2019年2月13日水曜日

白血病の治療は壮絶なもの

競泳選手の池江璃花子さんが白血病であることを公表されて一日たった


医者には患者の気持ちを代弁できない


 各メディアには血液内科医が出て、白血病についていろいろ語っている。
 
 あくまでも治す側、医者の立場で。

 この方達は、もちろん白血病にはなったことがない。だから白血病治療の現状を話しているだけ。どの医者も話の内容はほとんど同じです。まあ当然といえば当然です。

 私も、“白血病”と診断されて、担当医からそういった話をひと通り聞きました。
 その2日後に化学療法(抗がん剤治療)が始まったんですが、実際には、想像を絶するようなことが次々と自分の体に起こってくるんですね。


 一方で、各メディアは白血病を克服した経験のあるアスリートや俳優に取材をしていますね。
 皆さん、池江さんに心からのエールを送っていました。

 しかし、その取材に対して、ご自分の治療はどうだったのか、あまりくわしく話されている方はいなかったような気がします。
 取材時間の制約もあるでしょうから、すべてを話すことは難しいでしょうけど。本来、話したいことの10分の1も話していないんじゃないかな、と思って観てました。

 その理由はわかります。治療が壮絶すぎるからです。安易に話すことができないんですね。医者にも患者側からの話はできません。


 今日、78歳になる実家の母から電話がありました。

 「池江璃花子さんて、お前と同じ病気なの?入院中のお前の姿を思い出しちゃって、足の震えが止まらないんだよ」

 白血病は造血幹細胞(骨髄)が癌になる病気。しかし、他の癌のようにステージ“いくつ”っていうのがない。それは、白血病と診断された時は、あえて言うならばステージⅣの末期だから。
 その末期の状態から、全身の骨髄に広がった癌細胞を消滅させるために、抗がん剤を投与するわけですから、非常に危険な治療になります。
 
 白血病の治療は壮絶なものです。

    池江さん、この治療、必ず乗り越えてくださいね。


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2019年2月12日火曜日

池江璃花子さん頑張って!私も白血病患者です

 今日の昼過ぎ、突然入ってきたニュース


 「競泳女子の池江璃花子がツイッターで白血病を告白」


 一瞬、自分の目を疑った。
 「あの池江璃花子が……」「白血病……」「オレと同じ病気……」
 かわいそうすぎます。
 私は52歳で白血病になりました。池江さんは18歳ですか…。
 若い人が白血病になったと聞くたび、胸が締め付けられる思いがします。
 
 白血病は癌です。造血幹細胞が癌になる。ひらたく言えば、全身の骨の中にある骨髄が癌化する病。その骨髄で血液が造られますから、正常な血液が造られなくなる。免疫力が低下する。
 最終的には、普通の人なら何でもない空気中の雑菌や指先についたばい菌が、口の中に入っただけで40度以上の高熱が出る。肺炎や敗血症などにかかる。死に至る。

 私は入院中に敗血症になるところまでいきました。その時は熱が41度。3日間続きました。「ああ、人間はこうやって死んでいくんだな」と思いましたね。もうそうなると失禁しちゃうんですね。

 白血病は治療しなければ、生存率0パーセント。ステージいくつっていう段階はない。発症した時はもう末期なんです。
 
 私は白血病の知識がなかったので、2日後に抗がん剤治療を開始することを医師から告げられた時に、「来週からにしてもらえませんか?」なんてのんきなことを言ってしまった。そしたら、「それでは間に合いません」と言われましたね。

 私が入院中、同じ病気の方で、治療の副作用のあまりの苦しさに耐え切れず、治療を中止して退院してしまう方もおりました。胸が痛みます。

 池江さんには、これから始まる長期間の治療にしっかり耐えて頑張ってもらいたいです。

 『池江さん、夢と目標を忘れず、ガンバレ!!!』



このブログ上部の「急性リンパ性白血病」のページに私の闘病記を投稿しています。今後も加筆・更新してまいりますので、よろしければそちらもご覧いただければと思います。


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2019年2月11日月曜日

現在の二刀流をリサーチ。そして新たな出会いが!

