじゃん」ってなっちゃう。

 「二つ拍子」で打つ人の特徴は、構えた時に右足に体重をかけて立っているんです。たいていの人の利き足が“右”ですからね。その方が楽なんですね。
 しかし、打つためには、右足にほとんどの体重がかかっている状態からでは、打てません。一度、左足に体重を移してから、右足を上げて前方へ踏み出すことになります。
 この「左足に体重を移したとき」に拍子を一回とっているんですね。すべての動作がほんの一瞬ですが止まります。
 そのほとんどの人が、左足を動かす。体重を乗せやすい位置まで左足を継ぐんですね。

 立合う相手から見れば、ここが機になるわけです。打つ前の左足を継ぐという動作が、「起こり」となってはっきり表れる。余談ですが、息子は後に、この相手の「起こり」をとらえられるようになって、試合に勝てるようになっていきました。

「一つ拍子」の打ち


 「一つ拍子」で打つために大事なことは、常に敵(相手)を想定することです。
 「一つ拍子」で打てるということは、理合(りあい)を体現するための前提条件です。「二つ拍子」でしか打てない人は、理合の体現は難しいのではないでしょうか。理合の体現は独りよがりではできません。お相手が自分を斬ろうとしている、斬りかかってくる、あるいは斬りかかってきた、という状態が必要ですね。
 たとえ打ち込み台が相手でも、基本稽古の時も、相手を想定してこれらの機をとらえようとする心持が必要です。そうでないと絶妙な体重移動が伴いませんからね。

 そしてもう一つ大事なことは、前述した体重移動。
 右足に全体重がかかっていては、機をとらえられませんから、左右の足に均等にかける。打つ時は左足は継がず、構えた状態から右足を前方に出す。大きく振りかぶっても小さく振りかぶらずに打っても同じです。

 防具を着けずに一人で打つと、「一つ拍子」で打てる人も、防具を着けて相手と向かい合うと左足を継いでしまう人、多いんですよね。

 息子にはなかなか理解してもらえませんでした。自宅で、簡単な打ち込み台まで作って稽古しましたが、どうしてもできない。左足を継いでしまう、体重移動の仕方を直せないんですね。当時、小4ですからね、まだできなくてもいいんですけど、できている子供もいますから。親が剣道をやっているのに、そのままではかわいそうだと思いましてね。

 そのころ、私が好きで観ていたのが『座頭市』のDVD。北野武監督のやつ。

 「そうだ、これを見せてみよう」

 名刀を手に入れた悪徳商人が、自分の使用人に試し斬りを命ずるシーン。
 たまたま通りがかった目の不自由な座頭市は恰好の餌食と思われた。名刀を抜いて上段に構える使用人。息を殺してそのまま座頭市の左側に回った。座頭市は気配、呼吸、わずかな物音から相手を正確にとらえている。座頭市の“仕込み杖”の柄に右手がかかった。
 使用人が息を継いで名刀を一気に振り下ろそうとする刹那、その「起こり」をとらえた座頭市が抜き打ちで名刀の柄を両断した。柄を斬ったのは相手が素人とみてのこと。

 息子は真剣に画面に見入っていました。

 「座頭市は刀が鞘(さや)に収まった状態から“一つ拍子”で斬っている。これは抜刀術というんだ。お前は鞘から抜いて、構えた状態から打つんだから、“一つ拍子”ができないわけがないよ。やってごらん」

 おもむろに竹刀をとって打ち込み台に向かった息子。

 スパァーン!

 「一つ拍子」の打ちができるようになった瞬間でした。


注目の投稿です

宮本武蔵『独行道』「我事に於て後悔せず」を考察する

後悔などしないという意味ではない 布袋観闘鶏図 宮本武蔵 後悔と反省  行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた...

人気の投稿です