リバ剣を決意したのは2009(平成21)年秋


「30年ぶりに剣道をやろう!」「二刀でやろう!」「子供の頃の夢を、一つ実現させよう!」


 そう決断した晩のこと、まず現在の剣道界のリサーチをしようとPCに向かい、全日本剣道連盟のHPを開いた。(リバ剣を決意したきっかけは、こちら
 手当たり次第に記事を読みましたが、チンプンカンプンでしたね。記事に出てくる人名も誰一人わからないし、取り上げられてるいろいろなイベントもなんだかよくわからない。あまりのブランクの長さに改めて気付かされました。

 で、“お勉強”はあきらめて、動画を検索することに。
 小学生から一般まで、立合いの動画を深夜まで見続けた。
 そして、お目当ての二刀者の立合いの動画にたどり着きました。

二刀流(片手刀法)の継承が、断絶してるのか?


 大学生の二刀者、市民剣士の二刀者、高段者の二刀、二刀でその頃の最高位の方など、現在の二刀の立合いの動画を見れば見るほど、「あれっ????」って感じ。
 
 私が子供のころ、昭和40年代から50年代に見ていた二刀と全然違う。
 私の知っている片手刀法とは、まるでほど遠いものに見えました。
 諸手左上段の理合のまんま、右手に小刀を補助的に持って剣道をやっているという感じです。

 古流を学んだわけでもなく、ただ全剣連が定めた規則の範囲内で、自分で工夫なさって二刀をやっている方々。それはそれでいいと思います。ご本人の自由ですからね。
 しかし私には、二刀の醍醐味、片手刀法の醍醐味がまったく感じられなかった。
 二刀の理、片手刀法の理が継承されていない、断絶してしまっている、そう思いました。とても寂しい気持ちになったのを覚えています。

二天一流武蔵会との出会い、そして衝撃の動画


そのあと、ちょっと気持ちを切り替えた。
 「二刀を基本から教えてくれるところを探そう。古流だ。二天一流の道場を探してみよう」
 検索でヒットしたのが「二天一流武蔵会」。二天一流の形稽古だけでなく、竹刀稽古もやっているらしい…… 師範の立合の動画…… 再生……

   「これだあぁぁぁぁぁぁーっ!!!!」

 子供のころに見たあの二刀。見るものを魅了し、二刀の理を体現し、華麗に舞う。
 立合う相手を自らの運動世界の中に引き込んでしまうような、二刀の醍醐味。
 自由自在の片手刀法。圧倒的な打突力。

継承されていた二刀流、そして片手刀法


その時、深夜2時をまわっていました。

「二刀の理の継承は断絶していなかった。ここに入門しよう。これで本物の二刀が基本から学べる!」
  
 翌朝、妻が言いました。
 「あんた昨日の夜は、ずいぶん大きな声で寝言を言ってたね。『これだぁー』って」
  
 


2019年2月9日土曜日

この出来事で、剣道再開を決意!しかも二刀で!!

突然息子がとった行動


あのバスの中の自分と重なる


 前回の投稿で、終バスの中でのエピソードを書きました。
 希望に満ちあふれた時代でした。

 その後、16歳の時に十二指腸潰瘍でドクターストップ。当時は潰瘍にいい薬なんてまだなかった。運動全般を禁止されてしまったので、剣道はあきらめるしかなかった。
 意外でしたが、あれほど大好きだった剣道をすんなり忘れられた。それほど病気がつらかったんですね。

 時が過ぎて、結婚し、数年後やっと子供を授かった。男の子一人。
 その息子が小学校に入るころ、「剣道がやりたい」と言うので近くの道場に通わせることに。「血は争えないな」と思いつつ、その頃の私は剣道には無関心。道場に付き添いで行くこともしませんでした。

 ある晩、家のリビングで寝転びながらテレビを観ていると、そこへ剣道の道場から、小学3年になった息子が帰って来た。

 「お父さん、二刀流ってこうやってやるんだよ!」
 
 リビングの扉を開けるやいなや、道着・袴姿の息子が上下太刀の構え(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をやったんです。

 私は「うわぁぁぁー」と大声で叫んでしまった。

 今、目の前に37年前の自分が現れたようで、飛び起きちゃったんですね。
 あの終バスの中で、車掌さんに向かって二刀の構えをやっていた私が突然目の前に。
 息子は顔がその頃の私にそっくり。その時の道着・袴姿も同じ。学年も当時の私と同じだったのです。
 そして同時に、初めて二刀流を見た時の衝撃の光景が、走馬灯のように頭の中を流れた。

 そして、あの頃の決意を思い出したんです。将来、二刀をやるという。

 後からリビングに入ってきた妻に言いました。

 「オレ、明日から剣道をやる!」


2019年2月8日金曜日

剣道 片手刀法に魅了された少年時代 その2

「将来は二刀をやる!」

時間のたつのも忘れて


 小学3年の時、二刀流との衝撃の出会いがあって、すっかり片手刀法のとりこになってしまった私。(その経緯は、前回の投稿をご覧ください)

 自分の稽古が終わっても、その二刀の先生の稽古が始まると目がくぎ付けになってしまい帰れない。
 「なんで片手で打っているのに、あんなに強く打てるんだろう」「なんで歩み足でやってるんだろう」「なんで右足が前でも左足が前でも打てるんだろう」「なんでこんなに多彩な技が次々と繰り出せるんだろう」「二刀対一刀、明らかに条件が違うのにお互い真剣に戦っている。剣道はスポーツではなく武道なんだ!」時間のたつのも忘れて見入っていました。

道場の帰りに 


 道場へは、路線バスを使って片道25分かけて通ってました。
 ある日、いつものように二刀の先生の稽古を熱中して見ていたら、帰りが最終のバスになってしまった。
 当時は、路線バスには車掌が乗っていて、道着姿で竹刀を持った低学年の小学生が終バスに乗ってきたので、驚いたんでしょうね、声をかけてきた。

 「おい坊主、今日はなんでこんなに遅いんだ?」
 「二刀流の稽古を見学してたんです」
 「ここの道場の二刀流の先生は有名なんだってな。オレも見てみたいなぁ。二刀流ってどうやってやるんだ?」
 「こうやってやるんです!」

 若い車掌を相手に、上下太刀の構え(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をやって見せた。懐かしい思い出です。

 この37年後に、まるで同じような出来事が私の目の前で起こって、私の人生を変えてしまうとは……。このことは、別の機会に改めて書きます。

日本武道館での稽古


 話は戻って、当時のこと。
 そのころ、毎年正月に日本武道館で小学生が参加できる稽古会があったんです。
 元立ちの先生に小学生が稽古をお願いする自由稽古だったと思います。
 会場は全国から集まった少年剣士で埋め尽くされていました。
 みんな初めてお目にかかる元立ちの先生方に次々と稽古をお願いしていく。

 で、私はというと。防具を着けて、面も着けていますが稽古はしません。必死になって二刀を執っている元立ちの先生を探し回ってるんです。笑
 毎年、その稽古会で二刀者は一人いるかいないか。見つけてもかかっていかない。客観的に見れなくなってしまうから。二刀の見取りをする大チャンスなんです。そんな変わった子供でした。
 
 現在は二刀者は増えてきました。各支部の剣道連盟に数名いるところもあるんじゃないでしょうか。
 当時は非常に少ない。たいへん貴重な存在でした。昭和40年代。ビデオカメラなんて一般には普及していない時代ですから、見たいと思っても見ることができない。
 長年剣道をやっていても二刀剣道を見たことがない人はたくさんいたと思います。

誤解と偏見


 二刀者が少なかった理由の一つに、“片手打ち”に対する偏見があったと思います。
 「片手で打つなんて邪道だ」「相手に対して失礼」「有効打突にならない」なんてことが、まことしやかにささやかれていました。

 諸手上段や片手上段、そして二刀。片手で打つ刀法はことごとく否定され、偏見の嵐が吹きまくっていました。上段に対する"胸突き”のルール(上段に対する突きは、突き垂れだけでなく胸部も打突部位に入るというもの)ができたのは、この数年後のことです。このルールの導入で、上段を執る者は激減していきます。

 私の通う道場の二刀の先生も、そういった意味でたいへんなご苦労をなさっていたと、子供ながらに感じていました。
 そんな状況ですから、身近に素晴らしい片手刀法の継承者、二刀の先生がいても、それを習おうとする若い人がいなかったんですね。

 小学生だった私は、こんなことを胸に秘めながら剣道をやっているようになっていました。

 「高校生になったら、この二刀の先生に弟子入りして二刀流を習いたい。そして将来、二刀で全日本選手権に出場したい。そのために今は一刀で頑張って強くなる。二刀をやる時に誰にも文句を言われないようにしてやる」


 まあ負けん気の強い子供でした。

 しかしこの頃、すでに病魔は忍び寄ってきていたんですね。16歳になり、夢をあきらめることになるとは……。(その原因はこちら
 

2019年2月7日木曜日

剣道 片手刀法に魅了された少年時代 その1

二刀流 故松崎幹三郎先生 


「真の二刀流」の目撃者になった


 子供のころ所属していた剣道の道場に、二天一流の二刀を執る先生がいらっしゃいました。

 その先生が稽古をしているところを初めて見たのは、小学3年の時です。衝撃的でした。

 他の先生方はもちろん諸手で竹刀を振っている。その中でただ一人片手で竹刀を振り、両手に1本ずつ竹刀を持っている。しかも一方の竹刀は極端に短い。二刀流だ。
 足さばきは「歩み足」。右足が前でも左足が前でも打っている。一切下がることなし。打ち損じがほとんどない。振ったらすべて一本だ。
 圧倒的に強い。それでいてとても美しい。まるで踊りを踊っているようだ。

 あれから46年たった今もはっきり覚えているんですね。あの時の光景が脳裏にやきついている。足の指の動きまで。

 その二刀の先生は稽古に入る時、お相手に「一刀でやりますか?二刀でやりますか?」と聞く。お相手が「一刀で」と言ったら、竹刀を取り換えるために一旦下がる。一刀用の竹刀に持ち替えて、礼法から蹲踞、抜刀、そして構え……
 今度は右片手上段です。今ではお目にかかることのない片手上段。片手で構えて片手で打つ。竹刀を持たない方の腕は体側に下げたまま。片手で上段からすべての打突部位を見事にとらえる。応じ技も片手で応じて片手で打つ。その華麗さは、諸手上段の比ではありません。
 
 松崎先生は、大正生まれで、昭和初期の旧制中学の時に剣道を始め、その時の指導者が二刀者だったために初心者から片手刀法だけを習った方です。
 ですから、諸手一刀中段は習ったことがないのです。そういう方がいらっしゃたんですね。昔は。
 東京帝国大学卒で、人格的にもすばらしい先生でした。



 「大人になったら二刀をやりたい。片手刀法で試合に勝ちたい」



 その後、16歳の時に十二指腸潰瘍の悪化に伴う極度の貧血で、剣道をあきらめました。


 「もう剣道をやることはないだろう」


 それから30年後、あるきっかけであの衝撃がよみがえり、二刀で剣道界に復帰するとは……

 (そのきっかけとは、こちら


2019年2月5日火曜日

平成30年 二刀で千葉県剣道選手権大会(全日本剣道選手権大会千葉県予選)に出場

忘れかけていた夢への挑戦


千葉県剣道選手権大会


 2018(平成30)年の9月、54歳にして千葉県剣道選手権大会に初出場しました。ダントツの最年長でした。笑
 
 9年前に30年のブランクから剣道を再開するも、一昨年、急性リンパ性白血病になり、約1年間の闘病生活を送りました。
 昨年4月に、仕事と剣道に復帰。5月に地元市民大会に強行出場し、壮年の部で優勝しました。
 
 大病をしたことによって、やり残したことでやれることはすべてやっておこう、と思うようになり、子供のころに目標にしていた千葉県剣道選手権大会に出場することにしました。

 しかしこれがよくなかった。昨年9月の試合当日、どうも調子が悪い。体に力が入らないんです。試合に向けて稽古を頑張りすぎちゃったんですね。
 
 長期間、抗がん剤治療をした後なので、本当はもっとゆっくりペースを落として、体調を見ながら稽古をしていかなければならないのに、いきなり元のペース全開で稽古してしまった。
 これですっかり体調を崩してしまったんですね。

 試合の方は、一回戦の第一試合。出場者の中で最年長者が二刀を執って出るのですから、大注目を浴びました。
 内容はさんざんで、体に力が入らないので、まるで自分の体でないような感じ。フワフワしちゃって機がとらえられない。打っても打っても当たっても当たっても旗が上がらず、延長で20分以上試合してました。
 最後は精も根も尽き果てて、足が止まったところに、面に乗られてしまいました。

 試合後は、着替える体力もなく、観客席で防具を着けたまま1時間座り込んでしまいました。
 無謀でしたが、まあ自分らしいといえば自分らしい挑戦の仕方だったなと思います。

 人生波乱万丈

 次の千葉県剣道選手権大会も挑戦できる機会があればしてみたいですね。

 まずは体調を万全にしなければいけませんね。
 

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